 |
富山城天守 |
神保長職の居城でしたが上杉氏、佐々成政、前田利長など城主が変転しています。前田氏が大規模な改修を行って近世城郭の姿を見せるようになりました。聚楽第型城郭としてかなり大きな方形の郭を持っています。 |
越中国では、南北朝時代には、南朝方の桃井直常が活躍していましたが、その後は斯波氏が越中守護となり、さらに畠山氏が能登国と越中国の守護となりましたが、越中守護畠山氏は畿内にあり、能登畠山氏は基本的には能登国に在住し、越中には守護代の神保氏が婦負郡と射水郡を支配し、椎名氏が新川郡を支配していました。さらに蓮沼城には遊佐氏が在城していて礪波郡を支配していました。能登畠山氏は七尾城に君臨し、越中守護を兼ねるようになっていましたが、重臣たちとの抗争も激しく越中への影響力は限られていました。
このため、越中は守護代の神保氏、椎名氏、遊佐氏の3氏が統治していました。この頃、隣国加賀では一向一揆が強大な勢力を持つようになり、越中にもその勢力が伸びていたので一向一揆の力が強まることになりました。そして遊佐氏は一向一揆勢力に圧迫され、越後に逃亡することになり、他の2氏の支配力も一国を完全に支配するまでには及ばなかったのです。しかし一向一揆もこれら2氏を完全に打倒して加賀のように一国支配するまでには至らなかったのです。
つまり、戦国時代の越中には一国を完全に支配するような強力な戦国大名による強い支配政権が成立せず、国内における権力闘争や隣国の侵攻などを受けてそのたびに争乱が起きる事態になったと考えればいいでしょう。
越中では戦国期には守護が在国せず、守護代が婦負郡、射水郡を支配する神保氏と新川郡を支配する椎名氏に分かれていたのと、礪波郡南部は実質的に一向一揆が支配するようになり、勝興寺、瑞泉寺などの城郭伽藍を拠点に強い力を持つようになっていたので、越中一国を支配する戦国大名が登場しなかったのです。その中でも神保氏は越中国では最大の勢力を持つ大豪族であり、1493年(明応2年)には明応の政変に遭い幽閉された室町幕府10代将軍足利義材が京を脱出した後、越中守護代神保長誠の放生津城に入り、次いで正光寺を改装した御所に入っています。この足利義材は越中公方と名乗り放生津政権を築いたのですが、この時期は神保氏がかなり力を持つようになっていた事は間違いないでしょう。しかしそれは能登畠山氏や越後長尾氏が疑念を持つようになるきっかけだったでしょう。この後、神保氏が隣国の圧力を次第に受けるようになり、それらとの抗争が始まるのです。
神保氏はこの後も次第に越中での権勢を強めたため、能登・越中守護畠山氏は神保氏追討を考えるようになったようです。
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守山城本丸 |
越中三大山城の1つで神保氏の居城でしたが、前田利長が支配するようになり、富山城に移ると程なく廃城となっています。 |
永正3年(1506年)9月に長尾能景が一向一揆の攻撃を受けた神保氏からの救援要請を受けて越中に出兵します。当初の戦いでは越後軍が神保氏と協力して一向一揆軍を破りましたが、能景は般若野の戦いでは神保慶宗に裏切られて一向一揆軍の計略にかかって敗死してしまい、越後遠征軍は壊滅してしまうことになります。このあたり生き馬の目を抜く戦国時代といった風ですが、この裏切り劇のため、能景の子・長尾為景は神保氏を仇敵視するようになり(当然ですね)、神保慶宗と激しい抗争に入るようになりました。神保慶宗は、能登畠山氏の策謀を察知したか、一向一揆と結んで畠山氏から独立する動きを見せるようになったため、永正16年(1519年)に越中守護畠山尚順は能登守護畠山義総と長尾為景を誘い、猶子畠山勝王を主将とする神保慶宗征伐の軍を起こしています。神保慶宗は境川の戦いで敗れて退却し、守山城に籠城して苦戦を強いられましたが、攻囲軍は寒気に苦しめられ、神保軍は能登畠山軍を急襲してこれを撃退して、窮地を脱しています。
しかし翌永正17年(1520年)に再び畠山・長尾連合軍の侵攻を受け、神保・椎名連合軍はこれを迎え撃ちますが、守山城を奪われ退路を断たれた神保軍は、12月22日に新庄城に陣取る長尾勢に総攻撃をかけて、両軍とも多大な損害を出しますが、ついに神保・椎名連合軍が敗北し、神保慶宗は敗走中に自刃したと伝えられています。この戦いで椎名慶胤も敗死して、神保氏と椎名氏の勢力は大幅に衰えることになり、その後しばらくは越中では一向一揆と長尾氏の勢力が衝突するようになります。
天文年間(1532年~1554年)に入ると、神保氏、椎名氏とも勢力を盛り返すようになり、神保慶宗の遺児・神保長職と椎名慶胤の遺児・椎名康胤が復活を遂げ、神保長職は天文12年(1543年)には富山城を築いて、ここから新川郡を伺うようになり、椎名康胤は難攻不落の松倉城に拠って越中の覇権をめぐって争うようになります。
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松倉城本丸 |
越中三大山城の1つで椎名氏の居城でしたが上杉氏に追われています。多数の郭と周辺には多数の支城を持ち、松倉金山を擁する巨大な山塞です。県史跡です。 |
これを世に「越中大乱」と呼んでいます。
富山城を築いた神保長職は直ちに神通川を越えて新川郡に進出して、椎名氏を攻撃しています。この頃の神保氏は往年の勢いを取り戻して椎名氏を圧倒するようになっていたようです。もともと越中では最大勢力を持っていた神保氏の力は侮れないものがあります。
天文13年(1544年)には能登畠山氏の仲裁により和睦していますが、神保氏は常願寺川以西を領有するようになり、神保家を越中最大の勢力に築き上げています。
永禄年間(1558年~1569年)に入ると、椎名康胤は越後の長尾景虎(上杉謙信)の従弟・長尾景直を養子に迎えて後ろ盾にしたため、神保長職はこれに対抗するために謙信の宿敵であった甲斐の武田信玄と同盟を結んで対抗しています。また、信玄は石山本願寺の顕如と縁戚関係にあったことから一向一揆も神保氏に味方することになり、越中大乱は信玄派の神保氏と謙信派の椎名氏による、いわゆる武田・上杉の代理戦争という意味を持つようになったのです。
永禄2年(1559年)には神保長職が再び椎名氏への圧迫をはじめ、長尾景虎(上杉謙信)により仲裁を受けていますが、その翌年にも3月には神保・一向一揆連合軍が椎名氏の居城松倉城に侵攻します。この戦いは信濃平定を目指す信玄が謙信(長尾景虎)の矛先をかわすため、神保氏・一向一揆に要請して起こった合戦でした。
越中国の権益を守るために謙信は越中に出兵して一向一揆を破り、神保長職の居城富山城を落としたため神保長職は増山城へ逃れています。しかしここからも逃亡していったん行方知れずになっています。要するに神保軍の松倉城攻めがかえって上杉軍の大規模な攻勢を呼び込んでしまい、上杉軍はたちまち越中の大半を制圧したわけですが、直後に北条氏康に圧迫されていた関東諸侯の要請を受けて関東に侵攻することになったため、神保長職を完全に追討することができずに引き上げたため、神保長職は謙信が関東に出兵していた隙に増山城を奪還して復活しています。
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増山城本丸にある神水鉢 |
越中三大山城の1つで神保氏の居城となっていましたが、後に上杉氏に滅ばされています。さらに佐々成政、前田氏と所有者が変転しています。中世山城の典型例で、要害堅固な山城です。北には支城である亀山城があります。国史跡です。 |
このため永禄9年(1566年)6月には謙信の第2次越中出兵が行なわれ、増山城とその支城である滝山城を落とされた長職は、再び逃亡していますが、後に謙信と和睦しています。
二度にわたって謙信に大敗して、居城富山城を奪われた神保氏の勢力は大きく衰え、それ以後は謙信派であった椎名氏の勢力が拡大しています。もともと椎名氏の居城松倉城は背後に松倉金山を抱えていてここからの金の産出で潤っていたのです。
ところが永禄11年(1568年)3月、突如として椎名康胤が武田信玄と一向一揆の後援を受けて謙信に反逆するという大事件が発生します。これは要するに椎名氏が信玄にそそのかされたわけですが、信玄は駿河侵攻のために謙信を牽制する必要があったための謀略でした。しかし相変わらず信玄はやることにそつがないですね。
上杉謙信は大軍を率いて越中に侵攻し、魚津城や金山谷城、松倉城などを次々と落とし、康胤が立て籠もっていた守山城を攻撃しましたが、越後国内において上杉家の重臣で本庄城主であった本庄繁長がこれも信玄の調略を受けて謀反を起こしたため、椎名氏を追討することができずに帰還することになります。つまり椎名康胤は九死に一生を得たわけですね。
永禄12年(1569年)に本庄繁長の反乱を鎮圧し、北条氏康との越相同盟を結んで後顧の憂いを無くした謙信は、8月に第4次越中出兵を行ない、椎名康胤の立て籠もった松倉城を攻撃しましたが、信玄の要請を受けて康胤の後詰めとなった一向一揆の抵抗に悩まされた上、信玄が上野方面に出兵したため、謙信も越後に帰還することを余儀なくされています。このため、椎名・一向一揆連合軍により富山城を奪われる結果となって、遠征は失敗に終わります。どうも謙信は信玄の謀略に振り回されている感が強いですね。上杉氏は、越中だ関東だとあちこちに転戦しているのですが、一度占領した土地を確保する方法に問題があったようです。武田信玄は、一度奪った土地を他に取り戻されるということはありませんので、その統治手法には歴然とした差があったようです。しかし神保氏にしても椎名氏や一向一揆にしても何度叩かれても息を吹き返してくる不屈の精神は見習うべきです。彼らの勢力は決して侮れないものがあったということでしょう。
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日宮城全景 |
神保氏の持城ですが上杉氏の手に落ち、一向一揆に包囲されて、開城しています。 |
元亀2年(1571年)2月には謙信は第5次越中出兵を行ない、松倉城や新庄城、富山城を落として椎名康胤を守山城に追いつめるのですが、武田信玄が再び上野や関東・東海地方に出兵したため、謙信は越後に帰還することになり、椎名康胤はまたも息を吹き返すことになっています。
なお、この頃になると神保氏では長職の長男であった長住が内紛により失脚し織田氏の元に逃れ、次男の神保長城が後継者となり、長城は信玄を後ろ盾とした椎名氏と対抗するために逆に謙信に従属していました。
しかし元亀2年(1571年)には神保氏が一向一揆と和睦して再び信玄と通じて、謙信と敵対するようになっていました。これにより神保家中は再び信玄派と謙信派に分裂してしまう結果となっています。
元亀3年(1572年)に入ると、武田信玄は上洛(西上作戦)を本格化させるため、上杉謙信が背後を突かないように牽制する必要があったため、信玄は加賀・越中の一向一揆を主力とし神保長城、椎名康胤らに挙兵を要請しています。
一向一揆・神保・椎名連合軍は5月に挙兵し、上杉方の日宮城を攻撃しています。しかし実際に日宮城を探索しましたが、この城では大軍に包囲されたらとても防ぎきれるとは思えません。
郭も小さいし、立て籠もれる兵力も少ない小城です。
この頃、謙信は越相同盟を破棄して甲相同盟を結んだ北条氏政のために関東に出兵していたため、上杉軍は越中に在国している兵力だけで一向一揆と戦うことを余儀なくされていました。
越中方面の上杉軍を任されている河田長親は5000の軍勢をもって対抗しましたが、連合軍は3万を数える大軍だったため、衆寡敵せず五福山の戦いで敗退して新庄城に立て籠もることを余儀なくされています。
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宮崎城本丸にある石垣 |
越中と越後の国境に位置していて、上杉氏の城となっていましたが、江戸時代となると国境には関所が造られ、宮崎城は廃城となっています。県史跡です。 |
河田長親の敗退で日宮城の小島職鎮が開城して退却し、富山城も戦意を失って陥落してしまいます。
しかし何度も落城する富山城はいったいどうなっているのでしょうか。これまで何度落城したのかな。
関東から帰国した謙信は、8月に大軍を率いて第6次越中出兵を行なっています。しかし越後の兵力1万を加えても連合軍の兵力が勝っていたため、上杉軍は新庄城に立て籠もりました。
対する連合軍は謙信が立て籠もった新庄城を包囲して攻撃するのですが、謙信が直率する上杉軍の強さ、並びに新庄城は平城ながら湿地帯と堀に守られた堅固な城で簡単には落とせず、戦線は膠着事態に陥っています。
ところが雨の日に謙信は城から撃って出て決戦を挑んできました。連合軍も好機とばかりに応戦しましたが、そのときに背後から上杉軍の別働隊に襲われたのです。謙信は城に立て籠もってから、密かに数人単位で兵士を城外に忍び出させていたのです。
ううむ、さすがに謙信ですね。当時の戦では背後からの攻撃は絶大な効果があり、兵力では3万と1万3000という差があったのですが、いかに大軍であっても背後からいきなり襲われてはひとたまりもなく、しかも新庄城の周囲は深田に囲まれているために大軍が展開することができず、おまけに雨のために深田が泥沼になって攻囲軍は動きがとれずに大敗してしまったのです。
連合軍はやっとのことで尻垂坂まで後退します。
尻垂坂は新庄城の西南に位置する坂ですが、ここで新庄城の戦いで勢いづく上杉軍と決戦を行なったのですが、しかし新庄城の戦いで大敗している連合軍は士気も低く兵力も激減していて、ここでも上杉軍に大敗して壊滅してしまったのです。
上杉軍が新庄城・尻垂坂の戦いで大勝したことにより、越中における勢力図は一変することになりました。
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飛騨江馬氏館跡にある復元会所 |
飛騨高原郷の江馬氏館跡は、会所、塀、門、堀などが復元されています。国史跡に指定されています。 |
武田信玄の要請を受けて一向一揆を支援していた飛騨の江馬輝盛が謙信に降伏してしまい、連合軍も残存兵力は1万を切るまでに激減して新庄城から逃れて富山城に立て籠もっています。しかしもはや戦国最強の異名をとる謙信率いる上杉軍の敵ではなく、富山城も落城して、残党もことごとく追討されて10月の初旬までに謙信は越中を平定しています。
とはいえ、これまでも椎名氏・神保氏・一向一揆は、謙信が何度も叩いても常に息を吹き返してきたので、謙信は越中からなおも動くことができずにいました。しかし謙信が越中に釘付けにされている間に武田信玄は西上作戦を開始し、謙信は信玄を牽制するために窮余の一策として11月に織田信長と同盟(濃越同盟)を結んでいます。
元亀4年(1573年)1月、越中に在陣していた謙信は加賀の一向一揆と和睦を結んでいます。そしていったんは越後に帰国しましたが、3月になるとまたも復活した連合軍が信玄の要請を受けて大規模な反乱を起こし、富山城を落としています。謙信は直ちに第7次越中出兵を行ない、奇襲により富山城を陥落させて越中を再平定しています。
そして同年4月12日、武田信玄が病死したことにより、謙信と信玄による越中での代理戦争は終焉を迎えたのでした。
信玄の死後、その後継者となった武田勝頼は謙信への敵対行為は控えるようになり越中にも介入しなくなったため、謙信の越中出兵、並びに一向一揆や神保氏、椎名氏らによる策動もなくなり、越中はとりあえず平穏な地域となっています。
天正3年(1575年)8月、織田信長は越前に侵攻して一向一揆門徒を大量虐殺しています。これは信長が越前の戦国大名朝倉氏を滅ぼした後、越前を任せた朝倉氏の旧臣が内紛を起こし、それにつけ込んだ一向一揆が越前を占拠したために起った戦です。
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蓮沼城跡にある石碑 |
椎名康胤が松倉城を追われて一向一揆と合流し、ここに拠っていましたが、上杉氏に滅ぼされています。 |
この信長の脅威に対抗するため、顕如は天正4年(1576年)2月に謙信と和睦しています。こうして一向一揆の脅威を無くした謙信は、9月に第8次越中出兵を行なっています。謙信は織田氏と対決するため同盟を破棄し、逆に武田氏と同盟を結んでいます。
この時には神保長城は増山城に、椎名康胤は蓮沼城に割拠していましたが、その勢力はもはや以前のような勢いはなく、あくまで一向一揆と武田氏の支援があって初めて謙信に対抗できる小大名に過ぎなかったのです。
このため、神保氏の増山城・富山城・守山城は落とされ、椎名氏は蓮沼城を落とされて康胤は敗死しています。
神保長城は行方知れずとなり、以後歴史の舞台からは消えてしまいます。どうなったのでしょうか・・・。
いずれにしても越中は上杉氏が平定したということになります。上杉軍はさらに同年11月には能登に進み、畠山氏の居城である七尾城を包囲しています。しかし七尾城は要害堅固な山城であり、攻めあぐんで越年する。天正5年(1577年)には春日山に一時撤退しています。その間に畠山軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城は奪還されていますが、閏7月には再び能登に侵攻し、七尾城を包囲しています。
このとき、城内で疫病が流行、厭戦気分が蔓延し、9月15日に遊佐続光らが謙信と通じて反乱を起こしています。
織田信長と通じていた長続連らは謀殺され、ついに七尾城は落城してしまいます。
七尾城主である畠山春王丸も既に病により没していたため、畠山氏は滅亡し、能登国も上杉謙信が平定しています。一方、長連龍から援軍要請を受けた織田軍は、柴田勝家らの先発隊3万、信長率いる本隊1万8000が加賀に向かっていたのですが、謙信はこれを迎え撃つため、9月17日に末森城を落とし、9月18日には松波城を攻め落としていました。9月23日、柴田勝家率いる織田軍は手取川を渡河したところでようやく七尾城の陥落を知り、慌てた勝家は撤退命令を出したのですが、さらに松任城に進軍した上杉軍は手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破しています。これを「手取川の戦い」と呼んでいます。
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能登国七尾城にある石垣 |
畠山氏の居城で日本五大山岳城の1つです。要害堅固な山城で多数の石垣の遺構が残っています。国史跡です。 |
この戦いに関しては、いまいち詳細がはっきりせず、織田軍はさほどの被害は受けていないとする説もあります。つまり織田軍がうまく撤退したということになりますが、主要な武将を失っていない織田軍がそれほど大きな打撃を受けたとも思えないというのは十分に説得力があります。しかしともかくも織田軍が一時的にでも加賀国から撤退したことは確かです。
天正5年(1577年)12月18日には謙信は春日山城に帰還し、12月23日には次なる遠征に向けての大動員令を発しています。
上杉謙信は天正6年(1578年)3月15日に関東方面へ遠征する予定だったらしい。しかしその6日前である3月9日、遠征の準備中に春日山城で倒れ、意識が戻らないまま3月13日に逝去したのです。享年49。戦いに次ぐ戦いの人生でした。
上杉謙信の死により、上杉家の家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝(実父は長尾政景)と上杉景虎(実父は北条氏康)との間で御館の乱と呼ばれる内乱が発生しています。謙信には、実子がなく後継者と目されていた景勝と景虎のどちらを後継とするか明確に定められていなかったことから発生したもので、言わば謙信の失策でした。
上杉景勝はいち早く春日山城を占拠し、景虎は上杉憲政の居館である御館城に移って、内乱は本格化しましたが最終的には武田勝頼を調略した景勝が勝利し、景虎は自害しています。
しかしこれにより上杉家の勢力は大きく後退し、その軍事力も弱体化してしまい、とても織田軍とまともにやり合える状態ではなくなってしまったのです。しかも景勝に味方した武田氏も景虎の実家である北条氏と仲違いする結果となり、同盟関係が破綻することで織田氏・徳川氏の圧力が増すことになったために、滅亡の遠因となってしまったわけです。いや、直接原因といった方が正しいかも知れません。武田氏の力の源泉は黒川金山などの金山から産出される金でしたが、これらの金山の鉱脈が枯渇し始めていた事も滅亡に拍車をかけたと言えるでしょう。
 |
安田城跡 |
秀吉の富山征伐の際に富山城監視のために前田氏がここに陣を張っています。越中が前田氏の支配となると程なく廃城となっています。国史跡に指定されています。 |
しかし世間ではこの御館の乱での武田勝頼の判断ミスを責める意見も多いのですが、私見ではこの件に関しては武田勝頼を無碍に責めるわけにもいかないと思うのです。つまり武田氏としては景勝が勝っても景虎が勝ってもどちらにしても外交政策が破綻してしまう要因になってしまう状況であったと考えられるのです。仮に景虎が勝っても上杉氏が北条氏に乗っ取られる状況になって武田氏の地位が低下してしまうし、下手をすると北条氏からも攻撃を受けてしまう可能性があるわけです。それよりは景勝から結納金を受け取り、景勝が後継となった暁には同盟を結んで北条氏に備える方がまだましと考えたのでしょう。
さらに私見ではむしろもう少し早い段階で織田・徳川と和睦する道を考えた方が良かったと思うのですが、武田勝頼は反対勢力を根絶やしにする信長のやり方を熟知していて、和睦は難しいと考えていたのかも知れません。勝頼も不運の武将でした・・・。
天正6年(1578年)、上杉謙信の急死を契機として神保長住が佐々長穐らの兵を与えられて織田軍の先鋒として飛騨から越中へ侵攻し、神保氏の居城であった富山城を奪還しています。
同時に加賀、能登にも織田軍が侵攻して、七尾城を奪われるなど北陸道で織田軍の攻勢が激化しています。
天正9年(1581年)には佐々成政が越中半国を与えられると、長住はその軍事指揮下に入っています。
ところが天正10年(1582年)3月、神保氏旧臣で上杉方についていた小島職鎮、唐人親広らに富山城を急襲されて、長住は哀れ捕らえられてしまいます。しかしこれは佐々成政にも責任があると思うのですが。これは織田軍の反攻で長住は救出されていますが、この事件で長住は失脚し、追放されてしまいます。佐々成政は、この件について長住をかばって信長にかなり抗議したと言われていますが、信長は長住の才覚を見限っていたようです。その後織田軍は魚津城へ進撃し、これを包囲しました。
上杉軍は3800の兵で魚津城に籠城して、「魚津城の戦い」が始まったのです。
上杉方の魚津城主中条景泰はすぐに上杉景勝に救援を求めますが、越後国に隣接する信濃国及び上野国には武田征伐を終えた織田軍が駐屯していて、さらに越後国新発田城主の新発田重家が上杉領内への侵攻の姿勢をとったために、本国からはとても出兵できるような状況ではなく、能登国の諸将、および松倉城主上条政繁や斎藤朝信を派遣しました。そして景勝は天正10年(1582年)5月4日に魚津城救援のため、自ら主力を率いて春日山城を出発、5月19日には魚津城東側の天神山城に入りました。しかし織田軍が5月6日に既に二の丸を占拠していたため、景勝は魚津城に戦を仕掛けられず、信濃国海津城の森長可や上野国厩橋城の滝川一益が上杉氏の居城春日山城を総攻撃する態勢に入ったため、5月27日に天神山城から撤退しています。
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天神山城跡 |
魚津城が織田軍に包囲された際に上杉軍が援軍として陣を張ったのはこの城です。しかし越後が危険になったために無念の退城となり魚津城も落城しています。 |
これにより孤立した魚津城に立て籠もる上杉軍は籠城戦を展開し両軍が決死の攻防戦を繰り広げましたが、開戦から3ヶ月後の6月3日に山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱ら上杉方の守将12人が自刃し、ついに魚津城は落城しました。
ところが落城の前日、織田信長は本能寺にて明智光秀に討たれていたのです。主君の死に驚いた織田勢は全軍撤退し、空城となった魚津城には須田満親を中心とする上杉勢が入っていますが、天正11年(1583年)には越中平定を目指す佐々成政に再び魚津城を包囲され開城となり、上杉軍は越中から撤退しています。これにより越中一国は佐々成政が支配することになります。佐々成政は、明智光秀征伐後の清洲会議において、柴田勝家と羽柴秀吉との織田家中の実権争いが勃発すると柴田方についています。このあたりが実はよくわからないのですが、佐々成政は柴田勝家とはこれまで与力として行動をともにしてはいましたが決して仲が良かったわけではなく、単に地勢的な条件から柴田につかざるを得なかったと思えます。
しかし「賤ヶ岳の戦い」の際には佐々成政は上杉景勝への備えのため越中を動けず、叔父の佐々平左衛門に率いる兵600の援軍を出すにとどまっています。これなどは本気で柴田に加勢する気はなかったと見えます。もし柴田軍が敗れればそのときは秀吉に降参してもたいした咎めは受けないと踏んでいたのではないでしょうか。勝家が滅亡した後は、佐々成政は娘を人質に出して剃髪する事で降伏し、越中一国を安堵されています。この時に佐々成政は抗戦せず素直に降伏していますので、柴田勝家に殉ずる気などなかったことになります。むしろ利家の方が問題で、あっさりと勝家を裏切っています。その昔、拾阿弥事件の時にかばってくれたのは誰だったでしょうかね。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると、佐々成政は3月頃の書状では秀吉方につく素振りをみせていたものの、夏頃になって徳川家康・織田信雄方につき、天正12年(1584)8月28日に突如として加賀朝日山砦を攻めていますが、豪雨のため、このときはいったん引き返しています。
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白鳥城本丸跡 |
富山の役の際に秀吉が本陣を張ったのがこの白鳥城です。多数の郭を配置したなかなか堅固な山城です。安田城の詰めの城となっていましたが程なく廃城となっています。 |
しかし9月9日には前田氏の能登における拠点である末森城を包囲攻撃し、世に言う「末森城の合戦」が起こっています。しかし末森城の戦いでは佐々軍が撤退しています。阿尾城も前田軍に奪われ、今石動城攻めも失敗するなど佐々軍は二正面作戦を余儀なくされていたため苦戦します。
しかも秀吉・家康らとの間で和議が成立し、佐々成政は進退窮まると、家康に再挙を促すため、厳冬の飛騨山脈・立山山系を越えて浜松へ踏破するという壮挙を成し遂げた。これが世に言う「さらさら越え」です。しかし家康は首を縦に振らず、説得は功を奏せずに終わっています。
天正13年(1585年)、秀吉は自ら越中に乗り出し、富山城のすぐそばの白鳥城に布陣し、富山城を10万の大軍で包囲しています。成政は織田信雄の仲介により降伏しています。これを「富山の役」と呼んでいます。秀吉の裁定により、佐々成政は越中国新川郡のみを残され、富山城も破却され自分は妻子と共に大坂に移住させられています。
越中国西部の三郡は前田利長に与えられることになり、さらに成政が肥後に去った後は、越中一国が前田利長に与えられることになり、以後明治維新まで越中は前田氏が支配することになります。
慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝討伐のために出陣し、利長にも出陣が命じられています。ところが家康が会津に出陣中に石田三成らが五大老の毛利輝元を擁立して挙兵したため、日本中は西軍と東軍で真っ二つに別れての大戦となったのです。ところが越前、加賀南部の諸大名はことごとく西軍についたため、前田利長は東軍方として危機感を感じ、加賀南部へ侵攻し、山口宗永が籠もる大聖寺城を落城させています。
しかし丹羽長重の立て籠もる小松城は落とすことができず、大谷吉継の偽情報に踊らされて金沢への撤退を決意しています。ところがその帰途に丹羽長重の軍勢の待ち伏せに遭って大きな被害を受けていますが、前田軍の武将・長連龍や山崎長徳らの活躍によりかろうじて金沢に退却しています。これが世に言う「浅井畷の戦い」ですが、利長の武将としての才覚に少々疑問符がつく戦いだったといえます。
 |
高岡城祉にある石垣 |
高岡城は、前田利長の隠居城として築かれましたが、極めて広い方形の郭を持つ織豊系城郭の性格を持つ城です。しかし1615年の一国一城令で廃城となりましたが、実は城はそのまま残され、城割などはなされなかったため、現在も郭と水濠がそのまま残っています。 |
逆に謀略で利長を翻弄した大谷吉継は諸葛亮を思わせる英才ぶりですし、丹羽長重はチャンスを生かして前田軍に打撃を与える殊勲を挙げていてなかなかやります。
それと前田軍を救った長連龍は、七尾城で討たれた長一族の生き残りです。あのとき援軍を頼みに一人城を出て織田方に走った事が彼の命を救ったわけで、結果的に前田利長も救ったことになります。長一族は、加賀藩では重臣加賀八家の一家として厚遇されています。
それにしてもこの時の利政の行動はいまいち不可解でした。最初の出陣では利長とともに大聖寺城を落としているのに金沢に引き上げた後の出陣では利政は動かなかったのは、元々豊臣方であったためとも、どちらが敗れても前田氏の家名を残そうとする策であったともいわれています。私見では後者の可能性が高いかな。もし豊臣方なら最初から出陣しないか仲違いしていたかでしょう。真田家と同じあれですな。その証拠に利政の子は加賀八家の中でも重臣筆頭になっています。
関ヶ原の戦いの後には、なぜか西軍に与した弟の利政の領国能登と丹羽長重と山口宗永の領地であった加賀国の能美郡・江沼郡・石川郡松任が加領され、加賀・越中・能登の3カ国で120万石を支配する加賀藩が成立しています。
もっとも能登はもともと前田領だったので、実質的には加賀半国を与えられただけでした。丹羽長重とはこれで完全に決裂してしまい、二度と席を同じくすることはなかったようです。
前田利長には実男子がなかったので、異母弟の利常を養嗣子として迎え、自分は富山城に隠居しています。
ところが慶長14年(1609年)に富山城が焼失したため自分はいったん魚津城に入り、射水郡関野に高岡城を築いて移っています。この時にはかなり工事を急がせている様子が書状から伺えます。富山城には津田刑部義忠が城代として入っています。しかし利長は残念ながら慶長19年(1614年)5月20日に高岡城で病没しています。享年53。跡は利常が継いでいます。
寛永16年(1639年)、加賀藩3代藩主前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩が立藩されています。
翌寛永17年(1640年)、利次は当時加賀藩領内にあった富山城を当座の仮城として借りて越中に入っています。
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富山城千歳御門 |
富山城千歳御殿の正門として建てられたもので、明治時代に移築された豪農の赤祖父家から平成19年(2007年)に城址公園内の本丸東側に再移築されました |
利次は当初は婦負郡百塚に新たに築城することを予定していたのですが、財政事情からそれを断念し、万治2年(1659年)に加賀藩との領地交換により富山城周辺を自領としています。万治4年(1661年)には幕府の許しを得て富山城を本格的に修復し、あわせて城下町を整えて、以後富山前田氏13代の居城として明治維新を迎えています。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、翌年建築物は払い下げられ、本丸御殿は県庁舎、二の丸二階櫓御門は小学校として現地でそのまま利用されるものもあったのですが、千歳御殿を含め他の大部分はその際に解体されています。
城の周囲を巡っていた水濠も本丸と西の丸の南側部分を除き昭和37年までに順次埋め立てられています。
昭和29年(1954年)には戦後初の模擬天守が建築されています。この模擬天守は、正式には富山市郷土博物館となっています。なおこの模擬天守は平成16年(2004年)に国登録有形文化財(建造物)に登録されています。
平成19年(2007年)には10代藩主利保の隠居所として東出丸に隣接して建てられた千歳御殿の門が、明治時代移築されていた豪農の民家から城址公園内の本丸東側に再移築されています。
富山都心線の環状化工事に先立って平成20年(2008年)から翌年にかけて行われた埋蔵文化財調査において、富山市民プラザ脇で富山城の正門にあたる三の丸大手門の石垣が発掘され、古絵図上に示されていた大手門の位置や遺構の存在が初めて確認されています。本丸石垣の特徴との類似から富山藩初期(1660年頃)の築造と推定されています。つまりその頃には富山城の外郭に石垣に積まれていたと考えられ、たいへん興味深い結果となったわけです。
現在、城址公園の全面的な再整備が行われていて、本丸内に日本庭園を造り、佐藤記念美術館から千歳御門にかけての本丸東側の堀の一部復元が計画されています。また埋め立てによって失われた搦手門の枡形(外桝)が再現される予定です。
富山市郷土博物館も増築されることになり、富山城もすっかり様変わりすることになります。
さて、富山県内には大小400以上の城郭が存在したと考えられていますが、その中でも特に大規模であり、大名勢力の根拠地として使用されたと考えられる城は、平城では富山城、高岡城、魚津城、安養寺城、木舟城、井波城、放生津城などがあり、山城では、増山城、松倉城、守山城、今石動城、森寺城などがあります。
この中で富山城、増山城、放生津城は神保氏によって築かれた城ですが、富山城はその後前田氏によって大規模に改修されていて、江戸時代では織豊系城郭あるいは聚楽第型城郭として存続しています。
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安養寺御坊 一向一揆の拠点の一つです |
高岡城は江戸時代初期に前田氏によって織豊系城郭あるいは聚楽第型城郭として築かれていますが、しばらくして廃城となっています。これらの平城の特徴としては広い方形の曲輪を少数持っていて、その周りを大規模な水濠が囲んでいるという、我々が城といって真っ先に思い浮かべる構造となっています。石垣も持っていますが、この2城の特徴としては石垣もあるが本来は土塁主体の城であるということです。富山城も神保氏時代は土塁の城だったものが前田氏によって石垣が築かれているのです。また、この2城には天守はなかったと考えられています。
魚津城は、上杉氏の越中における根拠地として使用されていますが織田軍によって落城していて、佐々氏、さらには江戸期には前田氏によって使用されていますが、一国一城令により廃城となっています。ただし、高岡城と魚津城は一応は廃城となっていますが、実際にはその後も城の機能は維持されていて水濠や曲輪は存続しています。
魚津城に関しては、現在では詳細は不明ですが、二重の水濠に囲まれて外側が二の丸、内側に本丸があるという単純な構造であったと思われます。
安養寺城は、一向一揆の拠点として築かれた城郭伽藍でかなり大規模な惣構えを持っていたと考えられていて、当時の一向一揆の勢力がかなり強大なものであったことを伺わせます。
木舟城は、石黒氏の居城でしたが上杉氏により城を奪われ、織田氏が石黒氏を謀殺して上杉氏も追い出して城を奪い佐々氏が入っていますが、前田氏により城を奪われています。しかし天正大地震により倒壊し城主の前田秀継が圧死するという悲劇があり、その後廃城となっています。この城は水濠と湿田に囲まれた攻めにくい城だったようですが、詳細はイマイチわかりません。
 |
井波城本丸跡 今は井波神社です |
井波城も一向一揆の拠点として瑞泉寺跡地に築かれていて、大規模な城郭伽藍として水濠や土塁に守られていたと考えられますが織田軍によって攻略されていて、佐々氏が城に入りましたが越中征伐により前田氏により攻略され、その後廃城となっています。
放生津城は、神保氏の元々の居城で足利第10代将軍であった足利義材がここへ逃れて越中公方として幕府を開いた地となっています。しかしその後は神保氏が富山城や増山城、あるいは守山城を根拠として使用するようになり、放生津城は廃城となっていて江戸期には前田氏が倉庫として使用していたようです。
越中三大山城の中でも最大規模である増山城は神保氏の居城ですが、いわゆる典型的な中世山城と言える構造となっています。中世山城の特徴としては各曲輪の独立性が高く、いずれかの曲輪が攻められたときに他の曲輪が援軍を送りにくい構造になっている場合が多いことにあります。そのため曲輪ごとの連携が取りにくいので各個撃破されてしまうことがあるのです。
史実では、1576年に上杉氏により増山城が攻略され神保氏が滅ぼされています。
増山城の場合、主郭である二ノ丸から三ノ丸、あるいは二ノ丸から一の丸への連絡路が充分でなく、外側の曲輪が攻められたときにすぐに援軍を送れない構造になっています。各曲輪は比較的広く、それらの周囲の切岸も高く険しいのでなかなか攻めにくいのに、地形的な問題もあり相互の連携が取りにくいことからその防御能力は限定的と言えます。ただし、実際に攻められたときには、険しい地形や深い堀切などで守られていて鉄砲がまだ未発達な時期であればなかなか攻め落とすのは難しいといえました。しかし鉄砲が発達してくると山城は曲輪が小さく空堀の幅がさほど大きいわけではないので、一つの曲輪が落されると他の曲輪が射程距離に入ってしまい、あまり有効な要塞とは言えなくなっています。もっとも山城側にも大量の鉄砲を所有していれば防御には有利だったとは言えますが、補給や兵站能力の問題もあり攻撃側が大量の兵力と鉄砲を持ち兵站能力にも勝っていれば、防御側が極めて不利ということは否めません。
一方、織豊系城郭や徳川系の城郭によく見られる大規模な平城は曲輪が広い上に周囲を幅の広い水濠が囲んでいて、曲輪も高い石垣の上にあるので鉄砲でもなかなか有効な射撃ができないため、落すのは容易ではなかったのです。大阪冬の陣における大坂城の例がそれに当たるでしょう。
 |
今石動城本丸跡 前田秀継の居城です |
増山城の場合は神保氏時代に現在見られる遺構が築かれていて上杉氏、佐々氏、前田氏時代も大規模な改修はなかったため、最後まで中世山城の性格を持っていたと思われます。
佐々成政は加越国境にある城は改修しているケースが多いのですが、この城は国境からは遠く、改修の必要性が薄かったからではないかと思われます。前田氏時代もこの城が戦場となる可能性が極めて薄かったので大規模な改修は必要なかったでしょう。
このように中世山城の各曲輪の独立性が高いという問題は、地形的な制約ももちろんあるでしょうがもう一つには戦国初期における戦国大名の構造がいわば諸勢力の連合政権であることが多いからという問題に由来しているでしょう。
つまり主郭を守る城主と各曲輪を守る武将との関係は微妙なパワーバランスにより保たれていて、城主が絶対的な権力を持っているわけではないので、主郭を守るために他の曲輪が犠牲になるという考え方はなかったと言えるでしょう。
極端な場合は、一つの城が堀切などで大きく分断されていて往き来が難しい一城別郭と呼ばれる構造になっている場合もあり、とても連携などできそうもないと思われる山城もあります。実例としては高山城や飯久保城などがあります。
椎名氏の居城であった松倉城も連郭式山城ですが各曲輪が堀切で遮られていてやはり相互の連携が取りにくい構造となっています。松倉城の場合、4つの曲輪は直列に並んでいて、その間は堀切が遮られているので攻め落とす場合は、一つ一つの曲輪を落していかないといけないので攻める側もそれなりの被害を覚悟する必要はあるでしょう。ちなみに松倉城は1571年には上杉氏により松倉城を攻略されています。
もう一つの守山城は神保氏の根拠地の一つですが、他の2城とは異なり遺構が充分に残っていないので、詳細はイマイチわかりにくいのです。1519年に神保慶宗がここに立て籠もり、長尾、畠山連合軍の攻囲を受けていて、神保勢が畠山勢への急襲によりこれを撃退しているという事実からかなりの防御能力があると見ることもできます。
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森寺城石垣跡 畠山氏が築いた城です |
今石動城は前田秀継が築いた山城ですが織豊系城郭の特徴を持つ縄張りとなっていて主郭を守る各曲輪が相互に連携を取ることができる求心的な構造となっています。織豊系城郭では城主が強い権限を持つようになり、各曲輪を守る武将に対して強く命令が出せるようになっていたからこその構造と言えるでしょう。織豊系城郭では各曲輪の連携が取れるだけにもしどこかの曲輪の武将が裏切るなどして敵方の兵を入れてしまうとあっさりと落城してしまうかも知れません。
今石動城の場合、各曲輪の広さは充分ではないので実際の防御能力がどの程度かは未知数と言えるかも知れません。この城は実際には戦場となっていません。
森寺城は、能登畠山氏が越中に築いた拠点ですが、大規模な縄張りを持ち石垣も持っている城です。この城の特徴としては曲輪がかなり広いことで大軍を駐屯させるための城であったと考えられています。
ただし、本丸と二ノ丸、三ノ丸は相互に連携が取れる構造になっているのに他の曲輪が独立していて必ずしも求心的な構造とは言えず、畠山氏の本城である七尾城と似た構造になっているのが興味深いところでしょう。
しかしこの森寺城はかなりの石垣を持っていることや大手口の構造、また搦手口の厳重な有様など、正直言って神保氏が越中に築いた山城に比べてもその構造は先進的な技術が投入されているということは間違いないでしょう。
またさほど大規模ではないが先進的な遺構を持つ城としては、婦中町にある長沢城、富崎城があります。
長沢城は、実際には長沢西城と長沢東城の二つの城からなっていますが、実際には一城別郭と考えられています。
この二つの城には南側に枡形虎口を備えていてその防備も厳重なのに、なぜか北側の防備が手薄なのが謎という城です。富崎城には馬出しの遺構が残っていることと二重の空堀と井戸などなかなかに興味深い構造を持っています。
これらの城は元々は神保氏の城だったと思われますが、織豊系城郭の性格を持ち、神保氏だけでなく佐々氏が改修したと考えられます。こうしてみると越中の各城は、神保氏や椎名氏といった守護代の勢力が築いた城が多いのですが、その後織田氏の勢力が伸びてきて一部の城は織田氏の勢力により改修されていると見ることができるでしょう。
上杉氏も越中にかなりの勢力を持つ時期もあったのですが、城を大規模に改修することがあったのかどうかは疑問です。
上杉氏の居城である春日山城を見ても神保氏の城郭と比べてさほど先進的な構造を持っていたとは言えず、上杉系城郭に特徴的な構造としては畝状竪堀群くらいしかなく、正直言ってあまり見るべきものもないと言えます。
上杉氏も神保氏と同じ守護代出身の大名で配下武将に対してあまり強い権限を持ってはいなかったことから、そこから脱皮できなかったと言えます。上杉景勝の時代になりようやく織豊系大名としての構造を持つようになったとは言えますがその頃には既に越中からは排除されています。
前田氏に関して言えば、越中では平城である富山城、高岡城、安田城に関しては築城もしくは改修をしていますが、前田氏が越中に入る頃には山城の時代は終わりつつあり、山城を改修した例はあまりないように思われます。
国史跡になっている安田城は3つの曲輪と水濠からなる平城でさほど大規模な城ではないですが、周囲が湿地帯に囲まれていて堅固な城と言えます。この城も江戸時代初期で廃城となっていますが現在でもその遺構がそっくり残っているという希有な例でしょう。平城でその曲輪の全容が残っているのは他には高岡城くらいです。・・・ってすぐ近くにありますね。
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古国府城 今は勝興寺です |
弓庄城本丸跡 土肥氏の居城です |
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木舟城遠景 前田秀継の居城です |
新庄城跡 今は新庄小学校グラウンドです |
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石の門跡 升方城の大手門です |
長沢西城狼煙台跡 もっとも標高が高い地点です |
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富崎城本丸跡 神保氏の城です |
福光城石垣跡 石黒氏の居城です |
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放生津城跡 将軍足利義材がここへ逃れています |
城生城本丸跡 斎藤氏の居城です |
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升方城本丸跡 椎名氏の支城です |
若栗城跡 不悪糺斎右京輔の居城です |
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阿尾城本丸跡 菊池氏の居城です |
郷柿沢館水堀 土肥氏一族の館です |
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井田主馬ヶ城主郭跡 斉藤氏の詰城です |
一乗寺城堀切 佐々成政の支城です |
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宗守館跡 大規模な土塁が残っています |
舟見城址館 模擬天守があります |
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上見城井戸跡 土塁と空堀があります |
水尾城堀切跡 堀切の上に橋が架かっています |
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長沢東城大手口 枡形地形です |
長沢西城大手口 厳重な防御が施されています |
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鴨城本丸 |
赤丸城殿様池 |
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頭川城の土塁は実は古墳です |
高山城主郭 |
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