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上田城北櫓・南櫓・東虎口櫓門 |
上田城は長野県上田市二の丸(信濃国小県郡上田)にある平城です。城址は、国史跡に指定されています。また現存する櫓3棟が長野県宝に指定されています。
この上田城は、武田氏旧臣・真田昌幸により、1583年(天正11年)に築城された梯郭式平城です。真田昌幸が二度にわたる徳川軍の攻撃を撃退した上田合戦が行われたことで有名です。
この上田城は、上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していて、北に太郎山、南に千曲川が流れ、北側と西側に矢出沢川を引き込み総構えとし、唯一の攻め口である東側にも蛭沢川や湿地帯などがあり、平城としてはなかなか要害堅固な城です。
ここには在地土豪であった小泉氏の古い城館があったといわれていて、その地にあの真田昌幸が築城したものです。
縄張りは、本丸を南側に置き、二の丸が本丸の北・東・西を囲み、二の丸と東の大手門の間に三の丸を置く、梯郭式といわれる縄張りとなっています。これは千曲川に接した南側が最も天然の防御力が強く、当時の情勢から東(徳川氏)からの攻撃を想定したものです。
この上田城の特徴として普通は本丸か二の丸など城の中心近くに置かれる政務用の建物が、三の丸に置かれている点でしょう。これは、関ヶ原戦の後、真田信幸が上田領を継承した際に、いったん上田城は破却されていて、城下町に近い三の丸跡地に居館を建てたためです。つまり真田信幸は、上田城主ではなかったことになります。
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上田城東虎口櫓門 |
その後、真田氏は松代に転封になり、替わって上田に入った仙石氏により上田城が再建されていますが、不完全なままに城普請が中止されていて、仙石氏の後に上田に入った松平氏によっても城の本格的な再建がおこなわれてはいません。真田昌幸時代の上田城については、いったん破却してしまったために正確な構造はわかっていません。
上田城に天守があったのかもはっきりしていません。起工から2年後の1585年(天正13年)
に起こった第一次上田合戦当時の資料には、上田城のことを指して「天守も無き小城」という記述が見られ、後に仙石氏により再建された上田城にも天守は築かれていません。また、現在の本丸跡にも天守台らしき遺構は残っていないので、天守は過去に築かれたことはなかった可能性が高いと思われます。ただ第一次上田合戦当時の上田城はまだ未完成だった点と、寛永年間に作成されたという絵図には上田城本丸に「御天守跡」と記入されているので、天守を築く計画はあったのかも知れません。また同時期の近隣諸城を見ると小諸城は、同じ仙石氏が天守を築いていますし、松本城、高島城にも天守があります。また昌幸の嫡男・真田信幸の沼田城にも真田氏の手による大規模な天守がありますので、真田氏が天守を築いた可能性も否定はできません。ただ、天守があったとすると1585年(天正13年)
の第一次上田合戦から1600年(慶長5年) の第二次上田合戦の間に築いたことになりますが、その間の上田城に関しては確実な資料が残っていないことと、もし天守があったとして関ヶ原戦後に破却したのだとすると、天守台まで徹底的に撤去したことになるので可能性としてはやはり低いのではないかと思います。
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上田城南櫓 |
武田信玄・勝頼の側近で有力武将であった真田昌幸は、1583年(天正11年)3月の武田家滅亡後に織田信長に臣従し滝川一益の与力となります。滝川一益は上野国厩橋城に入り、真田領だった沼田城も押収されるなど、織田方によりその所領を奪われていましたが、1583年(天正11年)6月に信長が本能寺の変により横死し、北条氏が織田勢力を一掃するべく戦いを挑んできます。
北条氏が織田氏との友好関係を断ち、滝川一益への攻撃を実行したのは、武田征伐からの一連の織田氏の動きに内心では不快感を持っていた北条氏が信長の死を確認したので、態度を急変させたのでしょう。つまり武田征伐では、織田氏が徳川氏と連携して信濃、駿河から甲斐へと攻め込んで武田氏を滅亡させていますが、北条氏には情報封鎖をしていたため、当時の北条氏は極端に情報不足で、武田討伐を知った北条氏政が兵を動かしたものの、これが遅すぎてほとんど得るものがなかったのです。さらに滝川一益が上野国厩橋城に進駐して、上野国を織田領としたため北条氏は不快感と不満、不安を持ちながらも、素知らぬふりをしていたようです。北条氏に戦いを挑まれた滝川一益は、早々に撤退することも考えられたのですが、討って出ることにしました。しかし神流川の戦いで北条氏に敗れて逃走することになり、真田氏は、周囲の有力勢力(徳川・北条・上杉)の狭間で揺れ動くことになります。(天正壬午の乱)。昌幸は、滝川一益の敗退直後に北条方について、沼田城をはじめ吾妻諸城を奪還し、旧領を回復しています。しかしすぐに徳川氏の誘いに応じて乗り換えています。北条氏政はこれに激怒し、上野国の真田領へ侵攻しようとします。
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上田城内堀 |
昌幸は、徳川氏の支援を得て、上田・小県地方制圧の拠点として1583年(天正11年)に上田城の築城に着手します。この時には敵対する北条氏による上州方面での攻勢に加え、北方の上杉景勝からの妨害も受けています。上杉景勝としてみれば、川中島に近い上田城が完成すれば、徳川方が越後方面まで攻め込んでくることが予想されるので築城を妨害するのは当然でしょう。
ところが天正13年(1585)年に天正壬午の乱の際の和睦の条件として甲斐・佐久・諏訪は徳川領、上州は北条領との分割が実施されることになったため、家康が真田昌幸に対し上州沼田領の北条氏への明け渡しを命じたところ、昌幸は「沼田領はわが父祖伝来の土地であり、徳川の領地ではない」として明け渡しを拒否して、徳川家康と対立します。徳川氏としては真田氏など小豪族と侮っていたのでしょうが、後でとんでもない目に遭います。そもそも代替地も与えずに沼田を引き渡せはないでしょう。昌幸が寝返るのも当然でしょうが、次々に寝返る様は表裏比興のものという評価を与えられることになります。
昌幸は天正13年(1585年)7月に、徳川麾下から上杉景勝に寝返り、当初は北側に予定していた上田城の大手(防御正面)を対徳川を想定して東側に変更しています。
天正13年(1585年)8月、真田昌幸を討伐するため、徳川家康と北条氏直は、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7,000の兵力を昌幸の居城・上田城に、北条氏邦を沼田城に侵攻させています。これを第1次上田合戦または神川合戦と呼びます。
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上田城北櫓 |
徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の国分寺付近に兵を展開します。これに対して真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は本城の上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城しました。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城しています。
閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退されています。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死しています。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる。一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんでいます。ううむ、徳川方の惨敗ですね。昌幸の鮮やかなお手並みは、天晴れです。
翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏が篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続けています。この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政、大須賀康高、松平康重の5000)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は28日に上田より撤退しました。
その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、11月には譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退することになります。
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上田城東虎口櫓門裏門 |
この戦いは、徳川方としても真田氏を甘く見ていたことが敗因と言えますが、真田昌幸としては、自己の勇名を全国に鳴り響かせることに成功したことで、今後の真田氏の命運を左右することになります。
この合戦の記録は真田家の『真田軍記』ほか、徳川方の『三河物語』にも記されていて、この戦いで昌幸が優れた智謀を持つと評されることとなります。また、この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を真田信之へ嫁がせて懐柔するきっかけともなっています。
同様の構図による戦いは幾度か再戦があり、少なくとも二度以上あったとされています。
同年には次男の信繁(幸村)が景勝の人質から盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕して、昌幸は豊臣家に臣従することになります。天正14年(1586年)には佐久に侵攻、北条氏の沼田城攻めを招き家康との対立も続いていたが、同年には秀吉が争いを止めさせ昌幸ら信濃の諸大名を家康の与力衆としています。
天正15年(1587年)に昌幸は駿府で家康と会見し、大坂では秀吉と謁見し名実ともに豊臣家臣となっています。
天正17年(1589年)には秀吉による沼田領問題の裁定が行われ、北条氏には利根川以東が割譲され昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得ています。この際に昌幸は名胡桃城は、先祖代々の墓があると言い張って、真田領として認められています。もちろんこれは嘘ですが、北条氏としては名胡桃城はたいへん目障りな存在となっています。
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上田城南櫓と石垣 |
この頃昌幸は在京していましたが、11月には北条氏家臣で沼田城代の猪俣邦憲が名胡桃城を攻め落とし、これが惣無事令違反とみなされて、翌天正18年(1590年)の小田原征伐の原因となります。北条氏の滅亡後は、沼田領は再び真田氏の所領となります。
慶長5年(1600年)7月、家康は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、在京していた昌幸もこれに従っています。ところが家康の留守中に五奉行の石田三成が上方で挙兵し、諸大名に家康弾劾の書状を送り多数派工作を始めます。昌幸は下野国犬伏でこの書状を受け取ったと言われていて、宇田氏を通じて三成と姻戚にあった関係から次男・信繁(幸村)と共に西軍に与し、上田城へ引き返すことになります。犬伏の陣で石田三成からの書状を受けた昌幸は、信幸、幸村と三人で真田家の去就について話し合ったと言われています。この際には人払いをしていたため、三人でどのようなことが話し合われたかはわかっていません。この時の話し合いでは、おそらく信幸ははじめから徳川軍につく気持ちでいたと思われます。信幸は前述するように徳川四天王の一人・本多忠勝の娘小松姫(徳川家康の養女)を嫁にしていたことと、一時期徳川家に出仕していたことから、徳川家につきたいと思うのは当然です。犬伏では信幸が昌幸に対して徳川軍につくことの理(利かも)を説いていたかもしれません。しかし、昌幸は徳川につくことには反対であった。まず三成と昌幸は姻戚関係があったこと、幸村の妻が大谷吉継の娘であったことなどの他に、さらに昌幸が西軍についた理由はいくつか考えられます。
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上田城南櫓 |
まず一つには西軍についたほうが勝った時の恩賞が大きいであろうという事です。この時点ではどちらが勝つかは予測は難しいが昌幸としても三成の評判が良くないことは承知していて、西軍の勝ち目が少ないことはわかっていたと思う。そもそも会津征伐に同行していた大名のうち、西軍に走ったのは昌幸・幸村だけだったのです。まあ、オッズが違うということでしょう。
もうひとつの理由として、昌幸と家康の相性が悪かったということです。前述した第1次上田合戦など、これまでも昌幸はさんざん家康に煮え湯を飲ませていましたし、家康としても昌幸は油断ならない男と思っていたでしょう。また昌幸は秀吉に表裏比興の者と称されるほどの武将でしたが、それは小国ゆえの表裏でした。しかし大大名でありながら表裏のある家康はどうも気に入らなかったのでしょう。この二人は相容れない存在だったと言えます。話し合いの結果、昌幸・幸村は西軍に、信幸は東軍につくことになっのです。しかし、喧嘩別れではなく、お互いの立場、考えを理解した上での別れだったのでしょう。昌幸としても信幸が東軍につけば、西軍が敗れたとしても、真田氏は生き残れるし、西軍が勝っても幸村がいるから、どちらに転んでも真田氏は生き残れると考えたのはまず間違いないでしょう。そして昌幸・幸村は急いで、犬伏を離れ上田に向かっています。
信幸は小山の徳川秀忠の本陣へ駆けつけ、父・昌幸の離反と自分に異心のないことを告げています。家康は7月24日に小山に着き、即日で信幸に、昌幸のように離反しなかったことを賞する書状を与え、昌幸の領地を信幸に安堵しています。
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上田城真田神社 |
一方、昌幸一行は上田に引き返す途中、沼田城によって孫の顔を見てから上田に帰ろうと思い、夜になって信幸の居城・沼田城に使者を出して、入城を申し入れています。しかし、応対した小松殿は、「今、家康公を見捨てて、なぜ帰陣されるのですか。」と使者に尋ねると「理由はわかりませんが、上田に帰ることになりました。」と使者が答えています。小松姫が「伊豆守殿(信幸)も一緒ですか。」と尋ねると、使者は「伊豆守殿は家康公に従軍しました。」と答えると、安堵の表情を浮かべ、「女といえどこの城を預かり、留守を守っている以上、舅といえども、理由なく城に入れることは出来ません。どうか市中に宿を借りて休息してください。」と答えています。使者がこのことを昌幸に伝えると、「さすがは本多の娘だ。」と感嘆し、「昌幸は城を取ろうとしているのではない。孫に会いたいと思っただけである。心を労することの無いように。」と使者に伝えさせています。これに対しても耳を貸さず、城下の敵に備えて戦闘の準備を指示したという。ところがこの後、小松姫は沼田城下の正覚寺に孫を連れて昌幸に会いに行っています。また、昌幸・幸村が九度山に流されてからは仕送りをして生活を助けています。ううむ、確かにさすが本多忠勝の娘ですね。
さて小山の陣で東軍が協議した結果、徳川家康率いる本隊は東海道を西上し、徳川秀忠率いる別働隊は中山道を西上することになった。秀忠軍に中山道を行かせたのは、真田が家康が去った後の江戸を上杉らと呼応し奪うことを恐れ、抑えておきたかったからであろう。・・・と言うのは表向きで、実は秀忠軍には徳川方の主力を与えていて、これを温存しておき、三成率いる西軍は豊臣の直臣をもって滅ぼそうと考えていたのだと思います。
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真田井戸 |
東軍先鋒・徳川秀忠率いる部隊およそ3万8,000の大軍は江戸を発して中仙道を下り、9月6日には上田城攻略を開始します。
本来は中山道を通って西上するのに上田を通る必要はなく、上田城監視部隊を残して、すぐに西上するべきでしたが、まだ若かった秀忠は敵がいるのを無視して通ることはできなかったのでしょう。要するに父の家康と同じく、真田氏を甘く見ていたのが敗因となります。昌幸は僅か2,000の兵力で篭城して迎え撃ち、関ヶ原の戦いの前哨戦である第二次上田合戦の幕が開きます。9月2日に小諸城に入った秀忠は、まずは昌幸を降伏させようと、信幸と本多忠政(忠勝の嫡子)を使者として送り、9月3日に信濃国分寺で会見が行われています。昌幸は頭を丸め、開城する旨を申し入れています。そして開城するまでの準備などに数日の猶予が欲しいと申し入れています。ううむ、役者よのう。使者に立っていた信幸は父の申し入れを半信半疑のまま秀忠に伝えています。これにより秀忠が真田を降伏させることに成功した・・・かに見えたのですが、もちろんこれは昌幸の芝居です。昌幸・幸村父子は上田城に兵糧、弾薬などを運び込み、上田城周辺の各所に伏兵をしのばせるなど、軍備を固めていました。そして、万全の軍備を固めることができたわけです。こんな単純な手に引っかかるなんて、秀忠って・・・。
さて、いつまでたっても開城しないことを不審に思った秀忠は、開城を催促する使者を立てると、昌幸は逆に宣戦布告をしてきたのです。この時の口上も振るっていて、兵糧や武器弾薬を運び入れ、戦準備ができたからいつでもお相手いたすと言うのです。これに対して、怒った秀忠は9月5日に上田城への攻撃命令を下します。
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上田城西櫓の説明板と石垣 |
真田昌幸は秀忠軍3万8千を決戦場である関ヶ原に遅参させることが目的であり、少しでも長く秀忠軍を上田城に釘付けにしておく必要があったのです。上田城を無視して先を急がれたら昌幸にはどうしようもなかった。なんとか上田城に目を向けさせるためにあからさまな挑発をしたのです。若い秀忠は昌幸の挑発にまんまと乗ってしまったのでした。
まずはじめに上田城の北に位置している戸石城を落とすために、真田信幸隊が進撃しました。戸石城は真田幸村が守っていたが、幸村は兄との戦闘を避け上田城に撤退しています。まあ、地理に詳しい信幸と戦うのは不利ですからね。信幸は無人となった城を確保し、これを守備しています。秀忠は9月6日に上田城外の染谷台に陣を進め、上田城を包囲しています。そこに、昌幸・幸村が4、50騎を率いて城外に偵察に出てきましたが、昌幸は戦わないで城内に引き揚げると、徳川軍は昌幸を追って上田城に迫りました。しかし、続く兵が少ないので後軍が来るまで待機していると、そこに真田の伏兵が現れ激しい戦いになっています。
次第に押されてきた真田軍は城に退き始め、これにつられた徳川軍は追撃をはじめ、上田城近くまで迫ったとき、伊勢崎城から現れた伏兵が手薄になった秀忠本陣に襲い掛かります。徳川軍は混乱し、そこに向かって真田鉄砲隊が射撃をはじめ、さらに真田幸村隊が城から討って出て、秀忠軍を挟撃しました。
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上田城西櫓 |
これにより徳川軍はかろうじて総崩れを免れたものの、大損害を受けています。後軍は救援に来ようとしていたが、神川が増水しており流れが激しく渡ることが出来なかった。これは、あらかじめ幸村が神川の上流をせき止めておき、徳川軍の状況を見て、せき止めを切ったためでした。しばらくして、徳川の後軍がやって来たので、幸村は上田城に退却し、篭城策をとっています。
秀忠はなおも上田城を攻撃しようとしましたが、為す術がなく、また秀忠は美濃への着陣を促され、上田攻略を諦めることになります。その後は悪天候の影響もあり、結果的に秀忠軍は9月15日の関ヶ原本戦に間に合わなかったのです。
この戦いは、兵力的には圧倒する徳川軍でしたが、地形的に兵力の優勢を生かし切れず、逆に地形を完全に掌握している地元の真田軍に巧みに翻弄され、敗北を喫したと言えます。
その後、関ヶ原本戦での西軍の石田三成敗戦の報が届いても上田城はすぐには降伏せず、海津城主森忠政の家臣である葛尾城代井戸宇右衛門配下の兵の守る葛尾城に対して上田城から9月18日と23日の2度に渡って幸村を出撃させて夜討と朝駆けの攻撃を加えています。しかしながらもはや西軍の敗北は明らかで同月中には徳川からの降伏・開城要請に応じています。
関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、戦後処理における処分は『上田軍記』などに拠れば昌幸と幸村は上田領没収と死罪が下されるが東軍に属した長男の信幸(後の信之)の助命嘆願で死罪を免れ、上田領は信幸に与えられています。12月には昌幸、幸村親子は紀伊高野山山麓の九度山に蟄居することになります。
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上田城真田神社 |
江戸時代には昌幸の嫡男・信之により上田城が破却されてその跡地に上田藩の藩庁が置かれていました。
真田信之が1622年(元和8年)に信濃国松代へ転封されて、仙石忠政が信濃小諸藩から上田藩に転封となり、破却された上田城を現在のような姿に再建しています。仙石忠政により、本丸の3棟の櫓(南櫓、北櫓、西櫓)などが再建されています。しかしこの時点では天守が築かれることはありませんでした。
忠政は上田城修築などに尽力していますが、寛永5年(1628年)に死去し、跡を子の仙石政俊が継いでいます。政俊は検地を主流とした土地制度改革を行なっていますが、結果として失敗してしまい、結局、上田の収入は貫高制のまま移行できなかったのです。政俊の子・仙石忠俊は父に先立って早世していたため、孫の仙石政明が寛文9年(1669年)に後を継いでいます。この時、忠政の三男・仙石政勝が小県郡の内で2,000石を分与されています。
宝永3年(1706年)、仙石政明が但馬国出石藩へ移封され、入れ替わりに出石藩から松平忠周が上田城に入っています。
初代・忠周は領内の支配体制を固め、京都所司代や老中を歴任していて、幕閣に参与しています。享保13年(1728年)に忠周は死去し、その跡を子の松平忠愛が継いでいます。このとき、弟の松平忠容に川中島の内で5,000石を分与しています。このため、上田藩領は5万3,000石となっています。
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真田神社境内 |
寛延2年(1749年)、忠愛は隠居してその子・松平忠順が継いでいます。この忠順の宝暦11年(1761年)に大規模な百姓一揆が発生しています。これを上田騒動と呼び、一揆方が年貢の軽減、農民を人足として使う事をやめる、検見を行う役人(郡奉行)の不正の取り締まりを求めて起こしたものでした。これにより不正を行っていた郡奉行達は罷免され、農民側の言い分が認められた一方、一揆の首謀者は死罪、永牢となっています。
天明3年(1783年)に忠順は死去し、その子・松平忠済が継いでいます。ところが忠済は嗣子に恵まれず、彼の晩年には相続問題が発生しています。このため、分与した忠容系統から松平忠学を養嗣子として迎え、文化9年(1812年)に忠済は隠居して忠学に家督を譲っています。この忠学は有能で、翌年には藩校・明倫堂と武芸稽古所(演武場)を設けています。また、軍制制度・土地制度の改革なども行なっています。忠学は忠済の四男・松平忠和を養子としていますが、この忠和も夭逝してしまい、再び跡継ぎの問題が発生します。そこで文政13年(1830年)に忠学は隠居し、姫路藩より迎えた酒井忠実の子・酒井玉助を養子とし、玉助はのちに松平忠固と名乗り家督を相続します。忠固は奏者番・寺社奉行加役・大坂城代・老中などを歴任しています。第13代将軍・徳川家定の嗣子をめぐって南紀派と一橋派による争いが起こると、忠固は南紀派に与して井伊直弼の大老就任などに尽力しています。しかし忠固はやがて直弼の安政の大獄問題から対立して老中職を罷免されてしまい、安政6年(1859年)に死去しています。忠固の後はその子・松平忠礼が継いでいます。ところが亡父忠固が幕政に参与して藩政を顧みなかったために藩財政が悪化していて、藩内部では藩政の主導権をめぐって藩内で政争が起こるなどの混乱が続いています。
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真田石 |
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府側に与して北越に出兵するなど、戦功を挙げています。
明治2年(1869年)には忠礼は版籍奉還を行なって藩知事となっていますが、同年に領内で大規模な騒動が起こっています。
この巳年騒動は凶作に加えて、明治維新直後のインフレによる米穀の高値などに苦しめられた農民、庶民の我慢は限界となり、大規模な一揆が発生したのでした。中村では子檀嶺神社に集合し、3人の惣代の選挙と13ヶ条の願意を提出しています。交渉の結果「聞き届け13ヶ条」、「即時聞き届け不能14ヶ条」となり終結しています。そして首謀者5名が梟首、斬罪、永牢となった。
明治4年(1871年)の廃藩置県で上田藩は廃されて上田県となる。そして同年11月、上田県は長野県に吸収されたのである。
明治以降は、破却や城外への移築が行われて城内には石垣と櫓が1棟残るのみであったが、昭和期に、移築されていた本丸の櫓2棟が元の位置に復元され、平成期には櫓門や塀などが木造復元されています。
現在は旧二の丸内が上田城跡公園という公園になっており、毎年花見の季節になると、多くの市民や観光客で賑わいます。
また、敷地内には市営球場、市民会館、市立博物館などが置かれています。本丸跡には、明治に松平神社として建立された歴代城主を祀った神社があり、元は松平神社だったのに、現在では真田神社と呼ばれています。境内には古井戸があり、「城外への抜け穴になっていた」との伝説があります。三の丸の藩主居館跡には、松平氏時代の屋敷門と堀が残されています。
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上田城二の丸東虎口跡 |
同地は現在上田高校の敷地として利用され、門は学校の正門として使用されています。
1874年(明治7年) 廃藩置県により廃城となっていた上田城の土地、建物は民間へ払い下げられています。
本丸に7棟あった櫓は、西櫓を残して解体、売却されています。このうち2棟は上田市内の遊郭に払い下げられて、一つの建物に連結されて使用されています。
1934年(昭和9年)12月28日には国の史跡に指定されています。
昭和16年(1941年)に遊郭となっていた2棟の櫓が目黒雅叙園に買い取られていますが、市民の運動によって買い戻され、現在の北櫓と南櫓の場所に再び移築復元されています。現在は、3棟の櫓が県の文化財に指定されています。
1994年(平成6年)には南櫓と北櫓の間を結ぶ東虎口櫓門と袖塀が古写真を基に復元されています。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(27番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されています。
なお、2007年(平成19年)12月14日放送のBS熱中夜話(日本の城 前編)「お城ファンが選んだ 好きな城ベスト10」では、姫路城(2位)大阪城(3位)を抑えて上田城が1位に選ばれています。理由としては、城そのものよりもむしろ真田人気が大きいようです。
現在の上田市でも真田人気は絶大で、城の周辺も真田一色です。真田氏が上田を治めていたのは、40年程度なんですが。
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上田城外堀はけやき並木遊歩道となっています |
上田城外堀は空堀になっています |
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平和の鐘 |
上田城二の丸東虎口跡石垣 |
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上田城北櫓 |
上田城北櫓 |
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上田城東虎口櫓門裏門と南櫓 |
上田城北櫓と石垣 |
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上田城本丸跡を示す碑 |
上田城本丸北側 |
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上田城本丸土塁 |
戊辰役上田藩従軍記念碑 |
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上田城西櫓 |
上田城内堀 |
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上田城西櫓 |
西虎口からみた内堀 |
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上田城西櫓 |
花木園 |
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花木園内部 |
二の丸西側の土塁 |
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土塁上から花木園を見る |
二の丸西虎口付近 |
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本丸西虎口 |
本丸を仕切る石垣 |
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本丸真田神社裏手の石垣 |
本丸北櫓 |
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本丸真田神社 |
本丸東虎口櫓門 |
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住所 |
長野県上田市二の丸(上田城跡公園) |
形式 |
梯郭式平城 |
遺構 |
櫓 土塁 水堀 空堀 石垣 |
築城者 |
真田昌幸 |
再建造物 |
櫓門 塀 |
城主 |
真田昌幸 仙石氏 松平氏 |
施設 |
説明板 碑 トイレ 無料駐車場 |
築城年 |
1583年(天正11年) |
文化財 |
国史跡 長野県宝(櫓3棟) |
廃城年 |
1874年(明治7年) |
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