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太田本郷城跡にある説明板と石碑 |
太田本郷城)は富山県富山市太田南町にあった平城です。しかし残念ながら未だにその全容は把握されていません。
しかしこれまでその所在は、現在石碑が建つ太田南町周辺にあったと推定されてきました。
ただしこの一帯は、ほ場整理が行われていて現在のところ土塁や堀跡のような遺構が見あたらず、明確な城域はこれまで判明していませんでした。
平成3年の調査により、この位置から東へと延びる堀跡が発掘され、堀の中からは安土桃山時代の土器が大量に発見されています。恐らく出陣の際の水杯に使用されたものと思われていて、この地に太田本郷城があった事を示す有力な証拠とされています。ただし、明確な城域はまだ判明していません。
と言うわけで、ここでは太田本郷城は、石碑のある場所、及びその周辺にあったと考えておきましょう。
城域と推定される周辺には円光寺がありますが、浮田家住宅もそばにあり、もしかするとこのあたりまで城域に含まれていたのかも知れません。
浮田家住宅は、国指定重要文化財に指定されていて、こちらの方が見所も多いし、屋敷の周囲を見るといかにも江戸時代の居館という趣があります。
太田本郷城は、元亀4年(1573年)、上杉謙信の家臣であり越中国松倉城主河田長親によって築かれています。元亀3年(1572年)に一向一揆に備えて河田長親がこの地に陣を張り、翌年に向城を築いたという記録があり、これが城の始まりと言われています。
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太田本郷城跡にある説明板 |
この年には越中国富山城に拠った一向一揆勢は謙信によって尻垂坂の戦いで撃退され、その後、河田長親は越中国太田下郷を拝領しているので、太田保支配の拠点の一つとして太田本郷城が築かれたのでしょう。河田長親は当初は一向一揆軍に圧倒されていましたが、新庄城で一向一揆を撃退したので富山周辺から一向一揆を一掃することができたわけです。太田本郷城がどの城の向城として築かれたのかは不明ですが、河田長親は越中国今泉城に代官を置いて周辺を支配したと考えられる事から、今泉城の付城として築かれたと考えれば納得できます。
天正6年(1578年)3月、謙信が死去し、後継者争いから御館の乱が勃発し、越中国にも動揺が広がりました。
河田長親は越中の国人たちへの引き締めに努めるのですが、この状況を好機とみた織田信長は越中国人衆に調略を仕掛けて越中国城生城城主斎藤信利、信吉兄弟等を寝返らせるとともに、飛騨国から神保長住、斎藤利治等を越中国に侵攻させています。城生城は、飛騨国から越中国へ侵攻する時の途中にあり、堅城であるため、あらかじめ調略により寝返らせておいたわけです。このあたり信長は抜け目がありません。越中国津毛城を攻略された上杉勢は太田本郷城を放棄して今泉城に入り、織田勢は労せずして太田本郷城に入城し、さらに月岡野の戦いで上杉軍を撃破して今泉城をも落とし、織田勢は一時的に越中国攻略の足場を築いています。ただし、上方で荒木村重の謀反などトラブルが発生してそちらに軍を向ける必要があったため、越中攻略は一旦頓挫することになります。
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浮田家住宅にある説明板 |
月岡野の戦いは天正6年(1578年)10月4日に織田軍を率いる斉藤利治が今泉城を攻めるが、守りが堅くなかなか落ちないので一旦撤退すると見せかけて、上杉軍を城からおびき出し、地の利の悪い月岡野で逆襲して撃破したという戦いです。
斉藤利治は戦上手ですね。河田長親は太田本郷城から月岡野まで討って出るとは焦りがあったと思われますね。太田本郷城から月岡野までは約3kmほどあり、どう考えても城から離れすぎていますので反撃されても城に戻ることができないでしょうに。
その後の太田本郷城の動向はイマイチ不明です。
しかし天正6年(1578年)12月に椎名駿河守(椎名景直)が上杉方から織田方へと寝返って、その見返りとして信長より越中国太田保を賜っていると記録が残っていて、椎名景直が太田本郷城へ入った可能性が高いと思われます。
ですが、椎名景直は月岡野の戦いでは河田長親とともに上杉軍の主力として戦っているのに、それから2ヶ月後にはもう寝返っているとすれば、信用できない人物ですね。この椎名景直は、元々は長尾景直で上杉一門なのですが椎名康胤の養子となって椎名氏を継ぐこととなっていましたが、椎名康胤が武田氏に寝返ったため、上杉軍に松倉城を追われて天正4年(1576年)には蓮沼城にて滅ぼされています。椎名景直は、そのまま上杉方として河田長親の配下として越中を転戦していたわけですが、織田方に寝返るとは・・・。
一方、斉藤利治が治めたと言う説もありますが、彼は以後本能寺の変に至るまで織田信忠につき従っていて、本能寺の変でも信忠に殉じているので一時的に城を預かることはあったかと思いますが、その後は越中にはいなかったと思われます。ただ、太田本郷城のそばにある円光寺は実は利治の菩提寺となっています。
浮田家住宅は、3000石を有した代官であった浮田家の役宅で、1693年に4代目当主が立山・黒部一帯の山林保護や国境警備のため奥山廻役に任命されています。現在の屋敷は、1828年に建てられたもので、江戸時代中期の豪農民家の建築様式を当時のまま残していて、昭和54年には母屋、表門、土蔵の3棟が国重要文化財に指定されています。
浮田家は、あの宇喜多秀家のゆかりの家と言われています。
関ヶ原の戦いで敗れ、薩摩に逃れた秀家が八丈島に流されたため、秀家の妻であった豪姫の実家である前田家では、秀家を捨て置けなくていろいろと仕送りしたいが、幕府の手前大っぴらにはできないため、この浮田家を通して八丈島にいろいろと仕送りをしていたと言われています。
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浮田家表門は国重要文化財に指定されています |
浮田家住宅の周囲は石垣となっています |
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浮田家住宅全景 |
浮田家住宅遠景 |
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住所 |
富山県富山市太田南町 |
形式 |
平城 |
遺構 |
なし |
築城者 |
河田長親 |
施設 |
石碑 案内板 |
城主 |
河田長親 斎藤利治 椎名景直 |
駐車場 |
なし |
築城年 |
元亀4年(1573年) |
文化財 |
なし |
廃城年 |
天正6年(1578年)以降 |
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住所 |
富山県富山市太田南町272番地 |
電話 |
076-492-1516 |
開館時間 |
午前9時~午後5時まで(入館は午後4時30分まで) |
休館日 |
月曜及び祝日の翌日 (但し、祝日の翌日が土曜日・日曜日の場合は開館します。)
年末年始(12月28日から1月4日)
なお、臨時の開館及び休館があります |
入館料 |
個人 |
大人 |
100円 |
小人 |
50円 |
団体(20人以上 ) |
大人 |
80円 |
小人 |
40円 |
■茶室等の使用料 |
1日1回 3,150円 |
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駐車場 |
屋敷前に駐車スペースあり |
文化財 |
国重要文化財(主屋、表門、土蔵) |
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