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蓮沼城跡の石碑 |
蓮沼城は、富山県小矢部市蓮沼にあった平城です。蓮沼の微高地にあり、当時は蓮沼三千軒と呼ばれるほど繁栄していたと伝えられています。理由としては小矢部川がすぐそばにあり、水も豊富で年間を通して水量の変動も少ないことから水運にも便利だったからと考えられます。
室町時代の永享年間(1429年-1441年)前半に、越中守護畠山氏の守護代であった遊佐氏が築城し居城としたと考えられます。規模としては東西二十六間、南北三十六間、堀の幅は五間であったと伝えられています。
ということは、東西が47.3m、南北が65.5m、堀の幅が9.1m程度ということになり、城というには小規模なものでどちらかというと砦のようなものだったのでしょうか。
堀は城の規模に比べると幅が広いのはおもしろいところですが、堀には水があったのかどうか。これについてはよくわかっていません。
戦国時代となり、城主遊佐慶親が永正・大永年間(1504年から1527年)に埴生護国八幡宮に108段の石段を寄進したという記録が残されていますが、この後、遊佐慶親は加賀一向一揆勢力の侵入をたびたび受けるようになり、ついに破れて越後に亡命しています。この後は蓮沼城は一向一揆勢力の支配下に置かれていたと思われます。また、一向一揆と敵対関係にあった木舟城主石黒氏が一時期支配下に置いていたとも言われていますが、詳細は不明です。石黒氏は、蓮沼城の支城であった柴田屋館も攻め滅ぼしたと言われています。
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蓮沼城跡の案内板 |
永禄12(1569年)年以降、上杉謙信により魚津の松倉城を追われ礪波郡の一向一揆勢力に合流していた椎名康胤がここを居城としていましたが、天正4年(1576年)9月頃には上杉謙信に攻められて蓮沼城は落城し、椎名康胤は陣没したと言われています。しかし実は康胤終焉の地については諸説あって今ひとつはっきりしません。
ただし、一向一揆衆がこの際に大きな打撃を受けたことはその後の上杉謙信の素早い軍事活動の様子から見て間違いないと思われるので、椎名康胤もやはりこのときに討ち取られたと考えるのが妥当でしょう。
蓮沼城は小規模な平城ですし、大軍で攻められたらひとたまりもなかったと思われます。
天正13年(1585年)には、越中国主であった佐々成政は豊臣秀吉が侵攻してくることを予測して、前田利家の加賀・能登への侵攻を断念して自領の防衛策へと方針を転換しています。蓮沼城はその重要拠点となり近隣から多くの兵糧が集められていたのを前田利家がこれを狙って蓮沼城を急襲して城下を焼き討ちして、佐々軍の救援が着く前に素早く撤退しています。
蓮沼付近には当時は北陸道が通っていて、遊佐氏が居城としていた時期には礪波郡の行政の中心地であった事もあって大いに栄えていたのですが、全てが焼かれて灰燼と帰してしまったわけです。
前田利家は天正13(1585年)年4月には今石動城を築城していて、城下町も今の石動駅周辺に作られるようになり、それに伴い北陸道のルートも変更されて、蓮沼は事実上放棄されて寂れてしまったのです。
現在の蓮沼城跡には遺構は何も残っていません。城跡には水田や住居があり、どこが城跡なのか判然としない状態と言えます。 |
住所 |
富山県小矢部市蓮沼 |
形式 |
平城 |
遺構 |
なし |
築城者 |
遊佐氏 |
施設 |
説明板 石碑 |
城主 |
遊佐氏 一向一揆 石黒成綱 椎名康胤 上杉氏 佐々氏 |
駐車場 |
特になし |
築城年 |
永享年間 |
文化財 |
なし |
廃城年 |
天正13年(1585年) |
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