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松倉城址 |
松倉城は、富山県魚津市鹿熊字城山にある標高430.9mの松倉山山頂にある山城です。別名は「鹿熊城」。
富山県史跡となっています。増山城、守山城とともに越中三大山城の一つと呼ばれています。
本丸には数百本の桜が植えられていて、富山さくらの名所50選にも指定されているほどです。
本丸からの展望も良く、新川平野一帯を一望できます。
三方は断崖となっていて、山頂には空堀で区切られた五つの曲輪が南北に並んでいてその長さは1kmにも及び、越中最大規模の山城です。
さらに松倉城の周囲には支城・砦跡と考えられる遺構が多数あります。支城群として魚津城、水尾城、水尾南城、北山城、小菅沼城、升方城、坪野城、天神山城の存在が確認されています。
松倉城は近くに松倉金山があり、ここから産出される金により潤っていたと考えられます。
この松倉城は、いわゆる典型的な中世山城としての縄張りを持っています。5つの曲輪は連郭式として直列に並んでいてその間はいずれも堀切が切られていて相互に連携が取りにくい構造となっています。戦国初期の山城はたいていこのような構造となっているものですが、ある意味では戦国大名が必ずしも絶対的な権力を持っていたわけではなく、それに協力する土豪たちとはあくまで同盟関係にあったということを伺わせる事実といえます。この松倉城には支城も多いのですが、それも他の武将たちがそれぞれ一城を持っている同盟者であるためと言えましょう。松倉城の支城である升方城と水尾城との中間にある松倉城下には、松倉城の大手門と言われている「石の門」の石垣遺構があります。
また、主郭群の北西には、門が構えられた大きな削平地である「大見城平」がありますが、実はここが城主の屋敷跡と考えられています。他に、松倉城の曲輪には、三の丸の先に四の丸があり、尾根伝いに「平の峰」に至ります。平の峰の下方には処刑場跡と言われる窪地の獄門原があります。
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二の丸跡 |
さらに、北山城跡から松倉城跡に至る途中には、家老職武隅氏の城館跡である武隅屋敷(小菅沼城跡)の枡形門跡や石垣遺構があります。
この松倉城は、上記のようにたいへん良好な状態で遺構が残されていて、見どころが多いのです。
この松倉城は、基本的には土塁と堀切が主体の山城ですが、小規模ながら石垣もあります。
しかしながら織豊系城郭にはよく見られる枡形虎口や馬出しの類は見られず、佐々成政や前田氏が改修したという形跡も見受けられません。上杉氏もここを領有していた時期がありますが、上杉氏が城を改修したかどうかは不明です。上杉系城郭も基本的には土塁と堀切主体の城郭なので椎名氏とは大差ないでしょう。
佐々氏がここを領有するようになった直後には、加賀の前田氏と対立するようになり加越国境の城郭群を強化していましたが魚津方面は手薄だったのかも知れません。その頃には魚津城が魚津方面の中心で升形城が詰めの城となっていてこの松倉城は重視されなくなっていたようです。
この松倉城は築城は、南北朝期の1335年頃と考えられていて、当時の越中守護普門(井上)俊清が築城したと言われています。
ただし後の越中守護代椎名氏が築いたとの説もあり、定かではありません。
南北朝期には椎名氏始祖の椎名孫八が松倉城に入城したとされます。椎名氏は、後に越中守護として赴任した畠山氏に仕え、新川郡守護代に任命されています。
畠山氏が応仁の乱で衰退した後、越中国は椎名氏、神保氏、長尾氏など数多の武将による戦乱が繰り返されています。
松倉城は、椎名氏の居城として松倉金山のおかげもあり繁栄していました。
椎名氏は、越中東部を支配する守護代でもともと親長尾派でしたが、越中西部を支配する神保氏と対立するようになり、椎名康胤は神保長職に押されて長尾氏に頼る事態に発展し、長尾氏(上杉氏)が越中に介入する口実を与えてしまった感もあります。
神保長職が上杉謙信の攻撃を受けて富山城を奪われ増山城に退却することで椎名氏は窮地を救われましたが、1568(永禄11)年になり、椎名康胤は武田信玄にそそのかされ、突如上杉氏か
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松倉城堀切 |
ら離反し、一向一揆と結んで武田信玄方に寝返ったのです。これに激怒した上杉謙信は椎名康胤を攻め、康胤は松倉城から追放されてしまいます。椎名康胤は、小矢部市蓮沼にある蓮沼城に逃れましたが、天正4年(1576年)に上杉謙信によって滅ぼされています。
上杉氏はその後は平野部にあり交通の便が良い魚津城を新川郡の拠点としたため、松倉城の政治的、軍事的役割は低下してしまいます。その後、上杉氏家臣の河田長親が松倉城主となりますが、天正10年(1582年)には織田軍により魚津城が攻撃を受け、天神山城、松倉城に駐屯していた上杉軍も退却していて城は放棄されています。魚津城も落城してしまいましたが、信長が本能寺の変により討たれた事で織田軍は退却し、上杉軍が再び魚津周辺を取り戻しています。
しかし天正11年(1583年)には佐々成政が魚津城へ再侵攻してきて、魚津城主須田満親が城を明け渡して撤退したため、佐々成政が魚津周辺を支配するようになり、松倉城も佐々成政の持城となっています。それに伴い麓の鹿熊にあった城下町は魚津へ移っています。さらに天正13年(1585年)の秀吉の越中征伐により佐々成政が越中を去った後は、松倉城も前田氏の属城となっていますが、慶長年間(1596~1615)には廃城となっています。
さて例によってですが我が軍がこの城を攻めるにはどうすればよいかですが、この城はなかなか堅固な山城で落とすのは容易ではありません。山は険しく標高が高いのでどこから攻めても簡単に本丸へ入れるとは思えません。
非常に良い場所に城を築いたもので、ここに数千の兵で籠もればまず攻め落とすのは難しいでしょう。強いていえば、ふるさと歩道から本丸を直撃する方法が考えられますが、相当の抵抗が予想されます。この城を上杉軍が攻め落としたというのですから、上杉謙信はさすがに名将だと感心します。しかし攻め落としたといっても椎名氏の逃走を許しているので城を完全に包囲していたというわけではないようです。
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松倉城主之碑 |
松倉城跡説明板 |
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松倉城之図 |
松倉城本丸への階段です |
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空堀跡に案内板がありました |
本丸と二の丸を隔てる空堀跡(堀切) |
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二の丸への階段 |
本丸と二の丸を隔てる空堀跡(堀切) |
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二の丸の手前にも曲輪がある |
松倉城本丸 |
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本丸は山城としてはかなり広い |
本丸の奥に一段高いスペースがある |
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本丸にある松倉城絵図 |
本丸に設置された説明板 |
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本丸にある休憩所 |
本丸では何か工事中のようです |
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本丸にある説明板 |
松倉城址を示す石碑 |
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本丸にある施設 |
本丸からの展望は雄大です |
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本丸の奥になにやらありますが・・・ |
本丸とは深い堀切で隔てられているのです |
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どうも祠がある独立した曲輪のようです |
堀切の底へ降りてみました |
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祠がありました |
祠がある部分が一段高くなっています |
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祠側から見た堀切 |
本丸から地上用望遠鏡でなにやら観測していますが |
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本丸のある巨石群は何だろう・・・ |
案内板を設置する工事をしているようです |
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本丸には一段低い帯曲輪があります |
二の丸への入り口も一段低い曲輪があります |
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曲輪の手前には土塁があります |
二の丸と本丸の間の堀切 |
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二の丸への階段 |
二の丸より一段低い帯曲輪 |
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二の丸ですが・・・熊に荒らされたようです |
どう見ても熊の仕業でしょう |
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二の丸 |
二の丸もそれなりの広さです |
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四の丸方面への入口 |
三の丸と四の丸の間の堀切が階段となっています |
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四の丸、本丸への案内板 |
三の丸と四の丸の間の堀切 |
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四の丸 |
四の丸の周囲には土塁があります |
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二の丸と三の丸の間の堀切 |
三の丸 |
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三の丸の周囲にも土塁があります |
三の丸から二の丸への階段 |
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三の丸と二の丸の間の堀切 |
二の丸から三の丸方面へ降りる階段 |
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三の丸全景 |
堀切から見た三の丸 |
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四の丸の櫓台跡・・・かな |
四の丸全景 |
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住所 |
富山県魚津市鹿熊城山 |
形式 |
連郭式山城 (標高430m/比高360m) |
遺構 |
曲輪・土塁・石垣・堀切 |
築城者 |
普門氏 |
施設 |
石碑 案内板 トイレ |
城主 |
普門氏 桃井氏 椎名氏 上杉氏 佐々氏 |
駐車場 |
無料 |
築城年 |
建武2年(1335年)頃 |
文化財 |
県指定史跡 |
廃城年 |
慶長年間 |
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