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魚津城跡にある石碑 |
魚津城は、富山県魚津市本町にあった平城です。別名、小津城、または小戸城とも呼ばれています。
椎名氏の本城であった松倉城の支城のひとつとして、建武2年(1335年)椎名孫八入道によって築城されたといわれています。
永禄11年(1568年)に椎名康胤が上杉氏から離反すると、上杉謙信の侵攻を招き、松倉城、魚津城などが上杉氏の手に落ちて、椎名康胤は蓮沼城へ逃れています。以後、魚津城は上杉氏の越中支配における重要拠点となり、河田長親が長く城代を務めていました。椎名氏の時代は松倉城を本城としていましたが、上杉氏が魚津周辺を支配するようになると、この魚津城を拠点とするようになったと考えられます。松倉城はあまりに山が険しく交通にも不便ですが、魚津城は平野部にあり海にも近く交通の便が良いからでしょう。
ところが上杉謙信が天正6年(1578年)3月13日に春日山城で没して、上杉氏は分裂し御館の乱が発生します。
御館の乱は、上杉景勝が上杉景虎を滅ぼして勝利しましたが、これにより上杉氏は弱体化してしまいます。
その後、織田信長が北陸地方の支配を目論み、次第に勢力を伸ばしてきます。天正9年(1581年)に起こった荒川の合戦で織田軍が上杉軍を破った以後は、事実上織田方に仕えているが上杉方への内通を疑われた願海寺城主・寺崎盛永、木舟城主・石黒成綱などが信長によって次々と粛清されていて、北陸地方における織田方の基盤が作られています。
しかし天正9年(1582年)には織田氏に仕える小島職鎮が上杉景勝に内通し、神保長住の富山城を急襲し城を乗っ取っています。
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魚津城古絵図 |
それに激怒した信長が天正10年(1582年)3月11日に柴田勝家・佐々成政・前田利家・佐久間盛政を大将にして1万の軍勢を率い、富山城を攻めさせ奪還しています。この日は甲斐国田野で武田勝頼が自刃した日でもあります。要するに織田軍は上杉軍が武田軍への援軍を出せないように同時作戦を展開したとみることができます。勢いにのる織田軍は軍勢を4万に増やしさらに魚津城へ進撃、上杉方も約3800の兵を挙げ魚津城に立て篭もり、籠城戦が始まっています。
魚津城は上杉氏の本領・越後国との国境近くにあり、上杉氏にとっては越中における最後の防衛線であったので、魚津城の中条景泰らはすぐに上杉景勝に救援を求めていますが、この時点では武田勝頼を滅ぼした織田軍がまだ甲斐国や信濃国に駐留していて、さらには越後国新発田城主・新発田重家が反乱を起こし、織田勢に呼応して蒲原郡に侵攻していたため、上杉景勝は越中方面に援軍を送れる状況ではありませんでした。やむなく能登国の諸将および上条政繁・斎藤朝信らを先発隊として派遣していますが、1万とも1万5千ともいわれる織田勢の前には手が出せずにいました。魚津城は、平地にある平城で防御に強いとはいえない構造だったため、このままだと落城も時間の問題でした。
魚津城を守る将12名は4月23日付の連署による書状で「壁際まで押し寄せた敵が昼夜40日に亘って攻めていたところ、これまでなんとか守ってきたが、もはや討死の覚悟を決めた」旨を景勝の重臣・直江兼続に宛てて伝えるほどまでに事態は逼迫していました。
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魚津城の今と昔の比較 |
この時点では上杉景勝は北信濃方面からの織田軍の侵入を警戒していましたが、信長が甲斐国から駿河国・遠江国を経て安土城に凱旋したことを確認して、ついに越中国への出陣を決意しました。景勝自ら5千(3千とも)ほどの軍勢を率いて越後国春日山城を発向したのが5月4日のことでした。
一方、魚津城を取り巻く織田勢は4月中旬より猛攻撃を始めており、5月6日には二の丸を占拠しています。
上杉本隊は5月15日には、魚津城の東側にあたる天神山城に着陣しています。しかし魚津城を包囲する織田勢は上杉本隊との決戦を望まず、兵数に劣る上杉勢も打って出ることができず、両軍は対峙して戦線は膠着しています。織田方は、土塁や柵、深い堀を築いており、上杉軍が魚津城を救援することは困難な情勢でした。
さらに、景勝が春日山城を留守にして越中国に滞陣していることを知った信濃国海津城の森長可、および上野国厩橋城にいた滝川一益が呼応して春日山城を衝く気配を見せたため、上杉景勝は魚津城救援を断念し、春日山城に引き返すことを決意し、ついに5月27日には上杉軍は越後に撤退しています。一説には景勝はこのとき、城を明け渡す条件で和議を結んで帰国しても構わないという内容の直判の書を城中に送ったともいわれています。
しかし城兵たちは、降伏することを潔しとせず、なおも徹底抗戦していますが織田勢の厳重な包囲を受けること約3ヶ月、救援もなく兵糧も弾薬も尽きて、落城が近いことを悟った中条景泰・竹俣慶綱・吉江宗信・吉江資堅・寺崎長資・蓼沼泰重・山本寺景長・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊らの城将たちは自らの耳に穴を開け、それに自分の名前を書いた木札を鉄線で結わえ付け、一斉に自刃して果てたのでした。魚津城の落城は6月3日のことでした。なおこの際、前田利家が城兵たちを騙し討ちにしていて、このことが後々まで尾を引くことになり、柴田、佐々の命運に関わることになります。
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魚津城跡にある説明板 |
これにより上杉方の越中における最後の拠点である魚津城が陥落したことになり、越後包囲網は完成し、やがて勝ちに乗じた織田勢が越後国へと侵攻することが予想されました。しかしその前日の6月2日には京都の本能寺で織田信長が重臣・明智光秀によって討たれるという本能寺の変が起こっていました。
柴田勝家ら織田の諸将が信長の死を知ったのは翌4日といわれており、この急報に接した織田勢は全軍撤退しています。
魚津城から織田軍が撤退すると須田満親を中心とする上杉勢が入り、越中東部における失地を奪還しましたが、越中平定を目指す佐々成政が天正11年(1583年)に魚津城を包囲攻撃し、須田満親は城を再び開け渡して撤退しています。
これにより上杉氏の越中支配は終わりを告げ、佐々成政が越中を支配することになりました。
しかし佐々成政の越中支配も長くは続きませんでした。清洲会議以降は羽柴秀吉と柴田勝家が対立するようになり、賤ヶ岳の戦いの際には上杉景勝への備えのため越中を動けず、叔父の佐々平左衛門が率いる兵600の援軍を出すにとどまっています。これは主に魚津城攻めの際に織田軍が城兵を騙し討ちにしたことが原因で佐々と上杉の関係が極端に悪化していたことが影響していると思われます。それにより柴田勝家は秀吉に敗れたとみる事ができます。さらにいえば騙し討ちの張本人であった前田利家の裏切りが決定打となっていて、とことんついていない巡り会わせとなっています。
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魚津城跡のある大町小学校 |
柴田勝家が敗死した後、成政は秀吉に対して娘を人質に出して剃髪する事で降伏し、越中一国を安堵されています。翌天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると3月頃の書状では秀吉方につく素振りをみせていたものの、夏頃になって徳川家康・織田信雄方につき、秀吉方に立った前田利家と敵対して末森城の合戦が起こっています。この時期は越後の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられ、各地で苦戦しています。
この時点で佐々成政が織田・徳川方についたのはいかにも失敗でした。彼らとは領国が離れていて相互に援軍を出すこともできないし、前田氏、上杉氏に両方から叩かれたのではいかに武勇に優れた成政といえども不利です。ここは秀吉に味方するか中立を保つかでしょう。
さらに秀吉と織田・徳川方との和議が成立したので、成政は進退窮まり、家康に再挙を促すため、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を越えて浜松へと踏破しています。世に言う「さらさら越え」ですが、しかし結局説得は功を奏せず、織田信雄や滝川一益にも説得を行ったが快い返事は得られず、むなしく越中に帰還しています。
翌天正13年(1585年)、秀吉が自ら越中に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲しています。成政は織田信雄の仲介により降伏しています(富山の役)。秀吉の裁定により、一命は助けられたものの越中国東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられて、秀吉に仕えています。さらに成政が肥後に国替えとなり越中を去ると、越中一国は前田利長の領地となっています。
前田氏の治下では青山佐渡守・豊後守父子が魚津城代を勤めていますが、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となっています。ただし、魚津城は廃城になったとはいえ、城の機能は残したままだったようです。天明5(1785)年の魚津町の絵図を見ても、魚津城跡が二重の堀に囲まれていて、いざというときには城として機能するであろうことが伺えます。
現在の魚津城跡には大町小学校がありますが、城の遺構はほとんど残っていないのが実情で、石碑があるのみです。 |
住所 |
富山県魚津市本町 |
形式 |
梯郭式平城 |
遺構 |
なし |
築城者 |
椎名孫八入道 |
施設 |
石碑のみ |
城主 |
椎名氏 河田長親 須田満親 佐々成政 青山吉次 |
駐車場 |
特になし |
築城年 |
建武2年(1335年) |
文化財 |
魚津市指定史跡 |
廃城年 |
天正9年(1581年)4月 |
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