|
富山城模擬天守(富山市郷土博物館) |
富山城は富山県富山市丸の内にある城です。
滝廉太郎の荒城の月の題材になった城の一つと言われていて、城の西側に歌碑が設置されています。
別名「安住城」とも呼ばれています。
富山城は天然の要害である神通川を城の北面の守りとした後ろ堅固の梯郭式平城です。
四周を水濠と河川とで2重に囲まれた堅城で、10万石級の大名としては大規模な構えの城です。
「浮城」の別名から、神通川の川面に浮かぶように見えたことが伺い知れます。
縄張りは、ほぼ方形の本丸の南面に二の丸を、東西に出丸を置き、本丸をそれら3つの郭で囲み、さらにそれを三の丸で凹状に囲む形のものでした。
富山前田家の当初の計画では、天守台を石垣で築いた天守、櫓3基、櫓門3門を備える予定で幕府の修築許可を得ていましたが、その後の江戸時代の古図にはいずれも天守の記載がなく、また発掘調査の結果からも本丸南東隅に天守土台となる土居の拡張工事は認められるものの石垣工事の痕跡はないため、天守台は築いたものの実際には天守は築かれなかったと思われます。このような例は実は他の城にもあり、主に財政難からと考えられます。
3基の櫓については史料がなく、やはり建てられなかったと見るべきでしょう。
また櫓門も実際に建てられたのは本丸大手・本丸搦手・二の丸のうち、二の丸二階櫓御門のみであったとされています。
二の丸から本丸への大手口は現在でも残っていますが、石垣の間を大きく迂回しないと本丸へ入れないようになっていて、ここから侵入するのは狙い打ちされる恐れがあり織豊系城郭の性格を強く持っていることがわかります。
|
富山城と堀 |
富山城の縄張りは藩政期を通して大きな変化はなかったが、富山藩10代藩主前田利保が、嘉永2年(1849)に完成させた千歳御殿が東出丸の外側(東側)に建設されています。その形状は周囲に水濠を設けた独立郭です。
能楽に親しんでいた利保は、千歳御殿にも能舞台を設けました。また内部の装飾にも最新の流行を取り入れて豪華なものだったとされています。しかし、完成からわずか6年後の安政2年(1855年)に、大火によって焼失してしまいました。その後すぐに再建されましたが、その際には能舞台もない簡素なものだったようです。現在では千歳御門が残るのみとなっています。
幕末には東西約680メートル、南北約610メートルの縄張りがありましたが、明治時代には堀が一部を残して埋められるなどして、現在城址公園として残っているのは、本丸と西の丸(間の水濠は埋め立て)、それらの南面の水濠および二の丸の一部のみ(東西約300メートル、南北約270メートル)です。つまり以前の富山城は今よりもかなり広い城であったことになります。
現在、城跡は「富山城址公園」となっていて、富山市民の憩いの場にもなっています。
平成27年には、本丸内に日本庭園が完成しています。
城の東側には千歳御門と石垣が整備されて、ここからも出入りできるようになっています。もっとも当時は、ここには門がなかったのですが。
富山城は、天文12年(1543年)に新川郡への進出を目論む越中守護代の神保長職が、家臣の水越勝重に命じて築城したと言われていますが、近年の発掘調査により室町時代前期の遺構が発見されているので、実際の築城時期はもっと以前だと考えられています。
|
松川べり |
また神保氏時代の富山城は現在地より約1km南にあったとする説もありましたが、最近の発掘調査により、やはり現在の位置に城があったことが判明しています。
富山の地は越中国のほぼ中央に位置していて、飛騨と北陸道を結ぶ交通の要衝にあたることから、富山の東半分を支配する松倉城主椎名氏とその後ろ盾となっている越後の長尾(上杉)氏、それと敵対する一向一揆勢力の争奪の的となり、抗争が繰り返されています。神保氏は天文の大乱(越中大乱)で椎名氏を破って、常願寺川以西を支配するようになったものの越後の上杉謙信の侵攻を招いて永禄3年(1560年)には富山城を奪われてしまいます。神保長職は、増山城(砺波市増山)に逃れて、なおも上杉氏に敵対したものの永禄5年(1562年)の7月と9月の二度に渡って上杉謙信の再侵攻を受けたため、能登畠山氏の仲介で上杉氏に降伏しています。結局、神保長職は神通川以東を失うことになったものの、本領の射水・婦負二郡の支配権は従前通り認められています。なお富山城は、上杉氏の支城となっています。
これ以降、神保氏は上杉に従属するようになったものの今度は椎名氏が上杉氏から離反し武田氏に付いたことから、神保氏内部でも反上杉派が台頭するようになり、嫡子の神保長住と対立するようになり、長住は越中を出奔し織田信長の元に逃れています。
神保氏は、神保長職の跡を長住の弟である長城が継いだものの、その後再び反上杉の態度を取ったために天正4年(1576年)に増山城を攻略され神保氏は滅亡しています。ところが信長の元に逃れていた神保長住が、天正6年(1578年)、上杉謙信の急死をきっかけとして織田軍の先鋒として越中へ侵攻し、富山城を奪還して、神保氏再興を果たしています。
|
城・・・ではなく富山市佐藤記念美術館です |
天正9年(1581年)には佐々成政に越中半国が与えられると長住はその与力になっています。
しかし天正10年(1582年)3月、上杉景勝に付いた神保氏旧臣の小島職鎮、唐人親広らに富山城を急襲されて、城を奪われてしまい一時捕らえられてしまいました。これは織田軍の反攻で助けられたものの、この事件が元で長住は失脚し追放されてしまい、ついに神保氏再興の夢は潰えてしまいます。
というわけで天正10年(1582年)織田家家臣佐々成政が新たに富山城主となって、城は大規模な改修を行っています。
佐々成政は、越中国内の各城を改修していますが、いわゆる織豊系城郭の流れを持つ築城術を持っている成政は、これまでの中世山城の造りとは異なる手法を見せてくれるのです。
富山城もこの際に5層の天守が建てられたとする説もあります。
また、神通川の流れを城の防御に利用し、水に浮いたように見えるために「浮城」の異名をとっています。
当時の神通川は富山附近で東に大きく蛇行しており、その南岸に富山城は築かれています。神通川改修後の旧河道が今も残る松川です。
本能寺の変の後、豊臣秀吉と対立した佐々成政は、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも柴田方ではあったものの上杉景勝への備えのため出兵できず、敗戦後降伏しています。翌年の小牧長久手の戦いでも織田・徳川方に付いたものの、上杉・前田の挟み撃ちにあい、苦戦した上に織田・徳川が秀吉と和睦したために進退窮まり、成政は家康に再挙を促すため、厳冬の飛騨山脈・立山山系を越えて浜松へと踏破するザラ峠越えを決行しましたが、家康から快い返事は得られず、壮挙は空しく失敗しています。しかしザラ峠を厳冬期に越えるとは正直言って信じられませんが、当時は現在ほどの積雪はなかったのかもしれません。
|
千歳御門 |
佐々成政は、天正13年(1585年)8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に富山城を攻囲されて降伏し(富山の役)、新川一郡を残されたものの富山城は破却されてしまいました。やがて佐々成政が肥後を与えられて去り、越中一国が前田利長に与えられています。前田利長は、関ヶ原の合戦後には弟の利常に跡を譲って富山城に隠居し、城を大改修しています。
ところが慶長14年(1609年)に城が火災で焼失したため、高岡城を築いて移り住み、富山城には津田刑部義忠が城代として入っています。
寛永16年(1639年)、加賀藩3代藩主前田利常は、次男利次に越中婦負郡10万石を与えて分家させ、新たに富山藩が立藩することになりました。
寛永17年、利次は当時は加賀藩領内にあった富山城を当座の仮城として借りて越中に入り、当初は婦負郡百塚に新たに築城することを予定していましたが財政状況からそれを断念し、万治2年(1559年)に加賀藩との領地交換により富山城周辺を自領とした上で富山城を居城としました。
万治4年には、幕府の許しを得て富山城を本格的に修復し、あわせて城下町を整え、以後富山前田氏13代の居城として明治維新を迎えています。
明治4年には廃藩置県により廃城となり、翌年建築物は払い下げられています。その際に本丸御殿は県庁舎(明治32年焼失)、二の丸二階櫓御門は小学校(明治16年解体)として現地でそのまま利用されるものもありましたが、千歳御殿を含め他の大部分はその際に解体されています。
城の周囲を巡っていた水濠も本丸と西の丸の南側部分を除き昭和37年までに順次埋め立てられています。
1945年(昭和20年)8月2日に富山大空襲によって被害を受けた富山市街の復興事業完了を機に、富山城址で富山産業大博覧会が開催されています。その際に富山城祉に記念建築物として模擬天守が建設されたのが富山市郷土博物館です。
これが戦後最初に建設された模擬天守となり、その後各地で復興天守や模擬天守が建設されるようになりました。
なお、この模擬天守は平成16年(2004年)に国の登録有形文化財(建造物)に登録されています。
平成19年(2007年)には10代藩主利保の隠居所として東出丸に隣接して建てられた千歳御殿の門が、明治時代移築されていた豪農の民家から城址公園内(本丸東側)に再移築されています。
城址公園内には櫓を模した建物となっている富山市佐藤記念美術館も併設されていて、茶室や多数の美術品が収蔵され公開されています。
|
|
日本庭園の一部です |
日本庭園の一部です |
|
|
千歳御門から入れます |
千歳御門は本来はここにはなかったのですが |
|
|
日本庭園 |
日本庭園の池です |
|
|
日本庭園の池です |
日本庭園の池です |
|
|
日本庭園 |
日本庭園 |
|
|
日本庭園 |
日本庭園 |
|
|
日本庭園 |
本丸亭 |
|
|
本丸亭の門 |
庭園から天守を望む |
|
|
富山城にも春がきました |
富山城隅櫓を模した佐藤記念美術館 |
|
|
親水公園 |
国際会議場前から見た富山城天守 |
|
|
桜咲く松川べり |
親水公園と七十二峰橋 |
|
|
松川べりの遊覧船 |
本丸北側の水堀・・・ではなく池ですね |
|
|
鉄御門跡から見た富山城天守 |
桜咲く富山城天守 |
|
|
チンドン |
松川べりの遊覧船 |
|
|
松川べりは桜が開花しました |
桜咲く・・・ |
|
|
さくら名所100選に選ばれています |
桜のアップです |
|
|
七十二峰橋 |
橋の上では写真撮影 |
|
|
松川を遊覧船が走ります |
庭園と四阿 |
|
|
水が流れています |
親水広場 |
|
|
天守上部 |
富山城にも春が来ました |
|
|
水堀にアオサギかな |
しかし不思議な形をした天守です |
|
|
富山城でも桜が開花しました |
国際会議場前から撮影しました |
|
|
本丸内部から見た富山城天守 |
富山城天守 |
|
|
本丸北東側の石垣 |
富山城水堀と石垣 |
|
|
本丸東側の石垣 |
東出丸から本丸への通路 |
|
|
千歳御門は唯一の現存建造物です |
本丸東南側の石垣 |
|
|
富山城説明板 |
本丸東側の石垣 |
|
|
前田正甫公像 |
富山城天守と石垣 |
|
|
富山市佐藤記念美術館 |
千歳御門 |
|
|
蒸気機関車 |
富山城天守 |
|
|
石垣にやけに大きい石が混じっています |
富山城石垣と内堀 |
|
|
これは要石なのでしょうか |
本来の富山城はかなり大きな城だったのです |
|
|
天守の石垣と内堀の石垣の造りが全く異なります |
富山城天守・石垣・内堀 |
|
|
国際会議場前駅から富山城を撮影 |
富山城天守を東側から撮影 |
|
|
本丸南側石垣上を天守から撮影 |
本丸南側の桝形通路 |
|
|
本丸南側の桝形通路と天守 |
本丸南側の鉄門跡 |
|
|
本丸と二の丸を結ぶ大手橋 |
本丸東南側の土塁跡 |
|
|
石垣に使う石の展示 |
佐々成政碑 |
|
|
本丸南側の石垣 |
富山城郷土博物館 |
|
|
南側から見た天守 |
鉄門跡付近から見た天守 |
|
|
南西側からみた富山城天守ライトアップ |
南東側から見た富山城天守ライトアップ |
|
|
富山城天守ライトアップ |
南側から見た富山城天守ライトアップ |
|
|
直下から見上げた富山城天守 |
富山城天守ライトアップ |
|
|
小天守のように見えますが実は佐藤記念美術館です |
松川は当時は神通川でした |
|
|
松川遊覧船は3月下旬~11月に運行されます |
千歳桜の碑石 |
|
|
佐藤記念美術館の裏手にも石垣が |
ここの外壁も白く塗り直した方が・・・ |
|
|
本丸北側には遊具があります |
ID過熱テンダ機関車 |
|
|
本丸北側 |
本丸土塁 |
|
|
景雲橋 |
松川べりの四阿 |
|
|
城址公園整備計画ですが・・・これはすごいですよ |
七十二峰橋 |
|
|
本丸北側から景雲橋を渡る |
池があります |
|
|
佐藤記念美術館 |
富山市郷土博物館 |
|
|
本丸跡は現在工事中なのです |
千歳御門 |
|
|
佐藤記念美術館全景 |
富山城から見たセントラム |
|
|
富山市郷土博物館 |
富山市郷土博物館全景 |
|
|
千歳御門 |
千歳御門内側 |
|
|
千歳御門外側 |
千歳御門南側の石垣 |
|
|
千歳御門 |
本丸東側石垣 |
|
|
佐藤記念美術館と石垣 |
搦手口 |
|
|
本丸から搦手口を見る |
佐藤記念美術館に移設された茶室 |
|
|
雪の富山城 |
富山城天守は三層四階です |
|
|
本丸南側の石垣 |
本丸南東部の石垣 |
|
|
雪の富山城 |
隅櫓は佐藤記念美術館です |
|
|
雪の富山城 |
富山城天守 |
|
|
富山城天守は三層四階 |
富山城天守 |
|
|
千歳御門と石垣の間に門が新設されていました |
つまり完成時には左側の門を通ることになるのか |
|
住所 |
富山県富山市本丸1-62 |
電話 |
076-432-7911(富山市郷土博物館) |
開館時間 |
9:00~17:00(入場は16:30まで) |
休館日 |
年末年始の他、展示替えなどの臨時休館があり不定なため要確認 |
入館料 |
一般200円、小中学生100円(20名以上の団体割引有り)
佐藤記念美術館共通観覧券・・・一般300円、小中学生150円 |
駐車場 |
富山城址公園地下駐車場あり(有料) 県民会館駐車場(1時間無料) |
|
住所 |
富山県富山市丸の内 |
城郭構造 |
梯郭式平城 |
遺構 |
曲輪・石垣・土塁・水濠・千歳御門 |
天守構造 |
模擬天守(複合連結式望楼型3重4階(天守)
2重2階(小天守)、1954年RC造) |
再建造物 |
天守、小天守、櫓、石垣 |
築城者 |
神保長職、ただしそれ以前から城があった可能性がある |
施設 |
博物館 美術館 説明板 その他 |
城主 |
神保氏 上杉氏 一向一揆 佐々成政 前田氏 |
駐車場 |
周辺に有料駐車場多数あり |
築城年 |
天文12年(1543年) ただしこれ以前から城があったらしい |
文化財 |
国登録有形文化財(模擬天守) |
廃城年 |
明治4年(1871年) |
|
|