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増山城跡の説明板 |
増山城は、富山県砺波市増山にある山城です。国史跡の指定を受けています。
和田川右岸の山上に築かれた巨大な山城であり、松倉城(魚津市)、守山城(高岡市)と並び越中三大山城と称されています。
南北朝時代の貞治2年(1363年)には既に成立していたらしく、当初は南朝方で越中守護であった桃井直常の配下が在城していたと思われますが、後に足利幕府軍により攻略されたと思われます。
戦国時代には越中国の大豪族であった神保氏の居城となり、永禄3年(1560年)に神保長職が椎名康胤と対立し長尾景虎(上杉謙信)の攻撃を受け、富山城を攻略された後、この増山城に逃れています。この時の景虎(謙信)の書状には増山城のことを「増山之事、元来嶮難之地、人衆以相当、如何ニも手堅相抱候間」とあるように、要害堅固な城であったことが伺えます。
実際にこの城を訪れてみると、大手道であるウラナギ口からの坂道は急で曲がりくねり途中に障害となる堀切や郭があって、攻めるのは難しいのです。
その後も神保氏は永禄5年(1562年)の7月と9月の二度に渡って上杉謙信の再侵攻を受け、永禄5年(1565年)に神保長職が上杉氏に降伏した後は、この増山城が神保氏の本拠地となっています。
その後永禄11年(1568年)、それまで上杉方だった椎名康胤が武田信玄にそそのかされ、上杉氏を離反して武田・一向一揆方につくことになり、これにより神保家中は分裂し、嫡子・神保長住を中心とした反上杉派が台頭することになりました。神保長職は反上杉方である長住派と内戦状態となり、上杉家の介入によって長住派を壊滅させましたが、神保家の上杉氏への従属を深める結果となっています。神保長住は抗争に敗れ、信長の元に逃れていますが、後日富山城を奪回しています。
神保長職は家督を次男神保長城に譲り、元亀2年(1571年)末頃には再び立場を一変させて一向一揆と和睦し、反上杉の立場をとり神保家は再び分裂しています。しかし神保長職はその後元亀3年(1572年)には没したものと思われます。
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二の丸跡 |
これにより事実上、戦国大名としての神保氏は消滅したと言って良いでしょう。
天正4年(1576年)には、上杉謙信により増山城を攻略され、神保長城は行方不明となり神保氏は滅亡しました。
増山城は上杉氏の武将である吉江宗信が守っていましたが、天正9年(1581年)には今度は織田軍の攻撃により落城し、佐々成政の持ち城となっています。このときに焼き討ちにあったと見え、城跡からは焼土などが出土します。
佐々成政が豊臣秀吉の越中征伐により降伏した後は、前田氏の持ち城となっています。
前田氏治下には中川光重、山崎長鏡が城代を務めていますが、元和の一国一城令により廃城となっています。
天正14年(1586)、越後の上杉景勝が上洛する際の記録『上杉景勝上洛日帳』には、「五月廿七日御立、於中田、増山之武主中川清六殿新造を御立、(中略)御一献被相勤、御腰物進上被申候」とあり、増山城主であった中川光重が中田において景勝を饗応したということになります。この上洛の際に上杉景勝は木舟城にも滞在しています。
現在の増山城は、砺波市増山にあります。和田川ダムのダム湖である増山湖のそばにあり、この湖の東側にそびえる比高120mほどの山容一帯が増山城跡です。
国史跡となっている増山城跡ですが、正直言って夏場ですと歩きにくいし、特に南側の未整備部分はヤブも多いので、こういう探索に慣れていない人だとちょっとしんどいと思います。しかも巨大な山城で、城域も広いので城内の郭や遺構の位置関係を把握することはかなり難しいでしょう。
しかし最近ではかなり整備されていますので、遊歩道部分であれば山城初心者でも安心して訪れることが可能になりました。
また「増山城解説ボランティア曲輪の会」が結成されていて、増山城をガイドしてくれるそうです。
現在でも極めて多数の遺構が残されていて、見所は多いのでたいへんお勧めですから、ぜひ一度は訪れてみましょう。
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足軽屋敷跡 |
城の構造はいわゆる中世山城と言えるのですが、極めて大規模な山城であり、堅固な要塞として各所に防御施設が用意されていて、これでは攻める方は大変だと思わせる仕組みになっています。
この城は南北朝時代から存在していた城と思われますが、現在見られる遺構は基本的には神保氏時代に築かれたものだと考えて良いでしょう。神保氏以外には、上杉氏、一向一揆、佐々氏、前田氏がここを領有していますが、上杉系城郭の特徴としては畝状竪堀群がよく見られますが、せいぜいこの程度であり、佐々氏や前田氏が改修したと見られる箇所も特にありません。
ですから神保氏時代に築かれた縄張りがその後もそのまま踏襲されていて他の勢力が大規模に改修したと見られる箇所は特にないと言えます。例えば桝形虎口だとか馬出しとか織豊系城郭によく見られる構造は持っていなかったと思われます。
それとこのあたりは野生のニホンカモシカが生息していて、時折姿を見せてくれますので、もし目撃できれば挨拶しておきましょう。ニホンカモシカは特別天然記念物なので決して危害を加えないように。
さて、当城への登城道は増山大橋を渡り、山の西側から入る七曲り口ルートと、和田川ダムを渡って山の北側から山道を登るウラナギ口ルートと、小判清水がある地点から登るルートの3ヶ所があります。
ウラナギ口には手前に駐車スペースがありますので、普通の人はこちらから入り込みます。ただし、ここからの登りはけっこうきついところもありますが、最近では整備されて足元が悪いということはなくなったようです。途中には堀切があったり小規模ながらF郭があったりと見所が多いのですが、勾配自体はずっと登りですので一の丸への入り口まできたときにはフラフラになっている人もいるかも知れません。これでは城攻めも楽じゃないですね。二の丸への迂回ルートの入口には冠木門が設置されていますが、確かにここに門がないと無防備なのです。ただ、七曲がり口からのルートとの合流点から一の丸へ入る階段がありますが、これは当時はなかったのでしょう。
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増山城鐘撞堂 |
七曲がり口ルートは道が険しく足元も悪く駐車スペースもないのですが、ここからだと一の丸の下部へまっすぐ入れます。ここでウラナギ口ルートと合流します。
小判清水口からだと、池ノ平等屋敷跡や神保夫人入水井戸、足軽屋敷跡、御所山屋敷跡といった郭が次々に姿を現します。
こちらからのルート上にはあちこちに空堀跡と思われる箇所もあり、見所がけっこうあります。
小判清水口側から入る場合は駐車スペースには乏しいので、例えば小判清水口で車を降りる人とウラナギ口へ車を停めて登る人とに分かれるような運用が必要かもしれません。ま、車を一台だけ停めるだけならスペースがないこともありませんが。
小判清水の向い側には亀山城と孫次山砦があります。
亀山城は、増山城の支城ということですが、これ自体はさほど大規模な城郭ではなく、主郭があるだけの山城というのが実際のところです。しかし主郭までの道はけっこう険しいし、増山城を攻めるときにはこの城から落としておかないと背後から襲われるので危険です。というわけで絶好の位置取りで支城を構築していることになります。小判清水口から登る人は、先に亀山城も探索しておきたいところです。孫次山砦はまだ未整備のようですが。小判清水口からのルートはけっこうアップダウンがありますがきつい勾配は一部だけなので大丈夫でしょう。
さらに進むと安室屋敷と三の丸がありますが、ここはややわかりにくく、説明板もありません。安室屋敷と二の丸との堀切はかなり深いのです。ただし、最近、安室屋敷への梯子が設置されたので簡単に入れるようになりました。
この安室屋敷と鐘楼堂の間には木橋が架かっていたと考えられています。
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亀山城跡 |
安室屋敷と三の丸の間の横堀から北側に入ると、二重の空堀で守られていることが分かり、さらに土塁が間にあって外部からの侵入を遮断しています。ここからの侵入は極めて困難だと言えるでしょう。いったい誰がこんな縄張りを設計したものか。
なぜか三の丸への入口に案内板がないのですが、三の丸はたいへん分かりにくい位置にあるので、これは設置しておかないといけないでしょう。安室屋敷にもありませんが、ここは梯子があるので、まだ許せます。
二の丸と三の丸の間には馬洗池があり、ここで城主の馬を洗ったと言われていますが、現在では水がほとんどないようです。現在では沼地という感じです。馬洗池のそばを通って南側にはK郭がありますが、こちらは完全にブッシュで入りにくいのです。安室屋敷と鐘楼堂の間の堀切を通ってしばらく行くと石垣跡があり、一の丸からのルートと合流してそのまま二の丸へ入れます。二の丸は増山城の曲輪の中では最も広く、他の曲輪に守られていて最も入りにくい曲輪と言えます。
二の丸が実は主郭ということになります。ここには鐘楼堂、櫓台、神水鉢がありますが、もちろん鐘楼堂に鐘があるわけではなく、単に小高く、小さな郭が二の丸の内部にあるのです。
一の丸は、二の丸の西側にあり、二の丸を守るための曲輪と思われますが、曲輪の西側の切岸は絶壁で高く、見所の一つです。また南側には竪堀が残っていますし、二の丸へのルートには虎口があります。南側にはヘッタリと呼ばれる腰曲輪がありますが、ここはブッシュとなっています。このあたりでもニホンカモシカを目撃したことがあるので、もし見かけたら写真に撮っておきましょう。
この手の城は土塁だけかと思っていたら二の丸への入口付近に石垣跡がありました。もっとも、どこが石垣なんだという気もします。と言うか、富山城のような石垣を想像してはいけないのであって、ごく小規模な石垣なのでした。
又兵衛清水もその下にありますが、実はとやま名水百選に選ばれています。しかしここの水は飲料には適さないようですので、そのまま飲んではいけませんから注意してください。
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神保夫人入水井戸跡 |
二の丸の南側には無常と呼ばれる曲輪がありますが、この曲輪のさらに南側には鐘搗堂があり、最も南側には南櫓台があって、東西に堀切が走っています。この堀切はかなり深く長い大規模なもので一見の価値があります。また、南西側の斜面には畝状竪堀群があって見所の一つです。ただ、このあたりはまだ未整備のようでブッシュもあるので、整備が待たれるところです。ちょっと初心者にはきつい場所と思えますので、ここに入るときには装備を充分にしてください。特に足元はしっかりしたものを履いてください。また、ブッシュが多いので必ず長袖を着てください。下手をすると和田川に落ちてしまいますので注意が必要です。
この増山城は全体としてほとんど昔のままに保全されていると言えますが、山歩きに慣れていない人にはちょっときついかなと感じる史跡です。極めて広大な城域を持っていて、見所も多いのですが、例えば富山城を見に行くのとは訳が違うのでそれなりの準備と覚悟が必要です。
さて、例によって我が軍がこの城を落とすにはどうすればいいのかを考えてみました。
まず、私としては南西側の七曲がり口ルートから攻めるのは難しいと判断しました。ここへ入るにはまず天然の堀となっている和田川を越えないといけないし、そこを越えても登り道が狭く険しいのでここから攻めるのはかなり危険と思われます。道をふさがれていたらそこから侵入するのは難しいのです。さらに馬の背ゴの裏側の大土塁からは、七曲がり道が丸見えでここから狙い打たれるので、ここから攻め上るのはかなり困難が予想されます。ただし、力攻めで被害を無視するのならここから攻めるのもありでしょう。しかし犠牲が大きくなりそうです。この七曲がり口ルートが当時の大手道だった可能性は高いのですが、実はこの七曲がり口ルートの途中にはこれといった防御施設が見あたらず、大手口としてはイマイチ物足りないところがあります。おそらくは南北朝時代はこちらが大手口だったものが、戦国時代では上杉氏に備えるために、大手口が小判清水口側かもしくは、南櫓台側に変更されたのではないかと思います。実は時代や状況により大手口と搦手口が変更されるというのは良くあることのようです。
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増山城神水鉢 |
次に和田川ダムからのウラナギ口から攻め入るとするとどうなるかですが、ここは前述するように途中にF郭があり、堀切が両側に切られていて、防備も厳重で城側の抵抗も半端ではないでしょう。七曲がり道とウラナギ道が合流するのは一の丸の真下ですが、おそらくここには門が設置されていたものと思われます。この門を突破しても一の丸の切岸の下をぐるっと迂回して又兵衛清水側から二の丸を目指すことになりますがこれだと一の丸から弓矢や鉄砲で狙い撃たれますね。うう・・・。ただし一の丸を迂回して石垣跡付近に出てしまえば一の丸を落すのは容易でしょうし、二の丸への虎口にも門があったでしょうが、ここを落すのもさほど難しくはないでしょう。
ただし、当時はこちらから城に入れたのかどうかは不明です。
もう一つ小判清水口からのルートですが、こちらの登り道が最も緩やかですが、途中にいくつもの曲輪や空堀があって障害物が多く、二の丸へ攻め上るまでの道のりが長いことと小判清水の反対側には支城の亀山城があって背後から反撃される可能性が高く、まず亀山城から落としておかないといけないといえます。亀山城自体はほとんど単郭の小城ですので落とすのは容易ですが、あまりこちらに気を取られていると本城から反撃される事になります。つまりこの増山城はこの小判清水口へ敵軍をおびき寄せて逆に叩くような構造となっているのでしょう。
また途中の防御ラインを突破しても三の丸付近で上から狙い打たれる危険性もあり、城方が鉄砲でも持っていたら一方的に撃たれるので危険です。三の丸の周囲には空堀が掘られていて切岸も険しく、ここを直接攻撃するのは難しいのです。
三ノ丸とK郭を結ぶ防御ラインを突破しても二ノ丸へ直接入るのは困難でさらに二ノ丸の南側の空堀を通るか安室屋敷と二ノ丸の間の堀切を通って二ノ丸へ攻め入ることになり、これも途中で二ノ丸から狙い打たれる事になります。
戦力に余裕があれば三方から同時に攻める方法で落とすことも可能でしょうが、もし奇襲で落とすのであればむしろ南側の南櫓台口ルートから攻めるのが成功率が高いでしょう。少数精鋭部隊が南櫓台と鐘搗堂を占拠して後続が無常へ入り込んでしまえば一の丸を迂回して二の丸を直撃できます。二ノ丸を落してしまえば、他の曲輪を攻めるのは容易でしょう。
どちらにしても通路が険しく攻めるのが難しい城ですが、各曲輪が独立していてしかも他の曲輪への応援をしようにも縄張りの構造上、相互の連携が難しい構造となっているので、大軍で攻めれば落とせない城ではないはずです。
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増山城一の丸跡 |
増山城二の丸跡 |
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増山城一の丸虎口跡 |
増山城二の丸虎口跡 |
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増山城石垣跡 |
増山城馬洗池 |
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馬洗池が雪解け水で満水です |
鐘楼堂と安室屋敷の間の堀切には木橋がかかっていた |
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増山城入水井戸 |
小判清水 |
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増山城又兵衛清水 |
亀山城主郭 |
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増山城ウラナギ口堀切東側 |
増山城ウラナギ口堀切西側 |
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増山城ウラナギ口堀切東側を上から |
増山城ウラナギ口堀切西側を上から |
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増山城ウラナギ口堀切東側を上から |
増山城ウラナギ口堀切西側を上から |
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増山城御所山屋敷跡 |
増山城池ノ平等屋敷跡 |
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七曲り口 |
七曲りの登城道 |
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七曲りの登城道はくねくねと曲がっています |
七曲りの登城道は急勾配です |
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七曲りの登城道はくねくねと曲がっています |
ここを一気に駆け上がれる人は健脚です |
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何度折り返すのか |
勾配はきついままです |
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やっと勾配が緩やかになりました |
ここに看板がありました |
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下の方がいかに急かわかります |
最後にこの左側の土塁から狙い撃たれたりして |
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増山城一の丸から増山大橋を望む |
増山城ウラナギ口 |
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増山城ウラナギ口のF郭 |
増山城又兵衛清水への門 |
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増山城二の丸 |
増山城二の丸の櫓台跡 |
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増山城二の丸を囲む土塁 |
増山城鐘撞堂跡の土塁 |
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増山城南鐘撞堂跡 |
増山城無常 |
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増山城三の丸 |
馬洗池には今でも水があります |
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増山城F郭 |
増山城F郭に柵が新設されていました |
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増山城馬の背ゴの土塁 |
馬の背ゴの背後の土塁と空堀 |
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増山城馬の背ゴの全景 |
馬の背ゴの周囲には土塁が残っています |
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馬の背ゴから見たF郭 |
馬の背ゴはさほど広い郭ではありません |
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二の丸南側の空堀と切岸 |
南側への通路 |
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奥が鐘搗堂 |
鐘搗堂は高い土塁です |
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鐘搗堂から見た堀切 |
鐘搗堂の上部 |
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鐘搗堂から見た堀切 |
鐘搗堂の上部は、ほぼ円形です |
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鐘搗堂は高い土塁です |
鐘搗堂と無常を遮る堀切 |
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南櫓台も鐘搗堂と同様の土塁です |
南櫓台は鐘搗堂ほどは高くありません |
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南櫓台と鐘搗堂を遮る堀切 |
南櫓台の上部 |
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南櫓台は城の最南端にある |
南櫓台と鐘搗堂の間の堀切 |
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南櫓台から城の東側への通路 |
畝状竪堀群 |
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畝状竪堀群には大きな竪堀が3本あります |
畝状竪堀群の小規模な竪堀 |
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南櫓台と鐘搗堂から東側に伸びている堀切 |
この堀切は大規模なものです |
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南櫓台と堀切 |
二の丸の南側の空堀と切岸 |
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増山城下町土塁跡 |
増山城下町土塁跡の説明板 |
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増山城下町土塁跡はかなりの高さです |
増山城下町土塁跡は80mに渡って続いています |
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増山城下町土塁跡の上から全景 |
増山城下町土塁跡の高さは2mほどです |
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増山城戦国祭り |
不思議なことに武田菱が・・・ |
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ウラナギ口から登城します |
ウラナギ口からの登城道には竪堀が |
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ウラナギ口からの登城道はかなりの急坂です |
一の丸を迂回するにはここを進みます |
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一の丸からウラナギ道を見下ろす |
二の丸への通路を進みます |
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神水鉢は水が枯れることがありません |
う~む、石垣跡といってもこれでは・・・ |
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ウラナギ口は普段はこんな状態です |
ウラナギ口は急坂です |
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ここを一気に駆け上れる人はかなりの健脚です |
ウラナギ道を登ります |
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和田川ダムと一の丸の案内板が新設されています |
かなり大きな堀切です |
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向かい側にも大きな堀切が |
そろそろ一の丸に近づいてきました |
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又兵衛清水への分岐点 |
又兵衛清水への近道を通ります |
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又兵衛清水への入口 |
又兵衛清水は富山の名水100選に選定されています |
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冠木門があります |
一の丸への階段は急です |
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石垣跡の標示 |
二の丸の曲輪は結構な広さです |
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二の丸の冠木門 |
二の丸の門と櫓台跡 |
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二の丸の周囲には柵が設置されています |
鐘撞堂の土塁 |
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二の丸櫓台跡の土塁 |
馬洗池と二の丸の分岐点 |
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馬洗池 |
小判清水口への通路 |
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堀切 |
御所山屋敷跡 |
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竪堀 |
足軽屋敷跡 |
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神保夫人入水井戸 |
池ノ平等屋敷跡 |
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小判清水 |
神保夫人入水井戸への案内板 |
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親水鉢の説明板 |
確かに水がありますね |
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鐘撞堂全景 |
鐘撞堂の土塁はかなりの高さです |
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鐘撞堂の説明板 |
鐘撞堂から見た二の丸 |
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ウラナギ口に門が新設されました |
仮設の門ではないようです |
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ウラナギ口から入ります |
しかし本当にこの場所に門があったのか |
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一の丸は巨大な土塁です |
二の丸櫓跡の土塁 |
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仮設の櫓ですが・・・ |
鐘撞堂は巨大な土塁です |
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安室屋敷と三の丸の間の空堀 |
以前はもっと深い空堀だったのでしょう |
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安室屋敷に沿って竪堀が走っています |
堀切があります |
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堀切が残っています |
足軽屋敷跡の説明板 |
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足軽屋敷跡 |
すごいアップダウンがあります |
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これだけ複雑な地形を持つ山城はなかなかないでしょう |
神保夫人入水井戸 |
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井戸には未だに水があります |
池ノ平等屋敷跡 |
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池ノ平等屋敷跡から見た井戸 |
しかし夫人が入水したというのに夫はどうしたのか |
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三の丸 |
二の丸 |
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馬の背ゴへの分岐点 |
馬の背ゴ |
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馬の背ゴは土塁が馬の背のように見えるのです |
馬の背ゴの土塁 |
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一の丸入口付近の土塁 |
土塁 |
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一の丸の土塁 |
ヘットリと呼ばれる腰曲輪 |
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一の丸の南側のヘットリ |
ヘットリから二の丸方面に攻め上るのはかなり難しい |
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ヘットリ(左)・一の丸(右)の位置関係 |
鐘撞堂から見た安室屋敷 |
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二の丸櫓跡 |
馬洗池 |
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三の丸への入口 |
三の丸 |
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亀山城への入口 |
亀山城への登城道はかなりの急勾配です |
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亀山城主郭には高坪里神社跡があります |
亀山城主郭の標高は133.09mと最も高い |
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一の丸の竪堀 |
F郭はウラナギ口からの登城道の途中にある |
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ウラナギ口からの登城道の途中にある堀切 |
ウラナギ口からの登城道の途中にある堀切 |
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馬の背ゴ |
馬の背ゴの土塁 |
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安室屋敷跡の土塁はかなり大きいものです |
安室屋敷跡 |
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馬洗池は現在でも水があります |
K郭 |
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安室屋敷跡への梯子が設置されました |
安室屋敷跡 |
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安室屋敷跡の土塁 |
安室屋敷跡の周囲には土塁が巡っています |
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安室屋敷跡の土塁は櫓台跡でしょうか |
安室屋敷跡の削平地はかなりの広さです |
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安室屋敷跡の北側の土塁 |
安室屋敷跡の北側を横切る堀切を上から |
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安室屋敷跡の北側の堀切は内堀になります |
安室屋敷跡の全景 |
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安室屋敷跡の堀切の北側には土塁が |
安室屋敷跡の北側の土塁 |
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安室屋敷跡の東側の横堀 |
安室屋敷跡の東側の横堀と切岸 |
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安室屋敷跡の北側の外濠 |
外濠の北側の土塁は櫓台かも |
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安室屋敷跡の北側の外濠 |
外濠も実はかなりの規模です |
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安室屋敷跡の北側の外濠 |
外堀と内堀の間の大土塁は櫓台跡でしょう |
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安室屋敷跡の北側の堀切はかなり深い |
この堀切を渡るのは困難です |
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安室屋敷跡の北側は二重の堀に守られています |
安室屋敷の北側の防御は完璧です |
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馬洗池そばの土塁 |
K郭は削平がややいい加減です |
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K郭の広さはそこそこですが、ブッシュがひどくて・・・ |
土塁からみた馬洗池 |
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奥が無常 |
無常は細長い郭です |
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一の丸下の土塁になんとニホンカモシカが! |
ニホンカモシカは特別天然記念物です |
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ニホンカモシカは人間に対して好奇心を持っています |
ニホンカモシカがジャンプしました |
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土塁に登ったニホンカモシカはまだ子供のようです |
ニホンカモシカはこちらを見ています |
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城下町土塁跡を一の丸から撮影しました |
本来ならばもっと東側にも土塁があったはず |
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なんと、ニホンカモシカを発見しました |
まだ子供のようですが・・・ |
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またまた、ニホンカモシカを発見しました |
いや~、かわいいですね |
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こちらを伺っています |
このあたりはニホンカモシカの生息地となっているようです |
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池ノ平等屋敷跡にこんな説明板が |
池ノ平等屋敷の東側に土塁が |
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池ノ平等屋敷跡の南側にも土塁が残っています |
馬洗池にも説明板が |
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安室屋敷跡の説明板 |
上杉謙信の旗印が |
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無常の説明板 |
二の丸の説明板 |
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二の丸と切岸 |
一の丸の説明板 |
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馬の背ゴの説明板 |
F郭の説明板 |
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アート作品 |
写真撮影ができます |
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戦国祭り会場 |
戦国祭りは三回目ですね |
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足軽隊か・・・ |
一の丸下の切岸は雄大です |
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一の丸下の切岸は高く険しいのです |
アート作品 |
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住所 |
富山県砺波市増山字一の丸3324 |
形式 |
連郭式山城 (標高120m/比高70m) |
電話 |
0763-82-1904(砺波市教育委員会) |
築城者 |
不明 |
遺構 |
曲輪 櫓台 切岸 竪堀 堀切 石垣
土塁 井戸 神水鉢 馬洗池 説明板 |
城主 |
桃井直常 斯波氏 神保長職 一向一揆勢 神保長城
吉江宗信 佐々成政 中川光重 山崎長鏡 |
駐車場 |
和田川ダム右岸に無料駐車場あり |
築城年 |
貞治2年(1363)以前 |
文化財 |
国史跡 |
廃城年 |
元和元年(1615年) |
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