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亀山城への入口を示す看板 |
亀山城は、富山県砺波市増山字高津保理山にある山城です。この亀山城は当城の東にある孫次山砦と谷を挟んで西に位置する標高133.1mの山上にあります。実は、この亀山城主郭が増山城跡群の中では最も高所となります。
ここには高坪里神社跡があり、三角点も設置されています。
増山城の支城群の一つであり、増山城の弱点である北側を守るために築城されたものだと思われますが、詳細は不明です。
神保氏時代には神保安芸守が城主だったと言われていますが、本当かどうか正直疑わしいですね。神保安芸守というのは、神保氏張のことですが、神保氏張はどちらかというと庶流で守山城主として射水郡を支配していたはずですから。
いつ頃築城されたのかもよくわかりません。従来の説では、江戸時代の史料「越中砺波射水両御郡古城等覚書」に増山城の城名由来を「亀山之城より増タルヨシニテ増山と名付ル」との記録があり、亀山城が増山城より古い城であると伝えていることから、この亀山城が増山城よりも先に築城されていたと言われていましたが、近年の発掘調査では、必ずしも増山城を遡る出土遺物はなく、むしろ増山城と同時期以降に築城されたのではないかと思われます。築城したのは誰なのかも不明ですが、おそらくは神保氏ではないかと思われます。もっとも織田氏の手中に落ちた後、佐々成政によって改修されている可能性もあります。
「越登賀三州志」には増山城と亀山城を「同蹟也」と記していて、これを誤りとみる研究者がいますが、広義の増山城という概念で捉えると必ずしも事実誤認とは言えないし、むしろ亀山城は増山城の北側を守備するために築城されて、増山城の一部と考えた方が実態に即しているのではないかと思います。ちなみに「越中志徴」では、「考ふるに、和田城と云は、今云増山城なるべし」と推察しています。さらに言えば、孫次山砦とも一体として活動していたと考えるべきで、別々の城と考えるのはあまり意味がないと思います。当時は亀山城と孫次山砦は尾根伝いに連絡していたものと思われますが、現在ではここを通るのはブッシュなどの障害があって、ちょっと勇気が必要です。と言っても無理やり通れば通れそうな気もしますが、よほど完全装備で体力と脚力に自信がある向きだけがチャレンジしてみてください。
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当時はこんな通路はなかったのでしょう |
亀山城は、頂上部分が主郭となっていますが、削平がややいい加減であまり平坦面が広くないので、当時もあまり大規模な建築物があったとは思えません。主郭部分の発掘調査でも建物跡は発見できていませんが、多数の16世紀後半の中世土師器が発見されていて、戦国期にこの城が使用されていた事は間違いなく、おそらくは掘立柱建物が存在したのでしょうが、現在ではその跡が残念ながら残っていないということです。
この亀山城と増山城の間の谷の部分には、法花坊峠遺構があり、ここから16世紀後半と8世紀後半の2時期の遺構・遺物が確認されています。増山城跡内で初めて掘立柱建物跡(方1間)が発見されていて、その建物を廃棄する際に底部に穴を開けた土師器を柱穴に埋納していたことがわかっています。さらに中世遺構の下層に奈良・平安時代の竪穴建物が3棟検出されています。近くに須恵器窯である池ノ平等窯があることから、須恵器工人の作業場だった可能性が考えられます。
このあたりは、奈良、平安時代から人々に使用されていたということになります。
16世紀後半にも建物があったということは、戦国期であることと、場所が場所だけに軍事施設だったと考えるのが妥当だと思われますが、もちろん詳細は不明です。建物が廃絶されるときに土師器を柱穴に埋納したということは、廃城になったときに建物を取り壊して、儀式を行ったのかなと思われますが、これについてはよくわかりませんね。
この亀山城は、主郭の南側に三重の帯曲輪を持っていて、西側の斜面に竪堀が三本走っています。しかも土塁が視界を遮り通路が曲げられていて堀切で遮られているという厳重な防御施設を持っています。
と言っても所詮は単郭の小規模な城に過ぎませんので大軍で攻められれば持ちこたえることはできないですが、この城は孫次山砦とは尾根伝いに連結していることと、すぐ背後には増山城本城があるわけで、あまりこの城に固執すると背後から襲われることになります。増山城は、そう簡単には攻め落とせないように築城されているわけです。
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西側への通路 |
左側は土塁、中央が堀切です |
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右側には土塁があり、侵入する者の視界を遮ります |
ここは一本道です |
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ここに堀切と土橋がありました |
堀切 |
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この堀切は大規模なものではないです |
通路は狭くなり土橋状になっています |
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小曲輪がありました |
ここの曲輪はたぶん監視所があったのでしょう |
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先に進むと塹壕状の通路が続きます |
ここは狭く急です |
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狭く曲がりくねった通路が続きます |
こんなところ通れるのかな・・・ |
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通路は土塁に囲まれて曲がりくねっています |
これはやはり当時のままの地形なのでしょうか |
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土塁に囲まれた塹壕状の通路 |
これは長い通路ですね |
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ここは土塁に遮られた堀切から主郭への通路があります |
堀切が下部へ伸びています |
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上から見ると堀切と土塁の様子がよくわかります |
途中に竪堀が走っています |
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狭くて急な通路を駆け上ります |
帯曲輪が取り巻いています |
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帯曲輪は平坦地はさほどではないです |
階段の途中にまた竪堀が |
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いよいよ頂上です |
主郭の入口に看板が |
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さすがに主郭は広いですね |
主郭の東側に二段になった小曲輪があります |
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主郭も削平はイマイチいい加減です |
案内板です |
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高坪里神社跡 |
主郭はかなりの広さですが中央部が狭くなっています |
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三角点が設置されています |
国土地理院の立て札が |
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階段を降りていきます |
通路が屈曲していて竪堀があることがわかります |
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右側に竪堀があります |
土塁と堀切があることがわかります |
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住所 |
富山県砺波市増山字高津保理山 |
形式 |
連郭式山城 (標高133.1m/80m) |
遺構 |
曲輪、土塁、竪堀、神社跡 |
築城者 |
不明 |
施設 |
案内板 |
城主 |
神保氏 |
駐車場 |
無料 |
築城年 |
不明 |
文化財 |
国史跡(増山城跡) |
廃城年 |
元和元年(1615)以前 |
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