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守山城本丸跡 |
守山城は、富山県高岡市東海老坂城山にあった城です。別名は二上城とも呼ばれています。
この守山城は二上山山頂(標高272m)に築かれた山城で、越中三大山城の一つです。しかし残念ながら現在はこれといった遺構は残っていません。部分的に石垣、郭、空堀跡が残っている程度です。
といっても、山頂付近が本丸だったことは地形から見ても確実で、その周りに郭があったことは容易に想像ができます。
ただし、二上山万葉ラインによりその一部が消失しているのは辛いところか。と言ってもこの二上山万葉ラインがあるからこの二上山山頂に自動車で容易に登れるのであって徒歩ではなかなかたいへんでしょう。
現在の駐車場がある場所も郭跡になるのですが、周りに土塁らしき跡があるだけです。
この守山城は、松倉城や増山城とは異なり市街地にも近く、開発の手が入り、しかも発掘や研究が進んでいないのです。
さて、この守山城ですが、築城時期は未だにはっきりしていません。しかし南北朝時代に桃井氏によって築かれたと考えられます。1371年には南朝方の桃井直常が越中守護斯波義将の居城であった守山城を攻め落としたという記述があるので、築城時期はこれ以前と考えられます。しかしその後、桃井直常は1376年頃には斯波義将に討たれたと思われます。
なお斯波義将は、足利幕府では管領にまで昇進している宿老です。
その後、室町時代には越中守護代神保氏の持城となっています。戦国時代になると、神保慶宗が一向一揆に攻められ、越後守護代長尾能景に救援を求めたため長尾軍が越中に入り一向一揆を蓮台寺の戦いにおいて撃破しています。しかしその後、神保慶宗が一向一揆衆に内応したらしく長尾軍を裏切ったために長尾能景が般若野の戦いで一向一揆衆に敗れ、戦死しています。
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守山城跡から見た小矢部川 |
これを怒った能景の子である長尾為景が神保氏を敵視するようになります。
そして永正16年(1519年)越中守護畠山尚順、能登守護畠山義総、越後守護代長尾為景の連合軍が神保慶宗を攻撃する事態に発展してしまいます。神保慶宗は、境川の戦いで敗れ、守山城に立て籠もり、苦しい籠城戦を戦っています。しかし冬に差し掛かり寒気に苦しめられていた攻城軍は能登畠山軍が神保軍に急襲されて敗退し、連合軍は撤退しています。これをみると神保慶宗という人物はなかなかの武辺者だったのでしょうか。
しかし永正17年(1520年)6月、畠山・長尾連合軍が再び神保慶宗討伐に出陣し、12月には畠山軍が守山城を陥落させています。これにより神保慶宗は退路を断たれてしまいます。
そして12月21日、神保慶宗は新庄城に陣取っていた長尾為景の陣に総攻撃を開始します。両軍とも多大な損害を出していますが、ついに神保軍は敗れ、
神保慶宗は敗走中に自害したと言われています。
神保氏は、これによりいったんは衰退してしまいますが、その後神保慶宗の子である神保長職が勢力を伸ばしてきます。
天文12年(1543年)には富山城を築城して越中東部にまで勢力を伸ばそうとしています。
この頃には守山城は神保氏の支城だったと思われます。しかし神保氏は再び上杉氏(長尾氏)と対立するようになり、最終的には守山城も上杉謙信に落とされたと思われます。
その後、織田氏が越中に勢力を伸ばしてきて、佐々成政が越中に入る頃になると神保氏張が守山城を守っていました。
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守山城曲輪跡 |
織田信長が本能寺の変で討たれ、羽柴秀吉が取って代わるようになると佐々成政は秀吉と対立するようになります。そして成政は秀吉方となった前田利家と激しく対立するようになります。
しかし天正13年(1585年)には前田軍が守山城を攻め落として、最終的には成政は秀吉に降伏します。
越中は前田利長に与えられることになり、利長は守山城を居城とします。しかし慶長2年(1597年)には利長は富山城を築いて守山城を去り、以後は前田対馬守長種が守山城に居守しました。
しかし守山城下の寺院や商工業者は続々と富山に移り、守山城や城下町は急速に寂れてしまいます。
元和元年(1615年)の一国一城令により完全に廃城となったと思われます。
現在の守山城跡は、前述するように二上山万葉ラインにより自動車で簡単に到達できますし、ここからの眺望はすばらしいものですので、一度はここを訪れてみてください。ただし、遺構もあまり残っていないのがちょっと悲しいですが・・・。
さて例によって我が軍がこの城を攻めるとするとどうすれば良いのかを考えてみましたが、現在開通している二上山万葉ラインの西側から攻めるのはかなり勾配がきついので、東側から登る方が良いかもしれません。あるいは両側から攻めるのはもっとも確実でしょうが、政治的にこの城の東側と西側が同一勢力でこの城が孤立しているという状況はあまり考えにくいし、もしそうだとするとひとたまりもないでしょう。
神保慶宗がこの城に籠城して畠山・長尾連合軍に東西から攻められたのに撃退できたというのはむしろ奇跡的といえるでしょう。たぶん両者が牽制しあって必ずしも意思統一が図られなかったからではないかと思います。
当時の政治的状況から考えると畠山氏としても神保氏を完全に滅ぼしてしまうのはかえって不利ですし、できれば降伏させたいと考えていたでしょうし、長尾氏としては神保氏を降伏させても良いが完全に滅ぼしてもかまわないと考えていたと思うので、両者が微妙に立場が異なるのを神保氏につけ込まれたのではないかと思うのです。
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本丸から二の丸への階段 |
守山城腰曲輪跡 |
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本丸の周りを囲む腰曲輪 |
守山城二の丸跡 |
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本丸の南側を階段状の曲輪が囲んでいる |
本丸南側の斜面はかなり急です |
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守山城馬口跡 |
この馬口は割と広い曲輪です |
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住所 |
富山県高岡市東海老坂城山 |
形式 |
連郭式山城 (標高259m/比高250m) |
遺構 |
郭 石垣 空堀 |
築城者 |
桃井直常 |
施設 |
説明板 トイレ 石碑 |
城主 |
神保氏 佐々成政 前田利長 |
駐車場 |
城山公園の無料駐車場あり |
築城年 |
南北朝時代 |
文化財 |
なし |
廃城年 |
天正9年(1581年)4月 |
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