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高岡城本丸跡にある前田利長像 |
高岡城は、富山県高岡市古城にあった平城です。国史跡に指定されています。現在は、高岡古城公園として一般に公開されていて、市民の憩いの場になっていて、各種の公共施設も設置されています。また桜の名所としても有名で日本さくら名所100選にも選定されています。
初代加賀藩主・前田利長が、1605年(慶長10年)6月28日に富山城に隠居していますが、その4年後の1609年(慶長14年)になって富山城下の町人地から出火した火災の類焼により、何と城内の建築物の大半が焼失しています。当時はこのようなことは意外と多く、江戸城も明暦の大火で焼失しています。
そのため利長はいったん魚津城に移り、徳川家康・秀忠に富山城焼失の報告と、射水郡関野での築城許可を申請しています。
利長はどうして関野(高岡)に築城しようと考えたのかですが、以前に二上山の守山城主であった利長は、二上山から高岡の地を見下ろすことができたので、この高岡の地が交通の要衝であり、水運にも有利だと以前から知っていたからではないかと推測できますが本当のところは本人しかわからないでしょう。
築城の許可を貰った利長は、さっそく築城に取りかかっています。資材調達を小塚秀正ら、現地奉行を神尾之直らに命じ、魚津城から築城の指揮を取り、同時に城下町の造成も始めています。記録では、ずいぶんと工事を急がせている様子が伺えます。
縄張は当時の前田家の客将だったキリシタン大名高山右近とされていますが、実は異説もあります。長連龍、山崎長徳も縄張に加わったとする説もあり、こちらはもっともな説です。私見では当時の築城術の権威となればやはり高山右近が第一人者と考えて良く、金沢城も大改修していますし富山城の改修も実は高山右近がやったようですし、他の者に任せることは考えにくいと思います。もう一つ考えられるのは利長自身が縄張りしたことにしておく
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高岡城址遠景 |
という可能性で、これは充分考えられます。高山右近はキリシタン大名で秀吉にも家康にもにらまれていたので、高山右近に縄張りをさせることで徳川家の疑念を招きかねないと利長が考えてもおかしくありません。そうなると少なくとも高山右近を表に立ててはまずいので、大事なところは右近に任せるが表向きは利長が采配したと見せかけたのではないかと推測できます。
最近の研究では利長が自ら縄張りしたという説が浮上していますが、利長は魚津城から築城に関する催促状を何度も発信していて、ただ焦りが目立つし、そもそも本人は現地には行っていないようですから、これは果たしてどうなのか。実際のところは大まかな設計は利長がやったとして、重要な部分はやはり高山右近が手がけ、それを長連龍、山崎長徳らの老臣たちが補佐したというのが良い線はないかと思うのですが。だいたい利長が縄張りといっても、これまでこのような大規模な平城の築城経験がない者がこのような大規模な城を全面的に設計するなどというのは困難ではないかと。
それにしても高山右近をかくまっていた前田家というのもたいしたものですね。私だったらとてもできません。
同年9月13日、利長は「関野」を「高岡」と改め、まだ未完成の高岡城に入城しています。
殿閣は先代利家が秀吉から賜った秀次失脚のため破却された伏見城秀次邸の良材を使って建てられたとも伝えられています。しかし、1614年(慶長19年)5月20日に利長は死去(享年53)してしまっているので、利長の隠居城としての役目はほんの数年で終わってしまいました。さらにその翌年1615年(元和元年)には一国一城令が発せられ、越中では富山城が残され高岡城が廃城と決まり、大坂夏の陣からの利常凱旋を待って高岡城は廃城となったとされています。
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高岡城本丸西側の水濠 |
ただし、廃城時期については1638年(寛永15年)とする異説もありますが、これはどうでしょうか。と言うよりもそもそも高岡城は廃城になったとはいえ、その後も高岡町奉行所の管理下で、加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・番所などが置かれていて、軍事拠点としての機能は密かに維持されているのです。これは加賀藩の越中における東の拠点であった魚津城も同様でした。
要するに廃城とは名ばかりなので廃城時期について云々する意味はあまりないように思います。
そもそも、国宝瑞龍寺や利長の墓所もいざというときの軍事拠点として使用する意図があったのではないかと考えられ、前田家の深慮遠謀が伺えます。さすがに百万石を維持するだけの事はあるのです。
城内におかれた米蔵等は1821年(文政4年)の高岡大火の際にほぼ全焼していますが、その後再建されていて明治初年に射水郡議事堂が建設されるまで現存していたと言われています。
2006年(平成18年)4月6日には高岡城が日本城郭協会により「日本100名城」に富山県内から唯一選ばれています。
ううむ、富山城を差し置いて・・・しかし現在では高岡城の方が大きい城域を持っていますので。
2007年(平成19年)6月2日からは全国規模の「日本100名城スタンプラリー」(高岡城(高岡古城公園)は「33番」)が開始されています。
高岡城の構造についてですが、郭は、本丸、二の丸、三の丸、明丸、鍛冶丸の五つからなります。
現在では「御城外」とされている小竹藪や梅林(当時の郭名は不明)も、これに加えるものと考えられています。
しかしそうなると小竹藪の外周には水濠はないので、ここが無防備ということになりますが、当時は城の西側から北西部にかけては沼田であったので、ここからは攻めにくかったと見られます。
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本丸跡にある射水神社 |
そのため水濠は本丸西側のみは一重だったわけで、西側の沼田を背面の護りとして、本丸は二の丸、鍛冶丸、明丸、三の丸でコの字型に囲む形の縄張りとなっていたわけです。
この高岡城は、安田城と同じく、いわゆる連続馬出しの構造になっていて、防御力が高いとされていますが、これは当時の最先端の築城技術ということができます。高山右近は、元々畿内の大名で最先端の技術を有していて、田舎大名とは毛並みが違うということでしょうか。
現在も築城当時の濠塁がほぼそのまま残っていて、総面積約21万m2(71,261坪)の内、約3割(24,400坪)が人工の濠となっています。つまりこの城の水濠は極めて大規模なもので、幅も広くここを攻めるのはかなり困難が予想されることになります。
この縄張りは実は富山城の構造と類似しています。富山城も本丸の背後には神通川があり、前面と側面を他の郭で囲んで二重の水濠で守る構造となっています。となるとおそらくは富山城の構造を真似て高岡城を建設したことになります。
高岡城に天守や櫓などが建てられていたかどうかは定かではありませんが、慶長17年(1612)年に時点の現存最古の高岡城図には、天守予定地と目される本丸北隅には材木蔵があると記されていて、利長が高岡へ入城して3年後の時点ではいまだに天守は築かれていなかったものと考えられます。ですからおそらく天守は築かれなかったとみて良いと思います。
いずれは天守を建設するつもりだったのかもしれませんが、天守台を築いても天守を建設しなかった実例も多数あるので(富山城もそうです)天守を築かなかったとしても別に不思議ではありません。
廃城後の建物群については、現在知られている城図の中に、その配置や寸法を記したものがあり、大きなものでは、本丸に長さ24間(約43.4m)の米蔵が2棟、50間(約90.9m)の塩蔵が1棟あったことがわかっています。
残念ながらこれらの建築遺構は現存せず、本丸と二の丸の間に残る石垣と本丸と三の丸に井戸が残る程度です。
実際に高岡古城公園を訪れると、水濠の幅が極めて広く、土塁も高いのでなかなか攻めるのはたいへんであろうと思われますが、小竹藪には水濠がなく当時は沼田だったということなので攻めるならここからでしょう。
もう一つ考えられるのは本丸西側から力攻めで濠を渡って攻める手ですが、これは犠牲が大きくなりそうです。
何しろこの高岡城は連続馬出しの行動となっていて鍛冶丸へ侵入しても二ノ丸を通らないと本丸へ侵入することはできないし、二ノ丸へ入る際には、本丸側から狙い撃たれてしまいます。二ノ丸から本丸へ入ろうとしても激しい抵抗が予想されます。
小竹藪から侵入しても三ノ丸、明丸を通過しないと鍛冶丸へ入れませんし、土橋を通過するときにいずれも本丸から狙い撃たれてしまいます。
本丸広場では、既に本丸御殿の遺構とみられる敷石が発掘されています。本丸御殿の存在は、これまで発見されている資料からも推定されてはいたのですが、実際にその遺構が発見されたのはこれが初めてでその規模が明らかにされることが期待できます。
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三の丸跡にある古井戸 |
本丸跡にある古井戸 |
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西内濠 |
高岡城跡石垣説明板 |
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高岡城跡石垣 |
高岡城跡西外濠 |
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高岡城跡西外濠 |
高岡城跡本丸西側 |
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高岡城跡本丸広場 |
高岡城石垣の石説明板 |
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高岡城跡児童公園 |
高岡城外濠と噴水 |
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高岡城跡朝陽の滝 |
高岡城跡朝陽橋 |
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利長号 |
高岡城跡相撲場 |
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高岡城跡石垣 |
高岡城跡三の丸古井戸 |
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蒸気機関車C11217号 |
高岡城跡北外濠 |
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高岡城跡枡形濠 |
高岡城跡本丸古井戸 |
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緑翠亭 |
二の橋 |
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一の橋 |
二の橋 |
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高岡城小竹藪 |
夕日の曲碑 |
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高岡城中の島内濠 |
高岡城本丸北濠 |
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高岡城朝陽橋 |
鶏舎の朝 |
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私の家族 |
本丸井戸 |
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熱風 |
裸婦 |
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相撲場 |
石垣西側 |
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石垣東側 |
古城の滝 |
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富山県史跡高岡城址説明板 |
高岡市民体育館 |
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高山右近銅像 |
小竹藪遺跡 |
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しなやか |
今日は新春特番の収録が行われています |
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いったい何をしているのでしょうか |
小竹藪から見た一の橋と中之島 |
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中之島から見た朝陽橋 |
中之島にある茶筌塚 |
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中之島から見た西外濠の噴水 |
中之島と小竹藪の間の外濠 |
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西外濠と二の橋 |
小竹藪の外周を守る土塁 |
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西外濠 |
本丸土塁と西外濠 |
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西外濠と遊覧船乗船場 |
遊覧船乗船場 |
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西外濠と中之島 |
本丸土塁の下には犬走りが続いています。 |
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本丸橋 |
本丸西側は濠が一重で手薄なのでは |
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本丸橋の中央が高くなっています |
本丸橋から見た西外濠南側 |
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本丸への通路から見た西外濠 |
本丸西側の土塁 |
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本丸広場 |
行路 |
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國技 |
石垣西側 |
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西内濠のそばの犬走 |
石垣東側 |
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北外濠北西側 |
北外濠北東側 |
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三の丸濠 |
北外濠東側 |
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北外濠 |
三の丸濠と三の丸土塁 |
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高岡古城公園の石碑 |
搦手口 |
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三の丸濠 |
桝形壕 |
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桝形濠北側 |
東内壕と朝陽橋 |
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民部の井戸 |
桝形濠と明丸土塁 |
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桝形濠と明丸土塁 |
桝形濠にカモが泳いでいます |
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これほど大規模な水濠が残っているのは・・・ |
鍛冶丸と明丸の間の土橋 |
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桝形濠と鍛冶丸土塁 |
大手口から鍛冶丸への土橋 |
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桝形濠東側 |
桝形濠南側 |
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大手口 |
内閣総理大臣賞受賞を示す石碑 |
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さくら名所100選を示す石碑 |
日本の都市公園100選を示す石碑 |
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南外濠と駐春橋 |
南外濠 |
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駐春橋 |
南外濠西側 |
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駐春橋から見た大手口 |
南外濠南西部 |
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駐春橋 |
南外濠南西部と駐春橋 |
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西外濠 |
西外濠西部 |
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二の丸への入口 |
西外濠 |
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護国神社鳥居 |
護国神社社殿 |
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護国神社社殿内部 |
高岡市民会館 |
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西内濠 |
東内濠 |
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石垣 |
本丸之井戸 |
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本丸から見た中之島 |
緑翠亭 |
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朝陽橋 |
朝陽の滝 |
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朝陽橋から見た西外濠 |
小竹藪から見た北外濠 |
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本丸広場で発掘された礎石 |
本丸御殿の存在が明らかに |
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礎石はけっこう大きなものです |
本丸御殿は広場のかなりの部分を占めていたようです |
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発掘調査現場 |
本丸御殿が復元されないかな~ |
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城内施設 |
射水神社 高岡古城公園動物園 高岡市民会館 高岡市立博物館 高岡市民体育館 |
各休館日 |
高岡古城公園動物園・・・月曜日(祝日の場合は翌日の平日)
高岡市民会館・・・・・月曜日(祝日の場合は翌日の平日)
高岡市立博物館・・・月曜日(祝日の場合は翌日の平日) 年末年始
高岡市民体育館・・・年末年始 |
料金 |
高岡古城公園動物園・高岡市立博物館・・・無料
小竹藪駐車場(普通車80台・バス7台)・・・・無料
北口駐車場(普通車50台)・・・・無料 |
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住所 |
富山県高岡市古城 |
形式 |
梯郭式平城 |
遺構 |
郭 石垣 水濠 土塁 井戸 礎石 |
築城者 |
前田利長 |
施設 |
説明板多数 トイレ 休憩所 その他多数 |
城主 |
前田利長 |
駐車場 |
あり(上記参照のこと) |
築城年 |
1609年(慶長14年) |
文化財 |
県指定史跡 |
廃城年 |
1615年(元和元年) |
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