願海寺城関係史 |
年号 |
歴史事項 |
備考 |
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※能登畠山臣下寺崎平左衛門行重の子民部左衛門盛永 |
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天文6-8頃 |
寺崎氏射水郡開発村に移住 |
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天文11(1542〉 |
盛永、放生津城を救援 |
神保方 |
天文19(1550) |
寺崎泰山入道・金森斎宮が願海寺野で上杉方と戦う |
神保方 |
天文21(1552) |
盛永、井田城主飯田利忠と天神林で戦う |
神保方 |
元亀元(1570) |
盛永、神保氏春らの将として、石黒左近らとともに魚津城の上杉方を攻める |
神保方 |
元亀3(1572) |
盛永、一揆勢との戦いでの敗戦を鰺坂長実へ伝える |
上杉方 |
天正2(1574) |
盛永、能登二宮まで侵攻(畠山氏内紛に乗じて) |
上杉方 |
天正3頃 |
14代了性、願海寺を小出から開発村に移転し建立 |
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天正4(1576) |
謙信、高岡関野で遊佐信濃守、小島、鞍智、寺崎氏と戦い、これを破って能登へ向う |
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天正5(1577) |
上杉方将士名簿に「寺崎民部左衛門尉」の名が記載 |
上杉方 |
盛永弟掃部政国(上杉方足軽大将)が能登黒島で討死 |
天正6(1578) |
3月上杉謙信死去 |
織田方 |
11月寺崎入道へ守山城に退去した能登長連龍の援助を信長が朱印状で指示 |
天正7頃 |
盛永、願海寺を焼討 |
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天正9(1581) |
2月佐々成政越中分封 |
上杉方 |
5月城下が炎上、「二之廻輪」へ盛永家臣の小野大学助・大貝采女が織田方の菅屋長頼(七尾城代)を引入れ、「実城」攻撃 |
盛永の子、喜六郎が小野大学助を斬り、負傷 |
願海寺城落城 |
(廃城) |
盛永、能登七尾城代菅屋長頼の元で切腹 |
喜六郎、能登へ召寄される |
天正10(1582) |
6月盛永・喜六郎と盛永の姉の子石崎平馬、近江佐和山の丹羽長秀宅で問責 |
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7月信長の命令で佐和山にて盛永・喜六郎切腹 |
切腹の様子は信長公記で「武勇無比観者感嘆」と記されていて、立派な振る舞いだったらしい。 |
家老草野大学など5人の家臣が切腹。家老蔵地孫之進は病死 |