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松代城南門から見た太鼓門 |
松代城は長野県長野市松代町松代にある輪郭式平城です。
城址は、国史跡に指定されています。当初は海津城と呼ばれていて、有名な川中島合戦の舞台ともなっています。
この松代城の正確な築城時期は不明ですが、戦国期には甲斐国の武田信玄が信濃侵攻を開始し、北信豪族を庇護した越後国の長尾景虎(上杉謙信)との北信・川中島地域をめぐる数次にわたる川中島合戦へと発展します。これにより武田信玄は、千曲川河畔の松代城(海津城)を川中島地域の拠点城郭として整備しています。ここでは、松代城の築城を1560年(永禄3年)としていますが、これ以前にもこの地点に海津城の前身となる居館があったとされています。
甲陽軍鑑によれば武田氏は北信国衆である清野氏の館を接収し、武田家足軽大将の山本勘助に命じて縄張りさせ、本城には小山田備中守虎満(昌辰)、二曲輪に市川等張・原与惣左衛門が配置されたとされています。
海津城の築城は1559年(永禄2年)から開始され、翌年には完成しています。築城は屋代氏、香坂氏ら川中島四郡(更級郡、埴科郡、高井郡、水内郡)の国衆が担ったと言われています。
海津城は東条城・尼飾城とともに上杉氏への最前線に位置し、1661年(永禄4年)9月に上杉氏が川中島へ侵攻すると、海津城城代の春日虎綱(高坂昌信)が海津城において篭城し信玄本隊の到着を待ち、9月10日には八幡原において両軍の決戦が行われたといわれています。これが世に言う第四次川中島合戦であり、数次にわたる川中島合戦でも最大の激戦となった戦いです。この川中島の戦いも言ってみれば海津城が完成したことにより上杉氏が越後本国にまで危険になったために発生した戦いということができます。
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松代城北不明門桝形門 |
また、海津城は川中島四郡における領国支配・国衆支配の拠点としても機能し、城代である春日虎綱は郡代的権限を持っていたと考えられています。つまり海津城は武田氏が北信濃を完全に領国化することを意図して築城された城であると言えます。
この海津城(松代城)周辺は、1561年時点では、武田氏の勢力と上杉氏の勢力の境界線上にあると考えられ、武田氏としては海津城を築いたことで、上杉氏の支配領域を浸食するための根拠地とする意図があったことは明白ですから、上杉氏としてもこの戦いは死活問題になり、激戦となったと言えましょう。しかしこの川中島の戦いに関する確実な資料は実は少なく、戦いの実相はあまりはっきりはしないのが現実です。しかしそれではイマイチつまらないので、ここでは甲陽軍鑑を初めとしたいくつかの軍記物と私見による推定を交えて、どのような戦いが繰り広げられたかを考えてみましょう。
1661年(永禄4年)8月、上杉謙信は越後から出陣し、同月15日には善光寺に着陣しています。そして上杉軍は荷駄隊と兵5000を善光寺に残して、ここを兵站基地とし、自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り善光寺平南部の妻女山に陣取っています。妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する位置にあります。武田信玄は、海津城城主高坂昌信から上杉軍が出陣したという知らせを受け、8月16日には甲府を進発します。武田軍は、24日に兵2万を率いて善光寺平西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙します。
実は、『甲陽軍鑑』には信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語に記述されたものです。
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松代城北不明門と続塀 |
実際には善光寺平南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ったと言われています。まあ茶臼山に陣取るのはいくら何でも深入りしすぎで大胆に過ぎ、いきなり武田信玄がこんな無謀な作戦をとるとも思えませんので、塩崎城に入ったという説の方が信憑性が高いと考えます。
しかしいずれにしても上杉軍は退路を断たれた形となり、妻女山は、武田軍本隊と海津城により包囲されてしまう形となっています。そのまま睨み合いが続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、29日には川中島の八幡原を横断して海津城に入城しています。謙信はこの時、信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻める事もでき、海津城を落とせば戦局は有利に進めることもできたとも考えられますが、実際には攻める事はなかったのです。もっとも相手が武田信玄ですから、上杉軍が海津城を攻めると武田軍に背後を攻撃されたら下手をすると全滅する恐れもあります。海津城の縄張りを考えると平城ではあっても防御力が高いのでそう簡単に攻め落とすことはできないと思えます。上杉軍が海津城を攻撃しなかったのは当然と言えましょう。
更に睨み合いが続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張します。しかし上杉謙信の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助と馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じたとされています。某漫画ではこれは馬場信房に作戦立案をさせたことになっていましたが・・・。実際のところ、山本勘助の武田家家中における地位がどれくらいだったのかはイマイチ明確ではありません。ただし実在の人物であることと、その地位も決して低いものではないとは考えられますが、軍師という地位ではなかったと思われます。甲陽軍鑑でも、実際のところは山本勘助が軍師であるという表現はどこにもありません。
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松代城北不明門櫓門 |
さて、山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける大規模な別働隊の編成を献策しています。この別働隊1万2千に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉軍が勝っても負けても山を下るから、これを平野部に布陣した武田軍本隊8千が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦でした。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた・・・、と言われていますが、実際には啄木鳥にはこんな習性はありません。まあ、本当にこんな作戦を立てたとは思えないのですが。何しろ別働隊に1万2千もの大軍を投入するのはあまりにリスクが大きく空振りに終わる可能性が高いことと、そんな大軍を深夜に動かすこと自体が危険が大きいということで、私だったら別働隊はせいぜい5千程度にしておきますが。
9月9日深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8千は八幡原に鶴翼の陣で布陣しています。しかし、上杉謙信は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知したとされています。
謙信は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡ります。これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」の場面となります。上杉謙信は、甘粕景持に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えています。上杉軍本隊はこの間に、八幡原に布陣します。この時には闇夜の上に深い霧が発生していたと言われていて、大軍が行動するにはあまりに危険な状況だったと思われますが、両軍とも平気で行動していますね。
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松代城北不明門枡形門 |
元々武田軍は、その夜は深い霧になることを察知していて、軍事行動を起こしたと考えられますが上杉軍もあらかじめ八幡原周辺の地形をよく調査していて道を間違えずに行動できたということでしょう。
10日午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は愕然とします。
この際に上杉軍は、猛将・柿崎景家を先鋒に、車懸りの陣で武田軍に襲いかかったといわれています。しかし車懸りの陣というのはいったいどんな陣形なのかですが、車輪のように回転しながら次々に敵陣に突入するとの話ですが・・・ちょっと信じられませんね。そんな機動が果たしてできたものかどうか・・・。
しかし武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣を敷いて応戦したものの、信玄の弟の信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死するなど、苦戦に陥っています。
乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に謙信自らが斬り込みをかけたと言われています。放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた謙信は床机に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は軍配をもってこれを凌ぐが肩先を負傷し、信玄の供回りが駆けつけたため惜しくも討ちもらした。頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じています。
川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信が行人包みの僧体に描かれているが、政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570年)のことですので、まあフィクションですね。
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松代城二の丸井戸跡 |
信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場していますが、正直言えばあまりにも出来すぎているため、創作と考えられることが多いようです。ただし、乱戦かつ上杉軍が攻めなければならない状況や、謙信の性格を考慮すれば、絶対に無かったとまでは言い切れないものがあるのも事実です。また、盟友関係にあった関白・近衛前久に宛てて、合戦後に謙信が送った書状では、謙信自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされます。まあもっとも謙信自らが太刀を振るうようでは戦はたいていは負けでしょう。
さて、謙信に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行します。武田別働隊は、上杉軍の殿を務めていた甘粕景持隊を蹴散らし、昼前(午前12時頃)には八幡原に到着します。
予定よりかなり遅れはしましたが、武田軍本隊は上杉軍の攻撃になお耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となります。形勢不利となった上杉軍は退却を開始し犀川を渡河して善光寺に退きます。武田軍も午後4時には追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わります。
上杉軍は川中島北の善光寺に配置していた兵3000と合流して、越後国に引き上げています。殿を務めた甘粕景持隊は敗兵を収容して引き揚げています。この戦い、上杉軍でもっとも活躍したのはこの甘粕隊だったと思います。武田軍別働隊の動きを遅らせたことと、退却時にも殿を務めていることなど、もっとも困難な役目を引き受けています。
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松代城太鼓門櫓門裏門 |
この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した激戦となっています。しかし戦いの実相を見ると上杉軍は退却時にさらに大きな損害を出していると思われ、この程度では済まなかったのではないかと思われます。
その後の上杉軍の関東での戦いぶりを見ても、この時の被害が甚大であったことを示唆していて、上杉家が大打撃を受けたことを痛感させられます。
とにかく信玄は八幡原で勝鬨を上げさせて引き上げ、謙信も首実検を行った上で越後へ帰還しています。
『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としています。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張しているのですが、武田軍は最高幹部級の副将武田信繁・諸角虎定が戦死しているのに対し、上杉軍の幹部に戦死者がいないとされていますので戦術的には上杉軍優勢で終わったとの見方もできます。もっとも上杉軍では荒川長実・志田義時などが討ち取られています。
武田方としては、特に副将信繁の戦死は武田家のその後に影を落としています。武田義信の謀反も信繁が生きていれば起きなかったかもしれませんし、その後の悲劇も起きなかったかもしれません。また上杉方の被害も甚大であり、その後の関東出兵では北条勢を相手に思うような戦いが出来ずに苦戦をしています。また上杉家としても、その後はとても北信濃に大軍を投入して失地回復など望める状況ではなくなっていて、激しい戦いはこの後は起きていません。
いずれにせよ、明確な勝敗がついた合戦ではなかったと言えます。この合戦に対する謙信の感状が4通現存しており、これを世に「血染めの感状」と呼ばれています。要するに戦いはあったけれども得たものはなかったために感状しか渡せなかったということであり、武田家では実際に土地を与える書状を家臣に渡しているのでその差は歴然でした。
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松代城辰巳隅櫓台 |
5次に渡る川中島合戦の結果、北信濃の武田家支配は完全なものとなり、戦略的には武田家に軍配が挙がると言えましょう。
海津城は、1582年(天正10年)の武田氏滅亡後に、織田氏家臣の森長可の居城となります。武田氏家臣で海津城城主であった高坂昌元は、織田軍に降伏して長可配下となっています。
同年4月には海津城に入り領内の統治に取り掛かった長可でしたが、信濃国の政情は未だに不安定であり、特に上杉氏の本領である越後国と隣接する長可の北信濃四郡は上杉氏と結んだ旧武田家臣なども存在していました。そういった中で4月5日に上杉景勝と結んだ旧武田家臣の芋川親正が土侍など8000人を率いて蜂起し、一揆勢は廃城となっていた大倉城を改修してここを本拠として挙兵し、稲葉貞通が守る飯山城を包囲するという事件が起こります。しかし長可はたちまち一揆勢を撫で斬りにして2450人を討ち取り、わずか2日でこれを鎮圧しています。また島津忠直など他の反抗的な勢力も領内から追放し支配を確立しています。
この事件により長可は武田遺臣の子息や近隣の村から人質を集めてこの海津城、あるいは海津城下に彼らを住まわせていますが、本能寺の変が起こると長可は信濃を放棄して退却する事を決断します。この際には信濃国の織田氏家臣たちも同様に美濃への撤退を開始しています。これらは信長の弔い合戦に参加するという名目ではありますが、実際には武田氏旧臣たちが一斉に蜂起して攻撃してくるのを恐れてのものでしょう。
実際に甲斐国の川尻秀隆は一揆衆に殺害されています。また上野国の滝川一益も北条軍に敗れて撤退を余儀なくされています。この長可の撤退に対して昌元は信濃国人衆を糾合した一揆勢を率いてその撤退を阻止しようとします。
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松代城本丸東側の石垣 |
そこで長可は昌元の息子である森庄助を初めとする人質を使って交渉することとし、家臣の大塚次右衛門を一揆衆への交渉役とします。大塚は昌元の裏切りをその席で糾弾するなど終始強気の態度であり、ひとまず松本での人質の開放は約束されたものの森軍には手出しをしないという条件を飲まされる事となっています。しかし一揆衆は納得しておらず猿ヶ馬場峠で長可と戦いに及ぶも撃退されてしまいます。そこで再度、大塚と一揆衆の会談の席が設けられ、大塚は手出し無用の事を強く言明しています。しかしながら長可は昌元の裏切りそのものに強く不快感を持っており、松本に着くと約束を反故にし長可自ら庄助を殺すと、森軍は他の人質もすべて殺してそのまま北信濃から撤退しています。しかし高坂昌元も下手なことをしたものですが、要するに武田家を滅ぼした上に武田氏親族や重臣なども根絶やしにしようとした織田氏が許せなかったということでしょうか。
とにかく森軍の撤退により海津城も無人のまま捨て置かれてしまいます。そして川中島四郡には上杉氏が侵入してきたため、高坂昌元も上杉氏配下となっています。ところが同年7月13日、高坂昌元が真田昌幸や北条氏直らと内通したことが発覚して、上杉景勝によって誅殺されてしまいます。これにより、高坂氏嫡流は滅亡してしまうことになります・・・。しかし散々な結果でした。
この際に発生した天正壬午の乱でも上杉氏は北条氏と川中島周辺で対峙しますが最終的には和睦する形で川中島四郡の支配権を獲得することに成功します。この後は、上杉景勝が海津城とその周辺を支配することになりますが、1598年(慶長3年)には上杉景勝が会津に転封となり、川中島周辺は豊臣秀吉の蔵入地となり、城主には田丸直昌が任じられています。
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松代城太鼓門櫓門 |
1600年(慶長5年) 2月には田丸直昌の後釜として森忠政が信濃国川中島13万7000石に封じられて海津城に入城しています。同時に豊臣家の蔵入地では無くなっています。この時、海津城から待城へと改名されています。
森忠政は、以前に高坂昌元が自分の兄である長可が信濃から撤退するのを妨害したことを忘れていず、昌元の一族を残らず捕らえて処刑しています。また右近検地と呼ばれる厳しい検地により石高を19万石と数え、苛烈な税の取立てなどで領国化に勤めたが北信濃4郡での全領一揆などの反発を招くことになります。一揆は鎮圧したものの十分な成果が上がらぬうちに、1603年(慶長8年)
森忠政は美作へと加増転封されて、この地には松平忠輝が信濃川中島藩12万石に加増されて入封します。この忠輝領主時代に待城からさらに松城へと改名されたといわれています。松平忠輝は1610年(慶長15年)には、越後高田藩主に任じられ、このとき川中島12万石と併せて合計75万石の太守に任じられています。松平忠輝は、越後国福島城に入城していますが、1614年(慶長19年)には高田城を築城し、ここに移っています。
ところが1616年(元和2年)7月6日、忠輝は大坂夏の陣の際に不行跡があったことを譴責され、兄・秀忠から改易を命じられ、伊勢朝熊に流罪とされていて、その所領も没収されています。
同年、松平忠昌が信濃国松代藩12万石へ加増移封されています。しかし1618年(元和4年)には忠昌は越後国高田藩25万石へ加増移封されています。これに伴い、元和5年(1619年)3月には酒井忠勝が越後高田藩10万石から信濃松代藩10万石に移封されています。しかし元和8年(1622年)6月7日には出羽庄内藩13万8,000石に加増され、移封されています。
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松代城本丸北西部にある戌亥隅櫓台 |
そして同年に真田信之が信濃国上田藩から松城に入城し、これ以後、松城は松代藩の藩庁として明治維新まで真田氏の居城となっています。1711年(正徳元年)には幕命により松城から松代城と改名しています。
1717年(享保2年)には火災により本丸、二の丸、三の丸を焼失しています。1742年(寛保2年)
戌の満水により被害を受けています。この時に城の一番高い石垣も水没したと伝えられ甚大な被害を受けています。領内も大きな被害を受けていて、これらの被害救済のため松代藩が幕府から多額の借金をせざるを得なくなり、そのため藩政が疲弊し、真田騒動の一因となっています。
1770年(明和7年)には花の丸に御殿を移します。1853年(嘉永6年) には火災により花の丸を焼失しています。
このように度重なる火災や水害で松代城が大きな被害を受けていて、城の機能は本丸から花の丸へ移り、明治維新を迎えて、1872年(明治5年)には松代城も廃城となっています。さらに1873年(明治6年)には火災により花の丸を焼失しています。
松代城は、甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つです。千曲川を背後に控え、本丸を三方から二の丸が囲み、甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀がありますが、いずれも現在では失われています。本丸には四隅に二重櫓があったと言われていますが、これも現在では失われています。水堀も、当時は二重から三重に囲まれていて、平城ながら堅固な城と言えます。
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松代城太鼓門前橋と太鼓門橋爪門 |
問題は、天守があったのかどうかなのですが、これについては本丸内部には天守はなかったのではないかと思われます。少なくとも海津城が築城された時点では天守があるはずもないので、もし建築されたとすると江戸時代前後と考えられますが、どうも次々に城主が入れ替わっていて、1622年に真田氏が入城して定着したときには、既に天守を建築する時期は過ぎていましたから。本丸北西部の戌亥櫓が実質的な天守だったのだろうと思います。
松代城は明治時代になると建築物はすべて焼失するか撤去されるかですべて失われていましたが、1981年(昭和56年)には本丸を中心とした城址の一部が国の史跡に指定されています。
また1995年(平成7年)から松代城跡の整備工事が始まり、埋蔵文化財や古文書・絵図などの歴史資料をもとに、整備をすすめています。しかし松代城は前述するように1717年(享保2年)の火災により建物がことごとく全焼しており、火災以前の歴史資料が乏しいため、享保の大火後の再建から廃城までの姿を再現しています。この整備工事では、太鼓門・北不明門の復元、石垣の修復、土塁・堀が整備されて、松代城の江戸末期の姿がほぼ再現されています。
今回の整備では、石垣整備(本丸石垣修理・復元)、土塁整備(二の丸土塁の再現・虎口の表示)、堀整備(内堀復元・一部外堀復元・外堀遺構表示)、建物復元(本丸太鼓門・本丸北不明門)、その他(遺構表示・説明案内施設・休憩便益施設等)という内容となっています。
復元工事は、2004年(平成16年)に完了し、太鼓門・堀・石垣・土塁などがほぼ江戸時代末期の姿に復元されています。
2006年(平成18年)4月6日には松代城が日本100名城(26番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されています。
またNHK大河ドラマ「真田丸」などで真田氏の戦国での活躍がクローズアップされています。
松代城跡の南側には、真田氏の居館となる真田邸(新御殿)があり、ここも併せて国史跡に指定されています。
真田邸は、九代藩主・幸教が、義母・貞松院(幸良の夫人)の住まいとして1864年(元治元年)に建築した松代城の城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていました。
江戸時代では、大名の妻子は生涯江戸住まいを義務づけられていましたが、1862年(文久2年)、十四代将軍・徳川家茂の時代に行われた文久の改革による参勤交代制度の緩和にともない、妻子の帰国が許可されたことから、松代にも屋敷が必要になったためにこの新御殿が建設されました。。
後に、隠居後の幸教もここを住まいとし、明治以降は伯爵となった真田氏の私宅となりました。
1966年(昭和41年)には、新御殿が十二代当主・幸治氏により代々の家宝とともに当時の松代町に譲渡されました。
主屋、表門、土蔵7棟、庭園が江戸末期の御殿建築の様式をよく伝え、建築史の視点からも貴重な建物であり、松代城と一体のものとして国の史跡に指定されています。座観式の庭園の四季の風情も見どころです。
大名家の邸宅となる御殿形式の建築物は現存しているものが極めて少なく貴重な建築物といえます。
真田邸庭園内の土蔵のうち、3番土蔵は松代文化財ボランティアの会による「体験工房」として、切り紙や筝の演奏などが体験できます。
また文武学校は、文武を奨励した松代藩八代藩主・幸貫が水戸の弘道館にならって計画し、九代・幸教の時代に完成した松代藩の藩校です。藩士の子弟が学問と武道を学ぶ場として、1855年(安政2年)に開校しました。
開校の前年、1854年(安政元年) 7月までには諸棟を完成させていましたが、花の丸御殿が焼失したため、急遽、学校が仮の役所とされて使用されたために、開校が遅れたのです。現在でも御用所が文学所に併設されている形となっていて、ここが役所として使用されていたことがうかがえるようになっています。
教室にあたる文学所、武術を学ぶ剣術所、柔術所、弓術所、槍術所、東序、西序などが配置されています。
当時の時間割には東洋・西洋の医学、小笠原流礼法、西洋の軍学なども組み込まれており、先進的な教育が行われていました。
各地の藩校の多くが幕府の学問所にならって敷地内に孔子廟を設け、儒教を重んじる風習がありましたが、文武学校には設けていないことからも、近代的な学校の先駆けであったことがうかがえます。
この文武学校では、朝から夕方まで、通しで授業を受けるという形式ではなく、必要に応じて受講する科目を選択する形式で授業が行われていました。
明治に至り、廃藩に伴い明治6年以降は、初等教育の場として昭和40年代まで使われています。
建物は、創建時の姿を現在に伝る貴重な遺構で、1953年(昭和28年)に国の史跡に指定されています。
武道の稽古や大会に使われている剣術所・槍術所をはじめ、江戸時代の面影をそのままに質実な空気漂う敷地内は、映画や時代劇のロケにもしばしば利用されています。
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松代城を北側から見た |
松代城外堀跡と土塁 |
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松代城外堀は空堀 |
松代城北側の土塁はかなりの高さです |
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松代城新堀 |
新堀には水があります |
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松代城新堀は最も外側の堀です |
松代城丑寅隅櫓台の石垣 |
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松代城本丸北不明門と続塀 |
松代城戌亥隅櫓台 |
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北不明門の表門 |
続塀には鉄砲狭間が開いています |
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表門の内側 |
続塀には鉄砲狭間が開いています |
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北不明門の櫓門 |
本丸から櫓門を見る |
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松代城二の丸北西側の土塁 |
松代城二の丸北東側の土塁 |
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松代城本丸東側の石垣 |
松代城東不明門跡 |
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松代城戌亥隅櫓台は展望台になっています |
石碑と展望台への階段 |
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松代城本丸西側の石垣 |
松代城本丸 |
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松代城本丸には御殿跡が埋まっている |
松代城太鼓門付近の石垣 |
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松代城太鼓門及び太鼓門前橋 |
松代城二の丸と本丸東側土塁 |
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松代城太鼓門橋爪門裏門 |
松代城太鼓門前橋と内堀 |
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松代城内堀南側 |
松代城内堀西側 |
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松代城土塁と埋門 |
埋門北側 |
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松代城土塁と二の丸北側 |
松代城北不明門全景 |
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松代城戌亥隅櫓台 |
松代城本丸北側の石垣 |
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戌亥隅櫓台から見た北不明門 |
戌亥隅櫓台から見た本丸 |
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戌亥隅櫓台の上部 |
松代城太鼓門櫓門 |
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松代城太鼓門櫓門 |
松代城太鼓門櫓門を門内部から |
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続塀には鉄砲狭間が |
松代城太鼓門表門を門内部から |
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松代城太鼓門櫓門を門内部から |
松代城太鼓門表門と前橋 |
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本丸南東側の内堀 |
本丸北東側内堀 |
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松代城二の丸石場門 |
松代城二の丸石場門 |
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松代城二の丸東側の土塁 |
松代城二の丸 |
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松代城二の丸と土塁 |
松代城東不明門前橋 |
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松代城内堀と辰巳隅櫓台 |
松代城内堀と太鼓門前橋 |
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松代城未申隅櫓台 |
松代城太鼓門続塀及び辰巳隅櫓台 |
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松代城二の丸南門 |
国史跡指定を示す石碑 |
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松代城太鼓門前橋及び橋爪門 |
二の丸の土塁ですが・・・ |
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要するに丸馬出なのですね |
松代城本丸西側の内堀 |
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二の丸西側の土塁 |
松代城二の丸北西側の土塁 |
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松代城戌亥隅櫓台 |
松代城北不明門と井戸跡 |
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松代城二の丸北側の外堀 |
松代城二の丸北東部 |
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松代城二の丸北東側の外堀 |
松代城丑寅隅櫓台と外堀 |
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松代城丑寅隅櫓台 |
外堀からの通路が土塁で仕切られています |
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外堀にかかる橋 |
百間堀跡 |
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真田邸は松代城とともに国史跡に指定されています |
真田邸御殿 |
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真田邸表門を内部から |
真田邸について |
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真田邸御殿に入ります |
真田邸御殿の廊下 |
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真田家の歴史をビデオで |
パネルも展示してあります |
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御次の間 |
御次の間 |
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表座敷 |
表座敷 |
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中庭 |
杉戸は表と奥の境目にあります |
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杉戸があるということはここからは奥なのです |
御寝所 |
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奥座敷 |
御化粧の間 |
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廊下の途中に杉戸があります |
御持仏の間 |
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奥座敷は庭園に面しています |
御湯殿 |
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手洗いの間 |
手洗い場 |
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御化粧の間は床の間と庭園に面しています |
庭園 |
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縁側 |
武者隠し |
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御居間 |
庭園 |
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庭園 |
庭園 |
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真田邸の配置図 |
御次の間 |
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御次の間 |
御持仏の間 |
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真田氏について |
絵が描かれたふすま |
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紙で作った甲冑展 |
甲冑 |
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甲冑 |
甲冑 |
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甲冑 |
御殿平面図 |
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御玄関 |
御殿表門 |
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真田文武学校 |
御役所・文学所 |
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腰掛建物 |
剣術所 |
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東序 |
西序 |
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文学所玄関 |
文学所広間 |
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文学所三之間 |
文学所二之間 |
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文学所拾畳半 |
文学所九畳 |
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文学所一之間 |
文学所教室全体 |
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廊下が続いています |
文学所に囲炉裏端がありました |
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廊下が続いています |
御用所 |
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御居間 |
縁側 |
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御用所はたくさんの部屋があります |
縁側 |
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文庫蔵には多数のパネルが展示されています |
文庫蔵のパネル |
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東序では軍学が教えられていました |
東序には2階があります |
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東序 |
西序 |
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西序では礼法、漢方、医学、西洋医学を教えていました |
西序の教室 |
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文学所 |
弓術所 |
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弓術所の練習場 |
弓術所の内部はかなり広いのです |
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弓術所の屋外練習場 |
御座の間 |
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高座 |
控の間 |
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柔術所内部 |
柔術所内部 |
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番所 |
柔術所 |
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剣術所 |
剣術所内部 |
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剣術所内部 |
剣術所にも床の間があります |
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番所 |
弓術所 |
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裏門 |
槍術所 |
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槍術所内部 |
槍術所内部 |
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槍術所内部 |
槍術所 |
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住所 |
長野県長野市松代町松代 |
形式 |
輪郭式平城 |
遺構 |
石垣 土塁 堀 |
築城者 |
武田信玄 |
再建造物 |
太鼓門 北不明門 橋 堀 石垣 土塁 |
城主 |
高坂氏 須田満親 田丸直昌 森氏 松平氏 真田氏 |
施設 |
説明板 トイレ 管理棟 無料駐車場 |
築城年 |
1560年(永禄3年) |
文化財 |
国史跡 |
廃城年 |
1873年(明治6年) |
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