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天神山城跡 |
天神山城は、富山県魚津市小川寺字天神山にある標高163mの天神山(別名、松尾山)の山頂に築かれた山城です。
別名、萩城とも呼ばれています。天神山城は、松倉城の支城として戦国期に上杉氏が築城したと考えられています。
しかし実際には、その以前から城砦が築かれていたと思われ、戦国期には当初は推名氏が天神山城を領有していたのですが、上杉氏に奪われてしまい、上杉氏が城を改修したと考える方が事実に近いと思われます。
史料に具体的に天神山の名前が見られるのは元亀3年(1572年)のことであり、この頃は上杉氏が松倉城主椎名康胤を松倉城から追い落として、長尾景直を天神山城に入れていました。この頃は上杉氏の全盛期でした。
しかしやがて織田氏の勢力が越中に伸びてきて上杉氏との抗争が始まります。
天正10年(1582年)3月日には魚津城が柴田勝家率いる織田方に包囲され、魚津城主中条景泰が援軍を要請しますが、当時の上杉氏は新発田重家の反乱を抱えた上に、武田氏が織田氏に滅ぼされて信濃にまで織田氏の勢力が伸びていて、とても越後本国から援軍を送れるような状況ではなく、やむなく能登国の諸将、および松倉城主上条政繁や斎藤朝信を派遣しています。
そして上杉景勝はようやく同年5月4日に魚津城救援のため、自ら軍勢を率い春日山城を出発、5月19日に天神山城に入り陣を張っています。しかし天神山城は魚津城とは約5kmも離れていて、
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本丸跡にある天神社 |
本気で救援する気があったのかどうか、かなり疑問です。
要するに上杉本隊が援軍として駆けつけたものの、織田軍は大軍でとても手が出せない状況だったのでしょう。
織田軍は5月6日には魚津城二の丸を占拠したため、上杉景勝は魚津城に戦を仕掛けられず、さらに信濃国海津城の森長可や上野国厩橋城の滝川一益が景勝の本拠である越後春日山城を総攻撃する態勢に入ったため、景勝は5月27日に天神山城からの退陣を決断しています。松倉城の上杉軍も撤退しているため、魚津城は完全に孤立してしまったことになります。
その後、上杉軍は決死の篭城戦を展開し両軍が決死の攻防戦を繰り広げたが、開戦から3ヶ月後の6月3日についに城主中条景泰らの上杉方の守将12人が自刃して、魚津城は落城しています。
ところが落城前日の6月2日には本能寺の変が起こっていて、織田信長が討たれ、それを知った織田方があわてて退却したため、上杉軍が再び魚津城を占領していますが、天正11年(1583年)には佐々成政に城を明け渡しています。
これにより魚津周辺は佐々成政が抑えるようになり、上杉氏の越中における拠点は壊滅してしまうことになります。
佐々成政が越中を去った後は、前田氏が越中を領有するようになり、前田利家配下の青山佐渡守・豊後守親子が城代として入城していますが、後に廃城となっています。
現在の遺構としては、山頂部に大きな削平地が二ヶ所あり、これが本丸、二の丸であると思われ、片貝川に面して土塁が築かれていて、削平地、縦堀、空堀も数多く見られます。実際に現地を訪れても山城跡であることが容易に伺える地形となっています。
天神山山頂からは弥生式土器も出土しているので、二世紀末の倭国大乱に関係する弥生時代の山城跡と考えられています。
つまりその頃から城砦があったことを示しています。
現在、城跡の麓には魚津歴史民俗博物館があり、歴史民族資料館、吉田記念郷土館、旧沢崎家があります。
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本丸跡 |
本丸跡にある説明板 |
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二の丸跡 |
天神山城からの風景 |
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本丸跡には灯台があります |
地蔵 |
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住所 |
富山県魚津市小川寺字天神山1070番地 |
施設 |
歴史民俗資料館
吉田記念郷土館
旧沢崎家 |
開館時間 |
9時~17時 |
休館日 |
月曜日(祝日の場合は翌日)、12月1日~3月31日 |
料金 |
無料 |
駐車場 |
無料駐車場あり |
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住所 |
富山県魚津市小川寺字天神山 |
形式 |
連郭式山城 (標高163m/比高80m) |
遺構 |
曲輪・土塁・空堀・竪堀 |
築城者 |
長尾(上杉)氏 |
施設 |
博物館 資料館 説明板 その他 |
城主 |
長尾景直 上杉景勝 佐々氏 青山吉次・長正 |
駐車場 |
あり |
築城年 |
天文23年(1554年) |
文化財 |
魚津市指定史跡 |
廃城年 |
慶長年間以前 |
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