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安養寺城跡全景 |
安養寺城は、富山県小矢部市末友にあった城郭伽藍(平城)です。別名、安養寺御坊。小矢部市指定史跡になっています。
前身は越中国土山御坊であり、明応3年(1494年)、高木場(現富山県南砺市高窪)へ移転され、永正16年(1519年)には高木場御坊が炎上してしまい、同年この地に移転されています。城域は一辺が約200mの方形で、その周囲を空堀と土塁で囲っていました。主郭から東側には「寺町」と呼ばれる地があり、寺内町を内包した惣構えにより守られていました。惣構えの東端には「大門」と呼ばれる地があり、ここは現在でも周囲よりも一段高くなっています。
また城域内には本願寺の連枝系寺院にのみ設けられた施設である「御亭」という地名も伝わっています。
この安養寺城の位置はちょうど越中国と加賀国の国境越えの主要道である「田近道」が通っていて交通の要所であったので越中一向一揆衆が加賀一向一揆との連絡路を確保するためにここに城を築いたのだと見ることもできます。
この勝興寺安養寺御坊の寺領は十数万石に及ぶとも言われていて、瑞泉寺と並び越中一向一揆の最重要拠点として機能していました。大永元年(1521年)3月には越中国氷見を中心に一向一揆が蜂起し、同年9月には飛騨国帰雲城の豪族内ヶ島氏が一揆方に味方して越中国守護代で守山城主の神保慶明と同じく越中国守護代の蓮沼城主遊佐慶親を徐々に圧迫しました。これに対して能登国守護畠山義総と越後国守護代長尾為景が援軍を派遣して、大名勢力と一向一揆勢力が正面衝突する事態に発展しました。
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安養寺城跡の案内板 |
大永2年(1522年)年、勝興寺勢と加賀国専光寺勢が内ケ島家当主雅氏の弟氏教とともに越中国多胡城(富山県氷見市)を攻めて畠山勢と戦っています。
この際には両軍とも甚大なる被害を出し内ヶ島氏教が戦死するほどでしたがようやく停戦、和睦しています。しかしこれにより遊佐氏の影響力は低下し、後に遊佐慶親は一向一揆の圧迫に耐えかねて越後国へ亡命し、勝興寺は蓮沼城を支配下に治めています。同時に能登畠山氏の越中国への影響力も弱くなったと見ることができます。
その後、永禄年間(1558年-1569年)は一向一揆勢を初めとした越中国の諸勢力は上杉謙信との抗争を繰り返すことになります。神保氏、椎名氏といった越中国東西の大豪族も一向一揆と上杉氏との抗争に巻き込まれて、どちらにつくかで悩まされていました。ここには実は甲斐の武田信玄の謀略が絡んでいたりします。つまり上杉氏の足を引っ張るため越中で争乱を起こし、飛騨国の諸豪も争乱に参加させて信濃や駿河攻略の妨害をさせないようにしていたというわけです。
元亀3年(1572年)には加賀国一向一揆が蜂起したため、勝興寺もこれに呼応して蜂起し、加賀勢、神保長城、椎名康胤とともに越中国富山城を落城させて神通川以西を一時的に制圧するも、上杉謙信に新庄城の戦い、尻垂坂の戦いで大敗して富山城を奪回されてしまい連合軍は壊滅してしまいます。この蜂起は武田信玄が上洛戦を開始するに当たって上杉謙信を釘付けにするための謀略の一環でしたので、一向一揆衆と神保、椎名はまんまと捨て石にされたという側面もあります。
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安養寺城跡の石碑 |
天正3年(1575年)には上杉謙信が越中国を攻略し、勝興寺は和睦しています。前後して蓮沼城の椎名康胤、増山城の神保長城も滅ぼされているので、これ以上の抗戦は無意味と悟ったのでしょう。天正5年(1577年)の「上杉家家中名字尽」に勝興寺の名が見えることから、この頃は一向一揆は上杉氏とは和睦してその配下にあったと見ることができるでしょう。このあたりになると織田軍が西から勢力を伸ばしてきていたので上杉氏と一向一揆が争うことは利敵行為になるという認識が双方にあったと思われます。
天正8年(1580年)2月には上杉家を離反し織田信長方に付いた越中国木舟城主石黒成綱が安養寺城を攻めるもこれを撃退しています。しかし天正9年(1581年)4月に再び越中国木舟城城主石黒成綱によって攻められて城と寺町は焼亡しています。この時は住職顕幸が門徒らとともに石山合戦に参戦している隙に、再び成綱が安養寺城を急襲したものです。
これにより勝興寺は直ちに上杉景勝に訴えて、景勝配下の吉江宗信が石黒成綱の本拠である木舟城を攻め落としています。石黒成綱はいったん庄ノ城に逃れて、同年7月には信長に呼び出されて長浜で暗殺されています。信長は越中の国人領主たちが上杉氏に寝返ることを恐れて、疑わしい者を粛正していたのでした。その後、越中には織田氏家臣佐々成政が入り、上杉氏の勢力を駆逐しています。勝興寺勢力もこれに従うようになったと考えられます。その後、信長が討たれて、秀吉が実権を握るようになり、佐々成政と対立するようになります。
天正12年(1584年)には佐々成政が越中国守山城城主神保氏張を介して越中国古国府城の地の寄進を申し出ています。
つまり佐々成政は前田利家との戦に備えて勝興寺と協力体制を築いておきたいと考えての思惑があったと思われます。
勝興寺勢力はこれを受け入れて現在の高岡市伏木にある古国府城に移転し(これが現在の勝興寺です)、安養寺城は放棄されています。
現在の安養寺城跡は大半が耕地されている為に全貌を把握する事は困難な状態です。しかし鐘楼堂跡や空堀遺構が残っておりここに城があったのだと伺えます。土塁上には石碑、案内板が建てられています。
周囲を丹念に探索してみるとそこそこ土塁が残っていて、圃場整備の後なのに、かなりの高低差があり、やはり城郭伽藍だったと伺えます。 |
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渋江川が天然の堀になっている |
土塁が残っている |
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長大な土塁が続く |
八幡宮の周囲にも土塁が残っている |
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城郭の外周の土塁の高さはかなりのものです |
八幡宮 |
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八幡宮の土塁の高さはなかなかです |
八幡宮の周囲は堀だったのでしよう |
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土塁の端が櫓跡です |
西側の土塁の高さは半端ではありません |
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西側の曲輪の土塁はかなりの高さです |
地形をうまく利用した縄張りがなされていたようです |
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住所 |
富山県小矢部市末友 |
形式 |
平城・城郭伽藍 |
遺構 |
鐘楼堂跡 空堀 |
築城者 |
一向一揆勢力(勝興寺) |
施設 |
説明板 石碑 |
城主 |
一向一揆勢力(勝興寺) |
駐車場 |
特になし |
築城年 |
永正16年(1519年) |
文化財 |
小矢部市指定史跡 |
廃城年 |
天正9年(1581年)4月 |
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