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武田氏館は現在武田神社となっています |
武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)は、山梨県甲府市古府中にある平城(居館跡)です。甲斐守護であった武田氏の本拠である甲府に築かれた城館で、守護所が所在していました。
現在、跡地には武田神社があり、また、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されており、県内では甲州市(旧勝沼町)の勝沼氏館と並んで資料価値の高い中世城館跡とされています。
城域の広さは周囲の堀を含めて東西約200m・南北約190m、面積は約1.4万坪(約4.6万m2)と推定されています。
外濠、内濠、空濠に囲まれた三重構造で、中世式の武家館であるが、東曲輪・中曲輪からなる規格的な主郭部、西曲輪、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪(このうち、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪は武田氏滅亡後の豊臣時代に造られています。)等から構成され、甲斐武田氏の城郭の特徴がよく現れた西曲輪虎口や空堀、馬出しなどの防御施設を配した構造になっています。内郭は石積みで仕切られており、東曲輪で政務が行われ、中曲輪は当主の日常の居住空間、西曲輪は家族の住居があったと考えられています。武田氏から徳川氏、浅野氏の支配の期間を通じて、主郭部に曲輪を増設する形で改修が行われています。
『高白斎記』によれば1543年(天文12年)には館の一部を焼失したが、再建されています。現在、跡地は1919年(大正8年)に創建された武田神社の境内にあたるが、このときに南面の主殿の規模が縮小されています。
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館の南側にある神橋 |
また武田神社の本殿を立てる際には南の石垣を崩し、正門を新たに造っています。このときに三重構造の原型の大半が崩されてしまったが、その後の1940年(昭和15年)に国の史跡に指定されています。
遺構としては土塁、堀、石垣、虎口、井戸があり、陶磁器などの出土遺物も確認されています。また武田神社の近くには往時のままの場所にあると伝えられている井戸が2箇所存在しますが、そのうち「姫の井戸」と呼ばれる井戸は、信玄の子息誕生の際に産湯に使用されたと伝えられています。なお、信玄の時代の通用門は現在の神社東側にあり、内堀によって道と隔てられていました。
甲府は戦国時代に築かれた甲斐源氏武田氏の本拠地で、居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっています。武田信虎、晴信(信玄)、勝頼の3代60年余りにわたって府中として栄えていて、武田氏滅亡後も広域城下町としての甲府や、近代以降の甲府市の原型となっています。
山梨県中部にある甲府盆地の北端、南流する相川扇状地上に位置していて、東西を藤川と相川に挟まれ、背後には詰城である要害山城を配置した構造になっています。
戦国時代には、各地で守護館を中心に政治的・経済的機能を集中させた城下町の整備が推進されていますが、甲斐守護武田氏は信昌時代に居館を甲府盆地東部の石和から川田(甲府市)へ移転して家臣団を集住させ、笛吹川を挟んだ商業地域と分離した城下町を形成していました。
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今でも水堀は健在です |
16世紀初頭、有力国人層を制圧して甲斐統一を進めていた甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主である武田信虎は、1519年(永正16年)に盆地中央に近い相川扇状地への居館構築をはじめ、有力家臣らを府中に住まわせています。『高白斎記』や『勝山記』には「新府中」や「甲斐府中」と記されており、居館移転は地鎮祭から4か月あまりで、居館も未完成な状態だったといわれていて、急いで移転した様子が伺えます。
室町期には甲斐国は守護代の跡部氏や国人勢力の台頭により守護武田氏の勢力が弱体化していましたが、信虎の祖父にあたる信昌期には跡部氏を排斥し国人勢力を駆逐し、守護権力が回復する一方で河内領主の穴山氏や郡内領主の小山田氏などの新勢力が台頭していました。これらの国人勢力は駿河の今川氏や相模の伊勢氏(北条氏)と連携することで甲斐守護武田氏と対抗し、信縄期には信昌の嫡男である信縄と信昌が後見する次男油川信恵が対立するなど、武田宗家の内肛も関係し甲斐一国は乱国状態に陥っていました。
永正2年(1505年)に信昌が死去し、永正4年(1507年)には父信縄の病死により信虎が14歳で家督を継承しています。信虎の叔父にあたる信恵は弟の岩手縄美、栗原昌種や甲斐東部郡内地方領主の小山田弥太郎らを味方にして信虎に対抗しますが、永正5年(1508年)10月4日の坊峰合戦(笛吹市境川村)において信恵をはじめ信恵方の大半が戦死し、信虎による武田宗家の統一が達成されます。
永正6年(1509年)には郡内へ侵攻し、翌永正7年には小山田氏を従属させ、当主の小山田信有(越中守信有)に実妹を嫁がせて講和し、郡内へ近い勝沼には信虎の実弟勝沼信友を置いています。その後、甲斐北西部の国衆今井氏を従属させますが、駿河今川氏に属していた河内の穴山信懸、西郡の大井氏との対決は続いています。
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神橋のたもとにある案内板と碑、石垣 |
永正12年(1515年)10月17日、信虎は大井信達・信業父子の拠る西郡上野城を攻め、今川氏は大井氏救援のため出陣し甲駿国境を封鎖しています。大井氏・駿河今川氏との抗争はその後も続き、今川氏は甲府盆地や都留郡にも侵攻し信虎や小山田氏との合戦が展開されています。
永正14年(1517年)には一時今川氏と和睦し、永正17年(1520年)には大井氏と同盟して大井信達の娘を正室に迎えています。この大井の方が産んだ子が晴信、信繁、信廉の三兄弟です。
永正16年(1519年)には、守護所を武田氏歴代の居館であった石和(笛吹市石和町)より西の甲府へ移り、はじめ川田に館を置いていますが、のちに前述するように府中(甲府市古府中)に躑躅ヶ崎館を築き城下町(武田城下町)を整備し、家臣を集住させています。その後も国人領主今井氏や信濃の諏訪氏との争いに加え、大永元年(1521年)には駿河の今川氏配下の土方城主福島正成を主体とする今川勢が富士川沿いに西郡まで侵攻し甲府へ迫ると、信虎は甲府館北東の詰城であった要害山城へ退き、今川勢を飯田河原合戦、上条河原合戦で撃退しています。この戦いの最中に、要害山城では嫡男晴信が産まれています。
この戦いで福島正成が討ち死にしたとも言われていますが、たぶん間違いでしょう。福島正成は、今川氏輝とその弟彦五郎が死去した後の跡目争いである花倉の乱において玄広恵探を支持して、今川義元に敗れたため、甲斐に逃亡したが捕らえられて殺害されたとされています。
大永年間(1521年~1527年)には対外勢力との抗争が本格化して、大永4年(1524年)には、関東における両上杉氏と新興勢力の北条氏の争いに介入し、都留郡の甲相国境付近では相模国境で北条勢と争い、大永6年(1526年)には梨の木平で北条氏綱勢を破っているが、以後も北条方との争いは一進一退を繰り返しています。
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武田氏館の案内板 |
翌大永7年(1527年)には佐久郡出兵を行い、同年には駿河の今川氏親と和睦しています。この頃の武田氏は、隣接する他国とはあまり仲が良くなかったようです。
翌享禄元年(1528年)に信濃諏訪攻めを行いますが、神戸・堺川合戦(諏訪郡富士見町)で諏訪頼満・頼隆に敗退しています。
享禄4年(1531年)には諏訪氏の後援を得て甲斐国人栗原兵庫・飯富虎昌らが反旗を翻しますが、信虎は今井信業・尾張守らを撃破し、同年4月には河原部合戦(韮崎市)で国人連合を撃破しています。また、享禄3年(1530年)には上杉朝興の斡旋で上杉憲房の後室を側室とする。上杉憲房は大永5年(1525年)に既に死去していましたが、仮にも関東管領です。関東管領の未亡人を側室とは、ちょっとどうかと思いますが。
また、享禄元年には甲斐一国内を対象とした徳政令を発しています。これは当時としてはたいへん珍しいケースでけっこうエポックメイキングな事件でしょう。
天文4年(1535年)には今川氏とも戦い、国境の万沢(南巨摩郡富沢町)で合戦が行われています。これに対して今川氏とは姻戚関係がある北条氏が籠坂峠を越え山中(南都留郡山中湖村)へ侵攻してきて、小山田氏や勝沼氏が敗北しています。まだまだ武田氏は、今川氏と北条氏を同時に敵に回すには力不足だったのでしょう。同年には諏訪氏と和睦しています。
翌天文5年には駿河で今川氏輝死後に発生した花倉の乱で善徳寺承芳(のちの今川義元)を支援して、玄広恵探を滅ぼした義元が家督を継いだことにより今川氏との関係は好転します。
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神橋のたもとにある石垣 |
天文6年(1537年)には長女・定恵院を義元に嫁がせ、今川氏の仲介により嫡男晴信の室に公家三条家の娘を迎え、今川氏とは和睦して甲駿同盟を結んでいます。そうそう、この調子です。一度に複数の敵を作るのは得策ではないのです。さらに北条氏とも和睦しますが、甲駿同盟は駿相同盟の破綻を招き、今川と北条は抗争状態となります。これを河東の乱と呼びます。天文9年(1540年)には今井信元を浦城(旧北巨摩郡須玉町)で降伏させています。諏訪氏とは諏訪頼満の孫諏訪頼重の時代になると、三女・禰々を頼重に嫁がせて和睦しています。
天文10年(1541年)6月14日、信虎は信濃から凱旋すると、娘婿の今川義元と会うために駿河に赴いています。しかし板垣信方、甘利虎泰ら譜代家臣の支持を受けた晴信一派によって河内路を遮られてしまい、信虎はやむなく駿河に戻り、結局、信虎は嫡男である晴信によって駿河に追放されています。信虎を追放した晴信は、武田家家督と守護職を相続します。
この追放劇の背景には諸説あり、なかなか結論は出せません。まずよく言われることとして、信虎が嫡男の晴信(信玄)を疎んじ次男の信繁を偏愛していて、ついには廃嫡を考えるようになったという親子不和説や、晴信と重臣、あるいは『甲陽軍鑑』に拠る今川義元との共謀説などがあります。また、『勝山記』などによれば、信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課し、怨嗟の声は甲斐国内に渦巻いており、信虎の追放は領民からも歓迎されたといいます。
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武田神社の鳥居 |
さて真実は何なのかですが、まずこれまでの経緯から考えて親子不和説は充分に説得力があり、某漫画もこの説に沿った記述がなされていて、まずは真実と考えても良いでしょう。しかしこの追放劇は晴信一人ではできない話であり、重臣たちの協力がなければ不可能でしょう。そこで、重臣たちの心中ですが、これまでの経緯でもわかるように度重なる戦で軍費も労役も多大な負担をかけられた上に、中央集権的な政権を目指していた信虎に対して、大きな不満と不安を抱えていたことは容易に想像できます。
信虎は、戦自体はさほど強くはなくしばしば敗れていて、領土拡張も遅々として進んでいないことと甲斐は山がちで平野が少なく、しかも農業くらいしか産業がない上に水害が発生しやすいという弱点を抱えていて国力の増大もままならなかったのです。そこで重臣たちは当主の信虎を廃して知謀と軍略に優れる嫡男の晴信を擁立することを考えていたのではないかと思います。そして晴信と重臣たちの利害が一致して、もしかすると義元にも根回しをして、信虎追放劇の幕が上がったのではないかと思われます。
ですから前述した理由はすべてそのまま事実であっても矛盾はなく、説得力もあるといえます。
さて、これで戦国最強武将とも謳われる武田晴信が、武田家第19代当主として登場します。戦国シミュレーションゲームでも常連キャラで、しかもその能力は全武将中最高という設定になっているゲームが多いのは、やはりそれだけの理由があるからです。
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武田神社の鳥居から神橋方面を見る |
さて、晴信らが当主・信虎を追放した直後、信濃国諏訪上原城主・諏訪頼重、同じく信濃林城主であり信濃国守護職の小笠原長時が甲斐国に侵攻してきますが、晴信はこれを撃退しています。・・・と言われていますが、この戦いに関しては確実な資料が残っていないので、事実かどうかは疑わしいようです。ただし、晴信が諏訪を滅ぼすつもりだったことは間違いないようです。これには理由があり、海野平合戦で追放された海野棟綱が上野の関東管領上杉憲政に支援を求めたため、上杉憲政は佐久郡へ出陣してきたのです。その際に頼重は自分が頼んで協力を仰いでいた武田氏及び村上氏に無断で憲政と単独講和して、所領を分割しているのです。晴信はこの盟約違反を理由に諏訪侵攻を行ったと言えます。まあ、諏訪頼重の行為も拙かったと言えますが、武田晴信としては信濃への入口に当たる諏訪がどうしても必要だったのでしょうね。真の理由はこんなものです。
そして天文11年(1542年)6月、晴信は諏訪領内への侵攻を開始します。折しも諏訪氏内部では諏訪頼重・高遠頼継による諏訪宗家を巡る争いが起こっていて、晴信はこれに介入して、高遠頼継と手を結んで諏訪頼重を攻め、これを捕らえて、諏訪を平定しています。そして同年7月21日、諏訪頼重、頼高兄弟は甲斐東光寺にて切腹し、諏訪宗家は滅びています。しかし晴信も妹婿を殺すとは酷いことをするものです。続いて同年10月、晴信は諏訪領の分割問題から高遠頼継と対立し、高遠軍を小淵沢で破って敗走させています。晴信は、天文12年(1543年)には、信濃国長窪城主・大井貞隆を攻めて捕らえています。天文14年(1545年)4月、上伊奈の高遠城に侵攻し、高遠頼継を降伏させています。続いて6月には福与城主・藤沢頼親も攻めて、これを降伏させています。
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石垣と風林火山の旗印 |
天文16年(1547年)、晴信は志賀城の笠原清繁を攻めています。このとき、笠原軍には上野の上杉憲政の援軍も加わったため苦戦していますが、8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝しています。ところがこのとき、晴信は小田井原で討ち取った約3,000人の敵兵の首級を城のまわりに打ち立てて城方への脅しとしています。まあ、実際には首の数はせいぜい数百だったのだろうと思いますが。しかし城兵は篭城を解かず降伏を拒否したため、武田方は総攻撃をかけて、笠原清繁始め城兵の多くが討ち死し、さらに残った女子供と奉公の男は人質・奴隷にするなど過酷な処分を下しています。
この事件が信濃国人衆に晴信への不信感を植え付け、信濃平定を大きく遅らせる遠因となったと言えます。もちろん晴信としては、信濃国人衆が幾度も裏切るので、見せしめのために、あえてこのような過酷な手段を採ったのだと思いますが、本来の晴信の考え方としては人的資源がもっとも重要という発想だったはずで、基本を外したやり方は失敗だったと言えます。
同年、分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定めています。
天文17年(1548年)2月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る村上義清と上田原で激突します。これを世に上田原の戦いと呼んでいます。しかし兵力で優勢にありながら武田軍は村上軍に敗れて宿老の板垣信方・甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失っています。晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をするほどでした。
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武田神社の境内 |
・・・と、世間では言われていますが、実は戦術的には村上軍の被害も甚大で武田軍に追撃をかけるような余力はなかったので、実際には痛み分けと言えます。ただし、戦略的には目的を果たせなかった武田方の失敗と言えます。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻してきましたが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原軍に大勝しています。この戦いでも晴信の謀略が冴えていて、小笠原軍は武田軍が接近していることに気づかず、奇襲を受けて壊滅しています。
天文19年(1550年)7月、晴信は小笠原領に大挙侵攻します。これに対して小笠原長時にはすでに抵抗する力は無く、本拠の林城を放棄して村上義清のもとへ逃走しています。こうして、中信は武田の支配下に落ちたのです。
勢いに乗った晴信は同年9月、村上義清の支城である砥石城を攻めています。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる大敗を喫し、横田高松や小山田信有らを初めとする1,000人以上の将兵を失っています。晴信がこの砥石城を攻めたのは、この城が村上氏の居城である葛尾城を防衛するための重要な支城だったからですが、あまりにも険しい城でまともに攻めるのは無理があったのです。心を攻めるは上、城を攻めるは下でした。
翌天文20年(1551年)4月には、真田幸隆の策略で砥石城が落城しています。これなどは真田軍は少数の兵で城を囲んで、密かに城内に内通者を作って、城内を分裂させたところで、城を落としています。つまり心を攻めたわけですね。
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神符授与所兼スタンプラリー設置所です |
これにより武田軍は次第に優勢となり、天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を維持することも困難になり、城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れています。こうして東信も武田家の支配下に入り、晴信は北信を除き信濃をほぼ平定したことになります。
天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎(上杉謙信)は本格的な信濃出兵を開始し、以来善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる第1次川中島の戦いが始まります。
同年5月には、村上義清が北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、八幡の戦い(現千曲市八幡地区、武水別神社付近)で勝利し、武田軍は一旦兵を引いたため、村上義清は葛尾城奪回に成功します。しかし7月には武田軍は再び北信濃に大軍で侵攻し、村上方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城を攻めます。8月には村上義清は塩田城を捨てて越後国へ逃れています。同年9月1日、今度は景虎自ら兵を率いて北信濃へ出陣します。布施の戦い(現長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(現千曲市上山田地区)を落とし、青柳城を攻めます。武田軍は、荒砥城に夜襲をしかけ、長尾軍の退路を断とうとしたため、景虎は八幡まで兵を退きます。一旦は兵を塩田城に向け直した景虎だったが、塩田城に籠もった晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして9月20日に越後国へ引き揚げています。晴信も10月17日に本拠地である甲斐国・甲府へ帰還しています。同年8月には景虎の支援を受けて大井信広が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧しています。
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宝物殿 |
第1次川中島の戦いでは、武田軍があまり積極的に戦おうとはせず、景虎の好きなようにさせていたという感が強いのですが、結果を見ると景虎としては北信国人衆が一気に武田方になびくことは防げたといえますが、領地を奪い返すことはできなかったので、本来の目的は果たせなかったといえます。一方、晴信としては別に失ったものはないが、一気に北信を席巻するとはいかなかったので、やや不満が残ったかも知れません。
晴信は信濃進出に際して敵対していた駿河今川氏と相模北条氏の和睦を進めており、天文23年(1554年)には嫡男義信の正室に今川義元の娘を迎え、甲駿同盟を強化する。また娘を北条氏康の嫡男氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。今川と北条も信玄が仲介して今川氏真に北条氏康の娘を嫁がせることになり、これにて甲相駿三国同盟が成立します。三国同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は相互に援軍を出すことで軍事同盟として機能しています。
第2次川中島の戦いは、天文24年(1555年)に行われ、犀川の戦いとも言います。この戦いでは武田晴信と長尾景虎は、200日余におよぶ長期にわたり対陣しています。
天文23年(1554年)、晴信は、長尾氏の有力家臣北条高広に反乱を起こさせています。景虎は北条高広を降すが、これにより背後にいる晴信との対立は深まったといえます。さらに天文24年・弘治元年(1555年)、信濃国善光寺の栗田鶴寿が武田方に寝返り、善光寺平の南半分が武田氏の勢力下に置かれることになり、善光寺以北の長尾方諸豪族への圧力が高まっています。
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信玄公御使用井戸 |
同年4月、景虎は善光寺奪回のため善光寺平北部に出陣しています。栗田鶴寿と武田氏の援軍兵3000は、栗田氏の旭山城(長野県長野市)に篭城します。景虎は旭山城を封じ込めるため、そして前進拠点として葛山城(長野県長野市)を築いています。
晴信も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙します。7月19日、長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけるが決着はつかず、両軍は200日余に渡り対陣することになります。兵站線の長い武田軍は、兵糧の調達に苦しんだとされます。長尾軍の中でも動揺が起こっていたらしく、景虎は諸将に忠誠を確認する誓紙を求めています。基本的にすぐに決着のつく野戦は良いのですが、城を長期間に亘って包囲するとか、敵軍と長期間対陣して睨み合うという戦い方は、兵糧を大量に必要としますし、兵農分離ができていない軍団の場合は、農繁期にかかると引き揚げざるを得なくなるのです。
閏10月15日、駿河国の今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵しています。和睦の条件として、晴信は須田氏、井上氏、島津氏など北信濃国人衆の旧領復帰を認め、旭山城を破却することになりました。これにより長尾氏の勢力は、善光寺平の北半分(犀川以北)を確保したことになります。
同年、晴信は木曽郡の木曾義康・義昌父子を降伏させ、南信濃平定を完成させています。この際に晴信の娘を木曾義昌に嫁がせて、木曾氏を親族衆として遇することで和睦しています。
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菱和殿と社務所 |
第3次川中島の戦いは、弘治3年(1557年)に行われ、上野原の戦いとも言います。武田晴信の北信濃への著しい勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣しますが、晴信は決戦を避けて決着は付かなかったといえます。
弘治2年(1556年)、越後国では上野家成と下平修理亮の領地争いをきっかけに景虎が出家隠遁を図る事件が起きています。しかし家臣団が景虎への忠誠を誓ってこれを引き止め、出家は取りやめになっています。長尾氏が内輪もめを起こしている間に、晴信は北信濃国人衆への調略を進め、同時に真田幸隆に善光寺平東部の尼巌城(長野県長野市松代)を攻めさせ、8月にこれを陥れています。更に景虎と不和になった大熊朝秀を調略し、反乱を起こさせて越後侵攻を図っています。結局、大熊朝秀の反乱は領地争いを起こしていた上野家成に敗れて失敗してしまい、大熊朝秀は甲斐国へ逃れています。
弘治3年(1557年)正月、景虎は更科八幡宮(武水別神社、長野県千曲市)に願文を捧げて、武田氏討滅を祈願しています。2月、晴信は長尾方の前進拠点であった葛山城を落とし、高梨政頼の居城飯山城に迫っています。積雪のため信越国境が封鎖されている時期であり、長尾方諸将は動揺していたようです。
4月18日、ようやく景虎は信濃へ出陣します。4月から6月にかけて北信濃の武田方の諸城を落とし、武田領深く侵攻し善光寺平奪回を図りますが武田軍は決戦を避け、景虎は飯山城(長野県飯山市)に引き揚げています。7月、景虎は尼巌城を攻めるが失敗します。一方、武田軍の支隊が安曇郡の信越国境近くの小谷城(長野県北安曇郡小谷村)を落とし、別方面から長尾軍を牽制します。
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宝物殿 |
8月29日、両軍は上野原(長野県長野市上野)で交戦するが決定的な戦いではなく、戦線は膠着します。景虎は旭山城を再興したのみで大きな戦果もなく、9月に越後国へ引き揚げています。晴信も10月には甲斐国へ帰国しています。
京では、将軍・足利義輝が三好長慶、松永久秀と対立し近江国朽木谷へ逃れる事件が起きていました。義輝は勢力回復のため景虎の上洛を熱望していて、長尾氏と武田氏の和睦を勧告する御内書を送っています。晴信は、長尾氏との和睦の条件として、義輝に信濃守護職を要求したため、義輝はこれを許し、武田氏と長尾氏の和睦が実現しました。これにより、武田氏の信濃国支配が幕府により正当化されることになったのです。
また、晴信はこの頃には出家しており、翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっています。ということで今後は「信玄」と呼びます。
永禄元年(1558年)、信玄は和睦を無視して北信濃へ出陣しています。義輝は御内書を送り和睦無視を責めるが、信玄は「信濃守護の職責を果たすため他国の侵略と戦っている」と自らの正当性を主張して、逆に景虎を責めています。一連の戦闘によって北信濃の武田氏勢力は拡大し、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地中野(善光寺平北部)を失って弱体化しています。このため、景虎は残る長尾方の北信濃国人衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになります。
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自動車清祓所 |
第4次川中島の戦いは、永禄4年(1561年)に行われ、八幡原の戦いとも言う。第1次から第5次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出しています。
一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いだが、合戦の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑』などの軍記物語しかなく、イマイチ信頼性に欠けます。そのため確実な史料が存在しないので、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎です。しかしながら、いくつかこの合戦があったことを伝える信頼性の高い史料は残っていて、この年にこの地で激戦があったことは間違いありません。
天文21年(1552年)、北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政は越後国へ逃れ、景虎に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていました。永禄2年(1559年)、景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たしています。景虎は将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許されています。永禄3年(1560年)、大義名分を得た景虎は関東へ出陣し、関東諸将の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がっています。北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城しています。永禄4年(1561年)3月、景虎は小田原城を包囲しますが、守りが堅く攻めあぐねていました。
北条氏康は、同盟者の武田信玄に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻します。信玄は川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築き、景虎の背後を脅かしています。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いて、相模国鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げています。ということで、ここからは長尾景虎を上杉政虎と呼ぶことにします。
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甲陽武能殿 |
関東制圧を目指す政虎にとって、背後の信越国境を固めることは急務でした。そのため、武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要があったのです。同年8月、政虎は越後国から信濃へ向けて出陣します。
上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残して、自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り善光寺平南部の妻女山に陣取っています。妻女山は川中島より更に南にあり、川中島の東にある海津城と相対する位置にあります。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受けて、16日に甲府を進発しています。信玄は、24日に兵2万を率いて善光寺平西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙しています。・・・というのは実は事実ではなく、実際には善光寺平南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ったといわれています。これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となっています。そのまま数日間、睨み合いが続き、武田軍は戦線膠着を避けるため、29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城しています。政虎はこの時、信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻める事もでき、海津城を落とせば戦局は有利に進めることもできたのですが、実際には海津城を攻める事は無かった。攻めなかった理由は、政虎の「義」という志が背景にあったのか、あるいは城攻めが苦手だったからなのかはわからないが、どちらにしろ、この海津城の存在が戦場で大きな意味を持つことになります。実際には敵の後詰めがすぐ近くにあるのに城を包囲して攻めようとするのは、背後を突かれてたいへん危険なので、城を攻めるのはリスクが大きいと考えたのでしょう。
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大手口の土塁 |
更に睨み合いが続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張します。政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助と馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じています。山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける、大規模な別働隊の編成を献策しました。この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉軍が勝っても負けても山を下るから、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた。信玄の軍師として知名度の高い山本勘助だが、一般的なイメージは江戸期以降の創作物によるものです。江戸期に広く読まれていた『甲陽軍鑑』でも、勘助について軍師という表現は用いていません。
戦後に発見された『市河文書』では勘助が伝令将校的な武士だったとも取れる記述がありますが、有力な支配下豪族や他国の領主との外交においては、有力家臣を「取り次ぎ役」とすることは当時としては一般的であり、勘助が単なる伝令とするのは事実誤認との指摘もあります。というか、あの文書では子細は勘助に聞いてくれとあり、勘助が手紙に書けない重要機密を知らされる立場だった事から、かなりの重臣であると考えるのが当然で、単なる伝令と考える方がどうかしています。山本勘助の評価はいまだ定まっていないのですが、武田家内においてしかるべき地位にあったことは、確かなようです。まあ、信長の野望シリーズを始めとするパソコンゲームでは極めて高い能力の持ち主として設定されているようです。これまでにもずいぶんお世話になりました。
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大手口の土塁には石積みも見られます |
9月9日深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣しています。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知します。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡っています。これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」の場面です。政虎は、甘粕景持に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えています。政虎自身はこの間に、八幡原に布陣しました。しかし、このあたりの記述も事実かどうか・・・。
ただ、一つ言えることは、別働隊に本当に12000もの大軍を率いさせたというのは、事実とすれば失敗でした。元々、越後勢を妻女山からあぶり出すのが目的なので、別働隊はもっと少なくとも良く、本隊とその後詰めに兵力を割く方が理にかなっています。
10日午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は愕然としました。政虎は、猛将・柿崎景家を先鋒に、車懸りの陣で武田軍に襲いかかってきます。この車懸りの陣と言われる陣形も実際に戦場で採用するのはかなり無理がありそうなのですが・・・。つまり隊列が長くなるので、側面を突かれるとバラバラになりそうで、たいへん怖いと思うのですが。いずれにしろ武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣を敷いて応戦したものの、信玄の弟の信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死するなど、劣勢となっていました。いったいどれほどの被害が出ていたのか・・・。想像もできないくらいでしょう。
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大手口南側の水堀 |
乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけます。放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた政虎は床机に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は軍配をもってこれを凌ぐが肩先を負傷し、信玄の供回りが駆けつけたため惜しくも討ちもらしています。頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じています。川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信(政虎)が行人包みの僧体に描かれているが、実際には政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570年)のことです。信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、もちろん史実とは考えられていません。ただし、盟友関係にあった関白・近衛前久に宛てて、合戦後に政虎が送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられていて、激戦であったことは確かとされます。もっとも普通に考えれば総大将の政虎が自ら太刀を振るったというのでは、戦は負けということになります。
一方、政虎に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行します。武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘粕景持隊を蹴散らし、昼前(午前12時頃)には八幡原に到着しました。予定よりかなり遅れはしましたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃になお耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となります。形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に退き、信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わったのです。上杉軍は川中島北の善光寺に配置していた兵3000と合流して、越後国に引き上げています。
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大手口北側の空堀 |
この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した激戦となっています。
信玄は、八幡原で勝鬨を上げさせて引き上げ、政虎も首実検を行った上で越後へ帰還しています。
『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としています。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張しているのですが、ただ、武田軍は最高幹部級の副将武田信繁・諸角虎定が戦死しているのに対し、上杉軍の幹部に戦死者がいない(上杉軍では荒川長実・志田義時などが討ち取られています。)ため、戦術的には上杉軍優勢で終わったとの見方もできます。特に副将信繁の戦死は武田方のその後に影を落としています。
しかし上杉側の被害も甚大であり、直後の関東出兵では北条勢を相手に思うような戦いが出来ずに苦戦をしています。私見では、上杉軍本隊が朝からの戦いで疲れているところをほとんど無傷の武田別働隊に側面をつかれたとすれば、下手をすれば全滅してもおかしくないので、実際の上杉軍の被害は3000どころではなかったのではないかと考えています。おそらくは多数が戦死し、生き残ったものも無傷のものはほとんどいないほどの被害を受けていたかも知れません。その後の上杉軍の軍事行動を見ても北条氏を相手に苦戦を続けていて、さっぱりだったので、この戦いの被害が大き過ぎたのではないかと思われます。しかし武田軍も幹部級の武将を多数失っていて、信玄を守るために犠牲になったのだと思われます。死傷者も多数に上っているでしょうが、敗走していない武田軍にそれだけの被害があったということ自体が不思議です。(野戦で幹部級の武将が戦死するのは敗走時が多い。)
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大手門跡 |
いずれにせよ、明確な勝敗がついた合戦ではなかったといえます。
この合戦に対する政虎の感状が3通残っており、これをいわゆる「血染めの感状」と呼んています。
戦術的にはまあ、痛み分けということになるでしょうが、戦略的には武田氏が元々の目的であった川中島周辺の支配権を獲得しているのに対して、上杉氏は、武田軍が越後に侵入する事は防げたものの、北信国人衆が失った領地を取り戻すことはできず、最低限の戦略目的のみを果たすことができただけだったので、大局的には武田氏に軍配が上がると言えます。
さて、永禄4年(1561年)12月には、上杉政虎は輝虎と改名しているので、ここからは輝虎と呼ぶことにします。
上杉輝虎は、関東へ連年出兵して北条氏康との戦いを続けていたのですが、武田信玄は常に輝虎の背後を脅かしていました。輝虎の信玄への憎悪は凄まじく、居城であった春日山城(新潟県上越市)内の看経所と弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)に、「武田信玄悪行之事」と題する願文を奉納し、そこで信玄を口を極めて罵り、必ず退治すると誓っているほどです。
第4次川中島合戦を契機に武田氏の信濃侵攻は一段落し、以後は西上野出兵を開始しており、この頃から対外方針が変化しはじめています。永禄7年(1564年)にも上杉軍と川中島で対峙したが、衝突することなく終わっています(第5次川中島の戦い)。
最終戦である第5次川中島の戦いは、塩崎の対陣とも言われています。この戦いでは上杉輝虎が川中島に出陣しますが、武田信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣し、にらみ合いで終わっています。
この戦いの発端は
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復元された大手石塁 |
永禄7年(1564年)、飛騨国の三木良頼と江馬時盛の争いに、信玄が江馬氏を、輝虎が三木氏を支援して介入したことによります。8月、輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣しました。信玄は善光寺平南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣します。10月になって、両軍は撤退して対陣は終わっています。以後、信玄は東海道や美濃、上野方面に向かって勢力を拡大し、輝虎は関東出兵に力を注ぐようになったため、川中島で大きな戦いが行われることはなかったのです。
一連の戦いの後も北信濃の支配権は武田氏が握っていたため、戦略的には武田氏の勝ちといえます。
川中島の戦いの後、信玄は侵攻の矛先を上野に向けたのですが、上杉旧臣である箕輪城主・長野業正が善戦した為、捗々しい結果は得られなかった。しかし、業正が永禄4年(1561年)に死去すると、武田軍は後を継いだ長野業盛を激しく攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を制圧することに成功しています。
永禄3年(1560年)5月、武田氏の盟友であった今川義元が、織田信長によって桶狭間の戦いで討たれたことにより、今川家が衰退の兆しを見せ始めます。義元の跡を継いだ今川氏真は、一般に見られるような暗愚というよりも実際には猜疑心が強い人物で、重臣たちを疑い謀殺するような事を何度か行っていて、人心を失ってしまいます。今川氏が衰退するけっかけとなった第一の理由は松平氏(徳川氏)の離反でした。三河国は元々は松平氏の領地でしたが、当主の松平広忠が暗殺され、その子元康が織田氏の人質となり、今川氏との人質交換で今度は今川氏の人質となってしまい、三河国は今川氏の植民地のようになっていました。それが桶狭間の戦いの際に松平元康が岡崎城に居座ってしまい、今川氏と断交し織田氏と同盟する動きを見せたために三河国の諸豪も松平氏になびくようになり、今川氏は三河国を失ってしまうことになります。
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大手東側の曲輪と土塁 |
また、遠江国も国人衆の動揺が起こり、国内が混乱します。氏真はこれを抑えるために、いろいろな手を尽くしてはいるのですが、効果がなく、衰退は止めようがなくなっていました。このため、信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河に侵攻することを計画しますが、義元の女婿である嫡男・武田義信とその傅役・飯富虎昌がこれに激しく反対します。信玄は永禄8年(1565年)8月15日に飯富虎昌を切腹させています。この際に穴山信君の弟、信邦も連座して切腹しているなど、武田氏家中も親今川派の動揺が起こっていたようです。信玄としては、今川氏を滅ぼし、南に進んで海につながることのメリットを重視したのでしょうが、嫡男との対立はまさに自分が以前に体験したことの裏返しであり、因果応報とも言える結末となっています。
永禄8年(1565年)10月には義信を廃嫡し、東光寺に幽閉して永禄10年(1567年)10月19日には自殺に追い込んだといわれていますが、病死説もあります。
信玄は、永禄11年(1568年)12月6日に三河の徳川家康と共同で駿河侵攻を開始します。密約により武田氏は駿河、徳川氏は遠江と今川領を分割することとなっていました。今川軍も抵抗しますが、松野山で荻清誉を、薩垂山で今川氏真軍を破り、12月13日には早くも武田軍は今川館へ入っています。今川氏真は、遠江の掛川城に逃れていますが、この掛川城も12月27日には徳川軍に包囲されて、猛攻を受けています。しかし今川氏真は頑強に抵抗して、徳川軍は大きな被害を受けています。
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復元された惣堀跡 |
一方、今川氏と縁戚関係にあった北条氏政は、翌年1月には今川氏の援軍に駆けつけ、大軍をもって薩垂山を封鎖します。両軍は睨み合いとなっていますが、輸送部隊を襲われたことにより物資が不足し、甲駿国境に位置する大宮城での苦戦、さらに駿河征服を企む家康も北条氏と同盟を結んで信玄と敵対したため、北条・徳川連合軍と戦う不利を悟った信玄は、永禄12年(1569年)4月には横山城に穴山信君を抑えに残し、武田軍本隊はひとまず甲斐に撤退しています。
5月17日には徳川軍が掛川城に籠城している今川氏真を北条氏との協定により開城させています。氏真は、北条氏の庇護の元で駿河の支配権を取り戻すという約束でとりあえず北条氏の元に逃れています。しかしこの約束は結局は果されることはなく、戦国大名としての今川氏は、この時点で滅亡したといえるでしょう。
同年9月、信玄は2万の大軍を率いて、北条を叩くべく上野・武蔵・相模に侵攻します。同年10月1日には小田原城を包囲するが、その4日後の10月5日には早くも包囲を解いて撤退を開始します。北条は北条氏照・北条氏邦等を武田軍の甲斐への退却路に布陣させ、小田原からは北条氏政らが出陣し挟撃する構えを取っています。10月8日、三増峠において武田軍と北条氏照・氏邦軍が激突します。序盤は北条軍優位であったが、山県昌景の高所からの奇襲が成功し戦局は一変、北条本隊が到着する前に敵陣を突破し窮地を脱しています。これを三増峠の戦いと呼びます。この戦いでの北条軍の被害は甚大であり、後詰めの北条軍が追撃を断念したというのも被害が大きかったことと、氏政が信玄を恐れたためでしょう。
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大手東側の北側土橋 |
北条軍はこの合戦で受けた損害を埋めるために駿河から軍勢を呼び戻したという説もあるくらいです。この時の被害を考えれば当然とも言えます。
この戦いの見かけ上の目的は小田原攻撃ですが、信玄は実際には小田原城を落とせるとは考えていなかったはずで、信玄の真の目的は城を攻めるにあらず、心を攻めることにあったのでしょう。つまり北条氏が武田軍恐るべしと考えてくれれば良いということで、上杉氏は頼りにならない、武田氏と結んだ方が得と思わせて、北条氏に上杉氏との同盟を破棄して武田氏と同盟を結ばせるようにするのが今回の作戦の目的だったのでしょう。だから三増峠の戦い自体は本来の目的からすれば逸脱した戦いであり、高坂昌信が無用の戦いだと言っているのも、戦略目的からは外れているばかりでなく、下手をすると挟撃され全滅する危険性すらあったからでしょう。この合戦の頃から、北条氏康は病を得ていたようで、北条家は本国の防衛に重きを置くこととなっています。越相同盟が完全に機能せず、武田と佐竹、里見の同盟が成立し、関東の防備に不安を覚えたこともその理由とされます。こうして北条軍の駿河守備は手薄となっています。武田軍は同年12月、満を持して再び駿府を占領し、北条の守備隊を撃破し、元亀元年(1570年)7月には駿河を完全に平定するに至ります。
永禄11年(1568年)9月には、織田信長が将軍足利義昭を奉じて上洛を果たしています。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄に信長討伐の御内書を発送します。信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、元亀2年(1571年)2月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行います。信玄は同年5月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたうえで、甲斐に帰還しています。
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大手東側の南側土橋 |
元亀2年(1571年)10月3日、かねてより病に臥していた北条氏康が小田原で死去し、後を継いだ嫡男の氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠、北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を結んでいます。この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達しています。
永禄8年(1565年)、信玄と信長は東美濃の国人領主・遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田勝頼に嫁がせることで同盟を結んでいます。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立していて、徳川氏とは軍事的衝突を行いながらも織田氏と武田氏は引き続き同盟関係にあったといえます。まあ、狐と狸の化かし合いというところでしょう。
元亀2年(1571年)、織田信長による比叡山焼き討ちにより天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)が甲斐に亡命しています。信玄は法親王を甲斐で保護し、座主の計らいにより権僧正の僧位を与えられています。
元亀3年(1572年)10月3日、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて、上洛するために甲府を進発しています(ただし、信玄は信長に友好的な書状を送り続けるなど、なおも同盟を続行させるかのような行動を見せている)。約3万の全軍のうち、3千を秋山信友に預けて信長の領土・東美濃に、山県昌景に5千を預けて家康の領土・三河に、そして自らは馬場信春と共に2万の大軍を率いて青崩峠より遠江に攻め入っています(これに北条氏の援軍2000も加わり、総勢は2万2000とされる)。
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復元された惣堀跡南側 |
信玄率いる本隊は10月13日、只来城、天方城、一宮城、飯田城、各和城、向笠城などの徳川諸城を1日で落としています。山県昌景軍は柿本城、井平城(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流し、秋山信友軍は11月までに東美濃の要衝である岩村城を落としています。これに対して、信長は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺一向宗徒などと対峙していたため、家康に3千人の援軍を送る程度に止まっています。
家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦っていますが、兵力の差と信玄の巧みな戦術に敗れています。
これを一言坂の戦いと呼んでいますが、徳川軍も素早く退却して大きな被害は受けずにすんでいます。
12月19日には、武田軍が遠江の要衝である二俣城を陥落させています。武田軍は二俣城の水の手を奪い、開城させています。
この二俣城の戦いで、徳川方は遠江北部を武田方に奪われ、本拠の浜松城まで危なくなるなど、危機的状況に追い込まれています。劣勢に追い込まれた家康は浜松城に籠城の構えを見せていますが、浜松城を攻囲せず西上しようとする武田軍の動きを見て兵1万1,000を率いて出陣し、遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と一大決戦を挑んでいます。しかし、家康出陣を完全に読みきった信玄の戦略(祝田返し)と、兵力・戦術の差に大敗を喫し、徳川軍は多くの将兵を失い敗走しています。織田方の援軍も壊滅し、平手汎秀は戦死しています。徳川軍の救いは、戦闘開始時刻が遅かったために敗走時には暗くなっていて、闇にまぎれて退却できたことで、全滅することは防げたと言えますが、死傷者は2000人にも達していて、大打撃を受けたことは間違いありません。
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復元された惣堀跡北側 |
家康としては、野戦でこれだけの打撃を受けたのは、後にも先にもこの時だけです。この戦いを三方ヶ原の戦いと呼び、家康大敗の戦いとして有名です。
しかしここで信玄は、盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知ります。義景は織田軍が近江から岐阜に撤退するのを見て、自分も越前に引き揚げたのですが、既にこの時点では朝倉軍は対陣を続けるのも織田軍を追撃するのも困難な状況だったと思われ、義景を責めるのは酷だと思われます。たび重なる戦闘で朝倉軍は疲弊し、財政的にも困窮していた上に、積雪にも悩まされていたようです。
信玄は義景に伊能文書を送りつけて、再度の出兵を求めたものの、義景はその後も動こうとはしなかったのです。財政的にも逼迫していたことと、他の朝倉一族の諸将が動かなかったからでしょう。
信玄は軍勢の動きを止め刑部において越年したが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落としています(野田城の戦い)。ここでも武田軍は城の水の手を切って開城に追い込んでいます。城を攻めるにも決して力攻めはせず、水の手を切るという確実な方法を採っています。
信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈するなど持病が悪化し、武田軍は進撃を中止します。信玄は長篠城に入ってしばらく療養していましたが、病状は一向に良くならず、近習・一門衆の合議にて同年4月初旬には遂に甲斐に撤退することと決定しました。しかし時既に遅く、同年4月12日に軍を甲斐に引き返す三河街道上で信玄は死去します、享年53。臨終の地点は小山田信茂宛御宿堅物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)とされていますが、浪合や根羽とする説もあります。戒名は法性院機山信玄。菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。
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復元された惣堀跡北側 |
辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。
『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌豊らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したといわれています。
信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿しています。駒場の長岳寺や甲府岩窪の魔縁塚を信玄の火葬地とする伝承があり、甲府の円光院では安永8年(1779年)に甲府代官により発掘が行われて信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録があります。このことから死の直後に火葬して遺骸を保管していたということも考えられます。
いずれにせよ信玄の死を完全に秘匿するなどできるわけもなく、他国にはすぐに知られてしまったのです。
信玄の跡を継いだのは信玄の四男であった武田勝頼です。甲斐武田家第20代当主であり、武田宗家の最後の当主でもあります。
信玄の死により、織田信長、徳川家康らは窮地を脱しています。そして信長は信長包囲網の黒幕である室町幕府第15代将軍・足利義昭を河内国に追放し、これにより室町幕府は滅亡しています。同年の天正への改元後、さらに越前国や近江国に攻め入って浅井長政、朝倉義景を滅ぼしています。朝倉義景は、刀根坂の戦いに破れ一乗谷へ敗走したものの、8月20日早朝に六松賢松寺にて朝倉景鏡に襲撃され、自刃しています。享年41。
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本曲輪北側の空堀 |
浅井長政は小谷城を包囲され同年9月1日に自刃しています。享年29。
また家康も武田氏に従っていた三河山間部の山家三方衆の一つ奥平貞能・貞昌親子を寝返らせるなど、信玄存命中は守勢一方であった織田・徳川連合軍の逆襲が始まっています。1573年(天正元年)8月には、長篠城が徳川軍によって陥落し、家康はこの城に奥平貞昌を入れています。これに対して勝頼は、父以上の勢力拡大を目指して積極的な外征を実施することになります。
天正2年(1574年)2月、勝頼は東美濃の織田領に侵攻し、明智城を落としています。信長は嫡男・織田信忠と共に明智城の後詰に出陣しようとしたが、それより前に勝頼が明智城を落としたため、信長は岐阜に撤退しています。
同年6月、武田軍は遠江国の徳川領に侵入し、信玄が落とせなかった堅城・高天神城を陥落させて城将・小笠原長忠を降し、東遠江をほぼ平定しています。
天正3年(1575年)、勝頼は前年に徳川家康に寝返った奥平親子を討伐するために兵1万5,000(一説には8,000から1万)を率いて三河国へ侵入し、5月には奥平信昌(貞昌)が立て籠もる長篠城への攻撃を開始します。しかし、奥平勢が善戦する長篠城は武田軍の猛攻を支え、長篠城攻略に予想外の時間を費やしています。徳川方が城を大幅に拡張・強化していたのが功を奏したのでしょう。
そして、織田信長・徳川家康の連合軍およそ3万8,000(一説には織田軍1万2,000。徳川軍4,000とも言われていますが、たぶんこんなものなのでは)が長篠(設楽ヶ原)に到着します。
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御隠居曲輪跡 |
織田・徳川軍は、馬防柵を含む陣城の構築を開始しています。これに対し、勝頼は長篠城の抑えに兵3,000を残し、主力1万2,000(一説に兵6,000)を率いて設楽ヶ原へ進出し、織田・徳川連合軍と対峙します。当時、甲州兵は強兵といわれ、また長篠決戦前日の小規模な戦闘で勝利していたこともあり、武田軍の士気は旺盛でした。しかし、織田方は馬防柵やら空堀を築いていたので、もはや野戦というより、むしろ攻城戦に近い状況であったため、信玄以来の重鎮たちは撤退を進言したといいます。しかし、勝頼は織田・徳川との決戦を選択し、5月21日早朝に開戦することとなったのです。
このあたり佐久間信盛が偽りの内応を約していたという謀略が噂されていますが、実際のところは不明です。あるいは武田方の間者を逆用したという説もあります。しかし武田氏の軍制から考えると、勝頼一人が開戦を主張しても他の重臣たちが一致して反対すれば、開戦するのは難しいと思うのですが。また、勝頼を始めとする武田方の武将たちが織田方の備えに気がつかないわけはないので、どうも謀略説はけっこう説得力があります。某漫画では、佐久間信盛の偽降と間者の逆用説を採っていました。
信長は、長篠城の監視部隊と鳶ノ巣砦守備隊を攻撃するための別働隊を送り、21日の早朝には別働隊が武田軍の後衛を襲っています。同じ頃、武田軍本隊は、織田軍本陣に攻撃を開始しています。午前6時頃から午後2時頃まで戦闘は続けられていますが、数で劣りながら勇敢に攻めかかる武田軍は、連合軍防御陣の餌食となった土屋昌次が戦死しています。
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空堀のある北側から本曲輪を見る |
攻めの勢いを喪失したその後、武田軍は総崩れとなり、敗走する中で馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟などの有能な将士を次々と失ってしまいます。また、本戦に先立つ鳶ノ巣砦の攻防戦では、主将の河窪信実、三枝守友が戦死、長篠城監視部隊が退却中の長篠城近辺の戦闘で高坂昌澄が戦死しています。
この敗北で、武田軍は1万人以上もの死傷者を出したといわれています。勝頼自身の退却も、一説によれば僅か数騎に護られただけという惨めなものであったといわれています。・・・となっていますが、同時に織田・徳川軍も6千人もの死傷者を出したと言われていて、武田軍が一方的に敗れたというわけでもないようです。ただし、両軍の実際の戦力は、この何分の1かで、被害も同様であろうと思います。一説には武田家1,000、織田徳川連合軍600の損害だったと言われていますが、たぶんこちらの方が正しいのでしょう。そもそも設楽ヶ原はそんな大軍が展開できるほどの広さはないのです。
しかし武田軍にとっては多数の有能な武将を失っているので大打撃であることは間違いありません。
長篠の戦いで敗北を喫し多くの有力武将を失い領国の動揺をも招いた武田氏に対して、織田信長・徳川家康の反攻は更に積極的になります。長篠の合戦後、三河の武田方拠点が失われて締め出され、信長の嫡男・信忠を総大将とした織田軍によって東美濃の岩村城が陥落させられて、城将である秋山信友は処刑されています。遠江国でも、家康によって二俣城が開城し、城主依田信蕃は城から退去しています。
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本曲輪北側の空堀はかなり深いものです |
れに対して勝頼は武田領国の再建及び家臣団の再編成を目指すためには時間が必要と考えて、まずは外交策によって体勢を立て直そうとしました。まず天正5年(1577年)には信玄の宿敵であった上杉謙信と同盟を結んでいます。また同年、甲相同盟を強化するため、北条氏政の妹を継室として迎えています。これにより武田氏も立ち直りを見せるのですが・・・。
翌天正6年(1578年)3月13日、越後で上杉謙信が病死します。その直後から謙信の二人の養子である上杉景虎(北条三郎)と上杉景勝(謙信の甥)との間で家督を巡り御館の乱が勃発します。勝頼は北条氏政の弟(遠縁との説もある)であり北条から上杉に養子として出されていた景虎の支援を要請されて越後へ出兵しています。5月29日には武田軍は越後に入りますが、この時の武田軍は2万もの大軍を送っています。景虎方も善戦していて、このままだと北条軍も侵攻してくるのは時間の問題だったので、景勝方にとっては、ここで武田軍に攻められては万に一つの勝ち目もありません。そこで景勝は武田軍の先鋒だった武田信豊に和議を申し入れています。つまり勝頼の妹を嫁にもらう代わりに一万両の結納金と上野沼田の領地を譲り、今後は同盟を結ぶという提案でした。信豊はあまりに話がうますぎるとして、勝頼に判断を仰いでいます。武田方ではこの件についていろいろと協議した結果、景勝の申し出を受けることにしたのです。
まず景虎方からは武田氏に逆に領地を譲るように言ってきたことと、徳川軍の動きが活発となり、遠江の諸城から援軍を求めてきていること、北条氏政の動きが遅いことなどから、ここは景勝に味方した方が良いという判断をしたわけです。そこで勝頼は、妹の菊姫を景勝に輿入れさせ、景勝の支持にまわったのです。
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西曲輪 |
武田家が景勝と和睦し越後を去った結果、戦いは景勝が勝ち、景虎は翌天正7年(1579年)3月24日に自害しています。甲越同盟の成立は東上野において沼田領が獲得できたものの、同時に甲相同盟の解消を招いたため、勝頼は西の織田と対決すると同時に北条対策が必要になり、常陸国の佐竹氏との連携をはかっています(甲佐同盟)。また、駿河では徳川と北条の挟撃を受ける事態に陥っていて、防戦一方となっています。しかしこの時点では勝頼には他に選択肢はなかったと思います。
天正9年(1581年)、徳川軍の攻撃によって高天神城は窮地に陥ることになりますが、もはや勝頼には後詰することが出来なかった。つまり上杉景勝との同盟により、北条氏との同盟が破棄されることになり、駿河の防衛のためには遠江に援軍を送る余裕がなかったのです。高天神城城主・岡部元信は城を包囲され最後には徳川軍に突撃して戦死しています。生きて帰ったのは、軍監・横田尹松のみであったと言われています。横田尹松は「犬戻り猿戻り」といわれる険阻な尾根道を夜間脱出に成功して躑躅ヶ崎館に帰還しています。高天神城落城は武田家の威信を大きく下げることとなり、国人衆は大きく動揺しました。
これを境に織田・徳川からの調略が激しくなり、日頃から不仲な一門衆や日和見の国人の造反も始まることになります。
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西曲輪へ入る土橋 |
勝頼は、近い将来攻め込んでくるであろう織田・徳川連合軍への備えのため、躑躅ヶ崎館より強固な韮崎の七里岩台地上に新府城を築城して防備を固めるとともに、武田軍団の再編成を目指しています。しかし、そのために膨大な軍資金を支配下の国人衆に課すことになり、皮肉にもかえって国人衆の造反を招く結果となり、滅亡を早めたと言えるでしょう。
なお国人衆の反発は勝頼の中央集権化を目指した政策に原因があるとする意見もあります。いずれももっともな意見です。
私見を言わせてもらうと、まず新府城を築くための資金が膨大なものであり、これを調達するにも既に金山は枯渇していて、国人衆に過大な負担をかけることになったことが、木曾義昌の裏切劇の直接原因となったと言えます。
武田氏にとっては結局のところ金山の枯渇が滅亡の遠因となっていて、金の切れ目が縁の切れ目だったというところでしょうか。
武田氏としては織田軍が攻め込んでこようにも、木曾の地が西の防壁となっているから無事なのであって、木曾が寝返ることは直ちに武田氏の滅亡を意味するのですから、木曾家が謀反をおこすような過大な負担をかけるのはいかにも拙かったのです。
天正9年(1581年)12月24日に武田勝頼は躑躅ヶ崎館から新府城に移転し、躑躅ヶ崎館は事実上廃城となります。
天正10年(1582年)2月には木曾義昌が織田氏に寝返ったためその謀反を鎮圧するため諏訪へ出兵しますが、雪と寒気に苦しめられ、さらに織田・徳川連合軍に阻まれて帰国しています。
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西曲輪の石塁 |
さらに穴山信君が家康に内通したことで、家臣団は大きく動揺し、逃亡するものが多数出て、武田軍は組織的な抵抗ができるような状態ではなくなります。織田軍はさらに甲斐国へ進軍してきたため、勝頼は3月には小山田信茂の岩殿城に移るために、新府城に火をかけます。新府城は、この時点でまだ完成していなかったため、籠城できるような状態ではなかったようです。
そして勝頼は岩殿城に向かう途中に笹子峠(大月市)で信茂の謀反にあい、天目山(甲州市)へ追い詰められ、そこで滝川一益の軍と戦い、勝頼、信勝親子は自害し、武田一族は滅亡します。
武田氏滅亡後、甲斐一国を与えられ入府した織田氏家臣の川尻秀隆は躑躅ヶ崎館で政務をとったとされますが、まもなく本能寺の変が勃発し、その後の混乱の中、武田氏旧臣が起こした一揆に襲われて落命します。
その後に入府した徳川家康によって改めて甲斐支配の主城とされ、館域は拡張されて天守も築かれたとされていますが、詳細は不明です。そもそも本当に天守があったのか疑問ですが。
1590年(天正18年)に徳川家臣の平岩親吉によって甲府城が築城されると、躑躅ヶ崎館は廃城とされています。以降、甲府は甲府城を中心とした広域城下町として発展しています。
2006年(平成18年)4月6日、「武田氏館」として日本100名城(24番)に選定されています。
同じ市内にある甲府城に比べると、人出は圧倒的に多いようで、武田信玄の人気は衰えていないようです。
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西曲輪の土塁 |
西曲輪 |
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西曲輪はまるで山城のような様子です |
西曲輪はかなりの広さがあります |
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西曲輪と本曲輪の間の水堀 |
西曲輪と本曲輪の間の空堀 |
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西曲輪と本曲輪を結ぶ土橋 |
本曲輪を囲む土塁 |
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本曲輪を囲む石塁 |
西曲輪を囲む土塁 |
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西曲輪を囲む水堀 |
みその橋から見た水堀 |
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みその橋 |
みその橋から見た水堀 |
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水琴窟 |
姫の井戸 |
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甲陽武能殿 |
菱和殿 |
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高坂弾正昌信屋敷跡 |
穴山信君屋敷跡 |
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