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大聖寺城跡の入り口に説明板がありました |
大聖寺城は、石川県加賀市大聖寺錦町にある平山城です。
城域は現在では錦城山公園となっていて、加賀市指定史跡に指定されています。また麓にある長流亭は国指定文化財に指定されています。
この城は標高70m程の錦城山(古城山)にあり、本丸を中心として、尾根上に北の丸、二の丸、西の丸、鐘ヶ丸、東丸の6つの郭が北から連なる連郭式城郭でとなっています。谷を挟んだ両側の尾根筋にも郭群があり全体的には環郭式に近い構造を取っています。本丸と鐘ヶ丸には腰郭、土塁、空堀などが設けられています。本丸には櫓台跡が残っています。
また、鐘ヶ丸は東西約100m・南北約45mにおよぶ台形になっていて、大聖寺城では最大の広さを持つ郭であり、西・南側には長さ約70m、高さ3~4m、幅約3mもの巨大な土塁が残っています。本丸と鐘ヶ丸の土塁は曲輪の周囲を守る土塁としては極めて巨大なもので、こんな大きい土塁は滅多にありません。
この城の歴史は古く、鎌倉時代に在地豪族であった狩野氏によって築かれて、その居城となったと考えられています。もっとも詳細は不明です。
鎌倉幕府が後醍醐天皇によって滅ぼされた直後の建武2年(1335年)に執権北条氏の一族である北条時行が蜂起した中先代の乱に呼応した名越時兼が南下してきた際は、加賀国の国人であった狩野一党の各氏が大聖寺城でこれを迎撃して、名越時兼は大聖寺にて敗死しています。ということは、既にここには城があったことになります。
建武4年(1337年)には、新田義貞に荷担した敷地伊豆守、山岸新左衛門らが津葉清文の守る大聖寺城を攻略したと伝えられています。既にこの頃は、前年には湊川の戦いで楠木正成を失い、新田義貞は北陸方面に逃れて足利軍と戦っていましたが、越前金ヶ崎城を失い、義貞の子義顕と、尊良親王を失い、恒良親王も捕らわれるなど苦しい戦いを続けていたころです。
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大聖寺城跡の入り口 |
翌年には、越前国藤島の戦いで義貞が敗死し、南朝方の北陸勢は壊滅してしまいます。
その後、狩野氏は加賀国守護の富樫氏に従っていたと思われますが、富樫政親が一向一揆勢に敗れて加賀国の自治が成立した長享2年(1488年)頃には既に狩野氏の名前は歴史上から姿を消しています。
と思いきや、実は狩野氏は越中に逃れていたようで、飯久保城を築いて、越中国氷見の領主となっています。
加賀国が一向一揆衆の支配となってからは、この大聖寺城が南加賀一向一揆衆の重要拠点となっています。
ところが弘治元年(1555)に越前から侵入した朝倉宗滴は天文24年7月23日(1555年8月20日)に大聖寺城、南郷城・千束城を攻略しています。朝倉軍は大聖寺城を逆に一向一揆衆討伐の拠点として加賀一向一揆と対峙しています。
永禄10年(1567年)に越前国本庄の堀江景忠が一向一揆とともに朝倉義景に反乱した際、足利義昭の斡旋により、12月15日に一揆方の2城とともに朝倉方の黒谷城、檜屋城、大聖寺の3城を焼払って和議が成立し、堀江景忠は能登に亡命しています。
つまりこの時点でいったん、大聖寺城が廃城となったわけです。
天正元年(1573年)には織田信長が朝倉義景を滅ぼして越前を平定し、織田家の勢力が天正3年(1575)ごろには加賀南部にも及ぶようになり、織田軍が江沼郡・能美郡を占領すると、信長は柴田勝家に命じて日谷城と大聖寺城を修復させて、梁田広正、堀江景忠を城主として加賀討伐の拠点となっています。堀江景忠がまた舞い戻ってきたのですね。実は堀江景忠は、越前一向一揆が蜂起したときに杉津砦の守将となっていたのですが、一向一揆を裏切ったため、一揆勢は壊滅しています。
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ここで贋金を造っていたわけですか・・・ |
この頃は、大聖寺城周辺では一向一揆勢が根強い抵抗を続けていて、しばしば大聖寺城も攻撃を受けていたため、翌年には討伐軍の主体が広正から織田家随一の猛将柴田勝家に代わっています。その際に、佐久間盛政が大聖寺城主となっています。佐久間盛政は勝家の甥でこれも猛将と謳われた武将です。勝家は天正5年(1577年)にかけて大聖寺城の修復とともに兵力を増強し、上杉氏の南下に備えていますが、天正5年9月23日(1577年11月3日)に能登七尾城攻略の余勢を駆って南下した上杉謙信と手取川で戦って大敗し、大聖寺城まで奪われています。
しかし謙信の死後、織田軍は再び加賀に侵攻し、天正8年(1580年)になってようやく加賀を平定しています。勝家は、この際に拝郷家嘉を大聖寺城主にしています。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の合戦で勝家が敗れた後は、越前北ノ庄の丹羽長秀の与力となった溝口秀勝が大聖寺城に4万4千石で封じられています。天正13年(1585年)に丹羽長秀が没し、跡を継いだ丹羽長重が若狭1国に減封された後の江沼郡と能美郡の新領主・堀秀政の与力となっています。
その後、慶長3年(1598年)に堀秀政の子・堀秀治が加増移封され春日山城に移ると、あわせて秀勝も新発田藩に転封されて大聖寺を去り、この後釜に同年に小早川秀秋が江沼郡の領主となり、家臣の山口宗永を大聖寺城に6万3千石で置いています。翌年に秀秋は再び筑前名島へ転封されたが(というより越前への転封が取り消された)、宗永は当地に残って秀吉の直臣となっています。どうも山口宗永は秀秋とは馬が合わなかったらしいですが。これが彼の運命を決めてしまいます。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで山口宗永は西軍についたため、東軍の前田利長に大聖寺城を攻められて同年8月3日に大聖寺城は落城し、山口宗永は自刃しています。
その後は前田家の家臣が城代を務めていますが、元和元年(1615年)の一国一城令のため廃城となっています。
寛永16年(1639年)には前田利治が7万石を分けられて大聖寺藩を立てていますが、大聖寺城が再建されることはなく、跡地に藩庁として大聖寺陣屋を設けています。
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長流亭 |
なお、城の麓に今も佇む長流亭は、宝永6年(1709年)に大聖寺藩3代藩主・前田利直により藩主の別邸として建てられたもので、あの小堀遠州が設計したと伝えられています。数寄屋風の茶室は、透かし彫りが見事な帯棧や花菱七宝模様の彩色は,華やかな元禄時代を今に伝えています。現在、国重要文化財に指定されています。
それともう一つ、城の登城口付近に洞窟があって、何の洞窟かと思ったら何と贋金造りの洞窟だとのことでした。
明治維新の際に新政府軍から越後戦争に使用する弾薬の提供を求められた大聖寺藩がその軍資金を調達するためここで贋金造りをしていたのだというのです。これをパトロン事件と呼びます。銀製品を溶かして弐歩金を造って山代温泉の湯に浸してから通貨として流通させたのだというわけです。しかしこれは酷いですが、もっと酷いのは後で事が露見したときに責任者の市橋波江にすべての責任をかぶせて切腹させていることでしょう。その子息には倍の禄を以て功に報いたとのことです。
さて、この大聖寺城を攻城するわけですが、この城はさほど険しい山城というわけではなく、防御施設もさほどの仕掛けがあるわけではないので、攻略は容易でしょう。この城はあまり籠城向けの城ではないと考えた方が良いでしょう。
実際にも朝倉宗滴が大聖寺城を攻略したときはたった1日で落城していますし、前田軍が攻略したときも3日で落城するなど、籠城向けとは言い難い結果となっています。と言うわけで、この城に拠る場合は、籠城ではなくて討って出るしかないでしょう。実際にも関ヶ原の戦いの折には山口軍は前田軍に攻撃をかけようとしていて最初から籠城の構えではなかったのは、攻められたら支えきれる城ではなかったからでしょう。
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大聖寺城跡の大手道 |
階段はかなり急です |
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ここで右に曲がると本丸へ入れます |
本丸と鐘ヶ丸の分岐点です |
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本丸への階段です |
階段はけっこう急です |
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本丸への階段は曲がりくねっています |
腰曲輪・・・かな |
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本丸下の曲輪 |
もう少しで本丸です |
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本丸下まで来ました |
本丸下の曲輪の周囲にも土塁があります |
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本丸にあった説明板 |
本丸にある四阿 |
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本丸を囲む土塁は大規模なものです |
本丸を囲む土塁 |
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本丸の幅は城の規模に比して狭いようです |
本丸は削平がやや不十分です |
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本丸の西側には土塁が残っています |
本丸の土塁と山口宗永の慰霊碑 |
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本丸に残る櫓台跡 |
櫓台跡の案内板 |
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櫓台跡が錦城山山頂(標高65m)となります |
櫓台跡から見た本丸 |
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本丸から二の丸への階段 |
馬洗池 |
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二の丸 |
二の丸にも土塁の防壁がありました |
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鐘ヶ丸 |
鐘ヶ丸の土塁はかなり大規模なものです |
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土塁の上から鐘ヶ丸を見渡す |
番所屋敷跡 |
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番所屋敷跡の案内板 |
下馬屋敷跡 |
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下馬屋敷跡の案内板 |
東丸 |
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腰曲輪 |
大聖寺城全景 |
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忠霊塔 |
長流亭 |
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長流亭は数寄屋造りの茶室です |
長流亭の説明板 |
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住所 |
石川県加賀市大聖寺錦町 |
形式 |
連郭式平山城 (標高70m/比高65m) |
遺構 |
郭 土塁 馬洗池 空堀 長流亭 |
築城者 |
狩野氏 |
施設 |
説明板 石碑 トイレ 公園 |
城主 |
狩野氏 一向一揆 朝倉氏 戸次広正 堀江景忠
佐久間盛政 溝口秀勝 山口宗永 前田氏 |
駐車場 |
あり |
築城年 |
鎌倉時代 |
文化財 |
加賀市指定史跡 国重要文化財(長流亭) |
廃城年 |
元和元年(1615年) |
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