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飯久保城案内板 |
飯久保城は、富山県氷見市飯久保にある山城です。この飯久保城は富山湾に面した標高75mの細長い尾根上にあります。
築城時期ははっきりしたことは不明ですが、戦国期にこの一帯を支配していた狩野氏は、元々は加賀国の在地領主でした。鎌倉時代には加賀国大聖寺城を築いてここを拠点としていました。
狩野氏は、室町時代には加賀国守護富樫氏の家臣となっていましたが、長享2年(1488年)に発生した加賀一向一揆によって加賀国守護であった富樫政親が敗死してしまい、加賀国の支配権は一向一揆勢力の手に落ちています。この際に狩野氏は難を避けて越中国氷見へと落ち延びて定住したと考えられます。飯久保城の築城時期は、これ以降であると考えられます。
戦国期には狩野氏は越中国守護代神保氏の配下であったと考えられますが、その動向を窺うべき史料は少なく、不明な点が多い。そもそも大聖寺城時代の狩野氏の動向も不明な点が多く、謎の一族であると言えますが。
少ない資料の中から、永禄年間(1558年-1569年)には狩野中務丞良政の名が見えます。良政は富山城主神保長職に人質を差し出して臣従していたことが知られています。永禄4年(1561年)には一族の宣久が飯久保城の近くにある光久寺に対して寺領を寄進し租税を免除しています(『光久寺古文書』)。また狩野氏は、この後越中を支配するようになった上杉謙信やさらには織田の勢力が伸びた後は、佐々成政にも仕えている事から、神保氏の中でも越中国守山城主神保氏重、氏張の配下に組み込まれていたと考えるのが妥当でしょう。
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枡形虎口 |
狩野右京入道道州は、神保家没落後上杉家に臣従し、その子の狩野秀治は上杉景勝に仕え重用されています。天正13年(1585年)8月に豊臣秀吉が越中へと攻め込んで成政が降伏した富山の役の後は、狩野氏は飯久保城を退去したと考えられますが、その後飯久保城の名が史料から見えなくなっています。
つまり越中国を前田氏が支配することになったため、飯久保城はその戦略的利用価値を失ったと考えられる事から、さほど時を置かずして廃城になったと思われます。
狩野氏は、その後没落していたと思われますが、その子孫が宝永5年(1708年)に越中前田家に仕官しています。
飯久保城の遺構としては、主郭の南側には巨大な土塁があり、南東部には櫓台が設置され、南北には大きな堀切があり、厳重に守られています。主郭の東には尾根の先端に向かってもう一つの郭があり、両者の間は大きく深い堀切によって区切られています。この郭を副郭とみると一城別郭という見方も可能です。
主郭の北西に一段下ると小規模ながらも枡形虎口があり、主郭と虎口との区切りにも小規模ながら堀切が切られています。
副郭からさらに東側にもいくつもの小郭と堀切が連続していて、こちらから攻め上るのも困難と言わざるを得ません。
枡形虎口は、どう考えても佐々成政が手がけたと考えるしかないので、この城の末期には佐々成政の支配下にあり、その手により城が改修されたのだと考えるのが妥当でしょう。前田氏がこの一帯を支配するようになってからは、この城の戦略的価値はほぼなくなったと言えるので、前田氏が改修したという線は考えにくいでしょう。
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飯久保城見張り台 |
なお狩野氏は、越中国鞍骨山城、越中国惣領砦をも領有していて、以前は鞍骨山城が狩野氏の居城であったとされてきましたが、近年ではその立地から飯久保城が居城であり鞍骨山城はその詰城だったのではないかと考えられています。というのは、鞍骨山城があまりに山深く、特に冬季は積雪が多くてここに常駐するのはかなり困難と思われ、あくまで鞍骨山城は詰めの城と考える方が妥当という説です。
もう一つの考え方としては、当初は山間部の鞍骨山城に拠っていたが、やがて平野部へと進出した過程で飯久保城が築かれ、ここに拠点を移したとも考えられます。また戦国時代の一時期には越中国池田城城主三善(小浦)一守が拠っていたともいうが、これについても正確な時期や経緯は不明です。小浦氏も上杉謙信さらに佐々成政に臣従していましたが、佐々成政が肥後国に転封になるとそれに従っています。子孫は加賀前田家に仕えています。
さてこの飯久保城跡を実際に訪れてみると、飯久保集落の八幡社からの登城道は急勾配の上に曲がりくねり、途中には枡形虎口や馬出しがあり、ここから攻め上るのはかなりの困難が予想されます。また東側からの攻撃も途中にいくつも堀切があり、小曲輪があって激しい抵抗が予想されるので、これも難しいと言わざるを得ません。一方、南西側はいくつかの堀切がありますが、比較的防備が手薄いように思えるので、ここから攻める方が良いのではないかと思います。
いずれにしても、飯久保城はかなり大規模な造りの上にその防御施設も厳重で在地勢力の国人領主の城とは思えない出来映えとなっています。また現在でも、その遺構は良好に保存されていて見所も多いので、山城ファンの方はぜひ訪れるべきです。
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飯久保城の登城口となる八幡社 |
飯久保城の説明板 |
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飯久保城主郭へはここから登ります |
八幡社社殿への階段です |
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八幡社社殿 |
登城道はかなりの急勾配です |
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階段は急な上に曲がりくねっています |
途中に堀切の類はない |
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階段は狭く曲がりくねっています |
あっという間にかなり登ってきました |
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階段は果てしなく続きます |
階段は遊歩道として良く整備されています |
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ようやく最初の曲輪に到着しました |
曲輪の外側を横堀が巡っています |
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さらに上を目指します |
虎口がありました |
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虎口の両側には土塁があります |
この土塁に登るのは難しいです |
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土塁はかなり大きいものです |
土塁は高く急で外側からここに登るのは難しい |
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虎口空間と案内が立っています |
桝形虎口が馬出しになっています |
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この枡形虎口は佐々成政のしわざでしょう |
桝形虎口の内側は馬出しとなっています |
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竪堀がありました |
竪堀は比較的小規模なものです |
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さらに進みます |
これは何でしょうか? |
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桶水池があります |
どうやら湧き水があるようですが |
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さらに登っていきます |
階段はここでも曲がりくねっています |
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そろそろ頂上に近づいてきました |
この上が主郭です |
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ここが主郭ですが・・・ |
主郭はどちらかというと細長い形です |
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見張り台で一服です |
見張り台からの風景はすばらしい |
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主郭の背後の土塁の延長上に見張り台があります |
見張り台はもっとも標高が高い地点です |
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主郭の背後にそびえ立つ巨大な土塁 |
主郭はイマイチ削平が不十分です |
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この主郭がもっとも広い曲輪です |
主郭の背後の土塁上に堀切の案内板が |
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土塁上から見た主郭の全景 |
見張り台から見た飯久保集落 |
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見張り台側から見た土塁 |
見張り台から副郭への急階段 |
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階段の底が堀切となっています |
階段を降りきると・・・なんて急なのでしょう |
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副郭へ入ります |
階段の向こうが副郭 |
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副郭も背後が土塁に守られています |
副郭からさらに東側に進みます |
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東側にはいくつもの小曲輪と堀切があります |
階段を降りるとまた階段です |
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小曲輪には何が建っていたのでしょうか |
階段の下には小曲輪 |
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いくつも階段があり、小曲輪をつないでいます |
なんと、2本の堀切が連続しています |
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中央に土塁があり、前後を2本の堀切が横切っています |
この階段も急勾配です |
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堀切はけっこう深いのです |
堀切が連続して並んでいるとは |
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堀切は急勾配です |
階段がアップダウンしていますね |
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おそらくこの地点が防御拠点だったのでしょう |
さらに東側に進みます |
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狭い尾根上を東に進みます |
今度は上りの階段です |
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見かけ以上に急勾配です |
どうやらヘトヘトになっていますね |
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このあたりは小曲輪だったのでしょう |
次は下りの階段です |
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小曲輪は結構な広さだったりします |
また階段を下ります |
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狭い尾根上を降っていきます |
下りの階段が続きます |
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今度は上りの階段です |
尾根は狭く急です |
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また上りの階段です |
今度は下り坂です |
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そろそろ城の東端です |
ここは深い堀切です |
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堀切の底 |
堀切の北側は竹のドーム屋外ステージ |
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南側に伸びる堀切 |
堀切が通路となっています |
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堀切にこんな看板が |
みんなの広場へ向かいます |
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住所 |
富山県氷見市飯久保 |
形式 |
連郭式山城 (標高75m/比高60m) |
遺構 |
曲輪、土塁、堀切、桶水池、櫓台跡、枡形虎口 |
築城者 |
狩野氏 |
施設 |
案内板、駐車場 |
城主 |
狩野氏、三善一守 |
駐車場 |
無料 |
築城年 |
長享2年(1488年)以降 |
文化財 |
なし |
廃城年 |
天正13年(1585年)8月以降 |
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