|
古国府城隅櫓・・・ではなくて勝興寺鼓堂です |
古国府城は、富山県高岡市伏木古国府にある平城です。
別名、如意城とも呼ばれています。
現在、城跡には国重要文化財・勝興寺があります。
元々は、この地は越中国の国府跡でした。残念ながら国府の全容は明らかにはなってはいませんが、掘立柱建物や柵、溝、郭といった遺構が見つかっていて、ここに国府があったことは確認されています。
この古国府城は、伏木港の西側にあるやや高台となっている場所に築かれています。さらにここから西に4kmにある守山城の出城となっていました。
現在では前述するように城跡には勝興寺が建っていますが、城域は勝興寺の寺域全体に及ぶとされています。寺の周囲を囲む大きな土塁や空堀は古国府城の遺構です。また勝興寺としての建造物も城郭伽藍としての特徴を持っています。
2007年には主郭の堀の北側に別の堀、腰曲輪が発見されていて、城域はさらに広がる可能性もあります。
古国府城は、天正年間に守山城主神保氏張によって築かれたと言われていますが、実際にはそれ以前からここに城が存在した可能性は高いでしょう。
神保氏は以前より放生津城を本城にしてこの地に将軍足利義材を招いたりしていたので、その頃にはこのあたりに出城を持っていたとしても不思議ではありません。
|
古国府城の周りを囲む空堀 |
神保氏張は、神保氏の庶流で守山城主でしたが、越中は上杉氏がたびたび侵攻を繰り返し、神保氏張も上杉氏に降ることもあり、また一向一揆衆が上杉氏を攻撃することもたびたびあり、勝興寺は戦国期には安養寺にあって一向一揆衆の中心勢力でした。
天正5年(1577年)頃には『上杉家家中名字尽』に神保安芸守(氏張)と勝興寺の名前があるので、この頃には神保氏張も勝興寺も上杉氏と和睦してその傘下となっていたと見られます。前年には神保氏嫡流の神保長城が増山城に滅び、椎名康胤も蓮沼城にて敗死していて、神保氏張らは上杉氏に降るしかなかったのでしょう。
ところが天正9年(1581年)4月、越中国木舟城主石黒成綱によって越中国安養寺御坊(勝興寺)が焼き討ちされ、焼亡するという事件が発生しています。これは上杉謙信が健在の時は上杉氏についていた石黒氏が天正6年(1578年)3月13日に上杉謙信が死亡し、その後織田氏との勢力バランスが崩れて、越中国にも織田氏の勢力が伸びてきていたので、上杉方についている勝興寺を攻撃して織田氏につくためにこのような暴挙に出たのです。しかし、この直後に勝興寺の訴えを受けて上杉方の増山城主吉江宗信によって木舟城は攻め落とされています。いったん庄ノ城に逃れた石黒氏一行は同年7月に信長に近江国佐和山城へと呼び出されていますが、実は信長は越中国の国人たちの中で上杉氏に寝返る可能性のある者を抹殺するつもりでいました。同時期には願海寺城の寺崎氏も上杉氏に通じた疑いをかけられ信長に滅ぼされています。
信長の魂胆に
|
古国府城跡の周囲には土塁が残っています |
気づいた石黒氏一行は逃走を図りましたが、近江国長浜で丹羽長秀配下の兵に追いつかれて皆殺しに遭っています。結果的には、勝興寺を焼き討ちした事がきっかけで逆に石黒成綱自身を滅ぼす結果になったわけです。
これにより織田軍は越中に侵攻、木舟城の吉江宗信を追い出して、佐々成政を城に入れています。
この後、富山城には織田方の神保長住が入り、神保宗家が再興されたのですが、何と上杉方についた旧臣たちに城を奪われたりして失脚し、佐々成政が富山城に入っています。
織田信長が本能寺で討たれた後も佐々成政は越中にとどまり、天正11年(1583年)には魚津城を開城させて越中を平定しています。神保氏張は、佐々成政の客将、家老として越中平定に尽力しています。しかし調子の良い奴だ。
同年4月には賤ヶ岳の戦いがあり、柴田勝家が秀吉に敗れて滅び、佐々成政は秀吉に降伏していますが、その際には成政は戦いには直接参加していない事と、抗戦もしなかったことで、特段咎めは受けていません。
しかし天正12年(1584年)には小牧長久手の戦いが起り、徳川・織田氏と秀吉が戦うことになり、徳川・織田方についた佐々成政は豊臣秀吉と敵対姿勢を強めることになり、隣国加賀・能登の前田利家が秀吉方についたため前田氏との争いが繰り返されるようになっていました。佐々成政は越中一向一揆勢力を味方に付けるために古国府城の一円を勝興寺に寄進して、勝興寺が現在の位置に移設(再建)されています。これにより古国府城は事実上廃城となっています。
しかし戦いは成政に利あらず、天正13年(1585年)の富山の役で成政は秀吉に降伏して、越中は前田家の所領となっています。この際には勝興寺は秀吉からお墨付きを受け取っていて、兵士たちには勝興寺への敵対行為をすることを禁じています。
以降、幕末まで前田家と勝興寺は血縁的にも密接な関係を保ち続ける事となり、手厚い保護を受けています。
現在は、勝興寺に対して平成10年から20年計画で大規模な修理工事が開始されていて、既に本堂の工事は終了していますが、北側の建物が現在工事中です。完成するのが楽しみですね。
|
|
勝興寺の七不思議 |
勝興寺の説明板 |
|
|
勝興寺唐門は国重要文化財です |
外堀石垣がありますが・・・ |
|
|
外堀は空堀だったのでしょうか |
唐門は京都の興正寺から明治26年に移築されています |
|
|
城壁?が連なっています |
壁はいつ頃のものでしょうか |
|
|
ここで一服する人もいるかも |
浄聖平和塔 |
|
|
唐門を内部から見る |
七不思議の一つ「天から降った石」 |
|
|
七不思議の一つ「実ならずの銀杏」 |
勝興寺本堂は国重要文化財です |
|
|
勝興寺経堂は国重要文化財です |
勝興寺唐門 |
|
|
国重要文化財「紙本金地著色洛中洛外図六曲屏風」 |
|
|
七不思議の一つ「水の枯れない池」 |
勝興寺本堂 |
|
|
勝興寺の周囲を囲む土塁 |
土塁の遺構はかなり大規模なものです |
|
|
土塁の外側には空堀があります |
この土塁の遺構はここが城跡であることを示します |
|
|
越中国府の碑のようですが・・・ |
大伴家持が詠った「かたかごの花」の歌 |
|
|
石垣がありますが・・・ |
空堀が城跡を囲んでいます |
|
|
こんなに明確な空堀がのこっているなんて |
この墳墓は何なのでしょうか |
|
|
土塁は西側にも続いています |
本堂南側 |
|
|
鼓堂や唐門が一望できます |
七不思議の一つ「屋根を支える猿」 |
|
|
「屋根を支える猿」は実は邪鬼なのです |
七不思議の一つ「三葉の松」 |
|
|
勝興寺本堂は1795年に建てられました |
勝興寺本堂は堂々たる寺院建築物です |
|
|
勝興寺鼓堂は国重要文化財です |
本堂左奥にある七不思議の一つ「魔除けの柱」 |
|
|
勝興寺本堂正面 |
鼓堂は城郭伽藍の特徴を持っています |
|
|
土塁 |
土塁から空堀を見る |
|
|
かなり高い土塁です |
土塁上の通路を進みます |
|
|
土塁から空堀に降りてみます |
空堀があります |
|
|
かなり深い空堀です |
かなり大規模な空堀が残っているのです |
|
|
かなり深い空堀です |
そっくり空堀が残っている |
|
|
両側を土塁に囲まれた空堀が続きます |
豪華な駕籠です |
|
|
七不思議の一つ 魔除けの柱 |
屋根を支える猿のレプリカ |
|
|
七不思議の一つ 雲龍硯 |
本堂の中 |
|
|
修理現場に入ります |
大広間・式台の屋根 |
|
|
屋根を修理中です |
台所の屋根 |
|
|
大広間の屋根が完成しています |
大広間の説明板 |
|
|
式台の説明板 |
式台の屋根が完成しています |
|
|
屋根は柿板になっています |
柿板の仕組み |
|
|
内部の様子 |
すごい模様のふすまですが |
|
|
内部の様子 |
大広間 |
|
|
内部の様子 |
回廊 |
|
|
まるで城の内部ですが |
勝興寺は城郭伽藍なのです |
|
|
大広間 |
回廊 |
|
|
工事現場 |
工事現場 |
|
|
大広間、式台、台所など素屋根に覆われています |
鼓堂 |
|
住所 |
富山県高岡市伏木古国府 |
形式 |
平城(寺院) |
開館時間 |
am9:00~pm4:00 |
築城者 |
神保氏 |
入場料 |
大人300円 中学生以下無料 団体250円 |
城主 |
神保氏 |
遺構 |
土塁 空堀 本堂 鼓堂 経堂 書院など多数 |
築城年 |
不明 |
駐車場 |
無料 |
廃城年 |
天正12年(1584年) |
指定種別 |
名称 |
員数 |
指定年月日 |
国指定重要文化財
(建造物) |
本堂、唐門 |
2棟 |
昭和63年1月13日 |
大広間及び式台、書院及び奥書院、経堂、御霊屋、鼓堂
宝蔵、総門、式大門、御内仏、台所(附棟札1枚、銘札1枚) |
10棟 |
平成7年12月26日 |
国指定重要文化財
(絵画) |
紙本金地著色洛中洛外図六曲屏風 |
1枚 |
平成6年6月28日 |
県指定文化財
(歴史資料) |
勝興寺宝物(工芸品28品、絵画15点、彫刻1点、書跡13点、古文書180点) |
237点 |
昭和50年9月9日 |
|
|