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長浜城天守 |
長浜城は、滋賀県長浜市にある平城です。あるいは海城といっても良いほどです。長浜市史跡に指定されています。
1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政を滅ぼした小谷城攻めの功により織田信長から浅井氏の旧領を拝領しています。秀吉は、当初は小谷城へ入っていますが、山城の不便さから、当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名してこの地に城を築いています。この際に小谷城で使われていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始しています。
1576年頃には城が完成して秀吉は入城しています。
長浜城は琵琶湖のほとりにあり、立地的には海に面しています。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていました。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移転しています。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残が残っています。長浜は秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもあり、歴史的な価値は大きいと考えられます。
さて、長浜城を築いた羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代(室町時代後期)から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名・関白であり天下人です。はじめ木下氏を名乗っていましたが、後に羽柴氏に改めています。本姓としては、はじめ平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改めています。戦国・安土桃山時代における三英傑の一人です。
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長浜城本丸跡 |
羽柴秀吉は、天文6年(1537年)2月6日、尾張国愛知郡中村の半農半兵の家に百姓として生まれています。当初今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を表します。天正10年(1582年)6月2日、織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、「中国大返し」により京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破って、信長の後継者としての足がかりを得ます。その後、織田家内部の勢力争いで他の家臣はおろか主家をも制し、信長の後継者としての地位を獲得します。大坂城を築き関白・太政大臣に就任、豊臣姓を賜り日本全国の大名を従え天下統一を成し遂げることになります。太閤検地や刀狩などの画期的な新政策で中世封建社会から近世封建社会への転換を成し遂げますが、慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して没しています。墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城など機知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評されています。
秀吉の出自に関しては、父弥右衛門は足軽から農民、さらにはその下の階級ではなかったかとも言われており、確定していないが、少なくとも下層階級の出身であったことは間違いないようです。
秀吉は、尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で、木下弥右衛門となか(のちの大政所)の子として生まれています。生年については、従来は天文5年(1536年)といわれていましたが、最近では天文6年(1537年)説が有力となっています。
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長浜城天守は3層4階地下1階の構造です |
弥右衛門の素性には諸説があります。
誕生日は1月1日、幼名は日吉丸となっているが、これは『絵本太閤記』の創作で、実際の生誕日は『天正記』や家臣伊藤秀盛の願文の記載から天文6年2月6日とする説が有力であり、ここでもこの説に従います。
秀吉は自身の御伽衆である大村由己にいくつかの伝記を書かせているが(天正記)、それによっても素性は異なっています。
本能寺の変を記した『惟任退治記』では「秀吉の出生、元これ貴にあらず」と低い身分であった事が書かれていますが、関白任官翌月の奥付を持つ『関白任官記』では、母親である大政所の父は「萩の中納言」であり、大政所が宮仕えをした後に生まれたと記述されており、天皇の子である事がほのめかされているが、これは事実とは考えられません。つまり、秀吉の箔付けのためにこのような虚偽の記載をしたと考えられます。
広く流布している説として、父・木下弥右衛門の戦死後、母・なかは竹阿弥と再婚したものの、秀吉は竹阿弥と折り合いが悪く、いつも虐待されており、家を出て侍になるために駿河国に行ったとされています。
江戸初期に成立した『太閤素性記』によると7歳で実父弥右衛門と死別し、8歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、15歳の時亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどしながら放浪したとされています。
しかし、『太閤記』では竹阿弥を秀吉の実父としています。木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻ねねの母方の姓とする説もあります。秀吉の出自については、ほかに村長の息子、大工・鍛冶等の技術者集団や行商人であったとする非農業民説、水野氏説、また漂泊民の山窩出身説、などがありますが、真相は不明です。まあ、ここではやはり秀吉は足軽か農民の出身であったと考えておきます。
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長浜城天守台にある門 |
はじめ木下藤吉郎(きのした とうきちろう)と名乗り、今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市南区頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(松下加兵衛)に仕え、今川家の陪々臣(今川氏から見れば家臣の家臣の家臣)となっています。
藤吉郎はここである程度目をかけられたのですが、まもなく退転しています。その後の之綱は、今川氏の凋落の後は徳川家康に仕えるも、天正11年(1583年)に秀吉より丹波国と河内国、伊勢国内に3000石を与えられ、天正16年(1588年)には1万6000石と、頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられています。
藤吉郎は天文23年(1554年)頃から織田信長に小者として仕えるようになります。 清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げています。また信長の草履取りをした際に、冷えた草履を懐に入れて温めておいたことなどで信長の歓心を買うことに成功し、次第に織田家中で頭角をあらわしていきました。その風貌によって信長から「猿」「禿げ鼠」と呼ばれていたようです。
永禄4年(1561年)、浅野長勝の養女で杉原定利の娘ねね(高台院)と結婚しています。当時とすれば珍しい恋愛結婚だったといわれています。美濃国の斎藤龍興との戦いのなかで、墨俣一夜城建設に功績を上げたとされる逸話がありますが、事実かどうかはわかりません。この時点で藤吉郎が墨俣城建設のような最重要の任務を任されるほどの高い地位と信頼を受けていたのかどうか疑問だからです。しかし信長は能力第一主義で家柄より実力を重視していたので、あるいは事実だったのかも知れません。
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長浜城天守は犬山城に似ていますね |
この頃斎藤氏の影響下にあった美濃より竹中重治、川並衆の蜂須賀正勝、前野長康らを配下に組み入れています。秀吉の名が現れた最初の史料は、永禄8年(1565年)11月2日付けの書状であり、「木下藤吉郎秀吉」として副署している(坪内文書)。永禄11年(1568年)9月、近江箕作城攻略戦で活躍したことが『信長記』に記されています(観音寺城の戦い)。同年、信長の上洛に際して明智光秀、丹羽長秀らとともに京都の政務を任されています。この頃になると秀吉は織田家の重臣の一人として信長にも信頼されていたようです。
元亀元年(1570年)4月、越前国の朝倉義景討伐に従軍して、順調に侵攻を進めていくのですが、金ヶ崎付近を進軍中に突然盟友であった北近江の浅井長政が裏切り織田軍を背後から急襲。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機に陥りましたが、秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿軍を務め功績をあげています。これを金ヶ崎の退き口と後世に伝えて、秀吉の立身出世のきっかけの一つに挙げています。そして元亀元年6月28日の姉川の戦いの後には奪取した横山城の城代に任じられています。浅井氏との戦いの最前線を任せられる大出世です。その後も小谷城の戦いでは3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落すなど浅井・朝倉との戦いに大功をあげています。
天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となります。この頃、家内で有力だった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらい受け、木下姓を羽柴姓に改めています。これにより羽柴秀吉となったわけです。
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長浜城石垣根石 |
秀吉は、近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成などの有望な若者を積極的に登用しています。
天正4年(1576年)、越後国の上杉謙信と対峙している北陸方面軍団長・柴田勝家への救援を信長に命じられますが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲たがいをし、無断で帰還してしまったのです。その後、勝家らは上杉謙信に(手取川の戦いで敗れています。
実は勝家は秀吉以外にも佐々成政とも仲違いをしていて、けっこう揉めていたようです。こうなると秀吉がどうこうではなくて勝家の側に問題があったとも言えるでしょう。
信長は秀吉の行動に激怒したが(当然ですね)それでも許されて何らお咎めはなかったりします。どう考えても信長はえこひいきしていますね。天正5年(1577年)10月、信貴山城の戦いで秀吉は織田信忠の指揮下で謀反を起こした松永久秀を滅ぼし功績を挙げています。
その後、信長に中国地方攻略を命ぜられ播磨国に進出して、かつての守護赤松氏の勢力である赤松則房、別所長治、小寺政職らを従えています。さらに小寺政織の家臣の小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とします。一部の勢力は秀吉に従わなかったが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼしています。天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、備前国・美作国の大名宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、天正6年(1578年)7月に摂津国の荒木村重が反旗を翻した(有岡城の戦い)ことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。翌天正7年(1579年)10月19日に有岡城は開城していますが、実は荒木村重は、その前に城を抜け出していたので、命拾いしていたりします。
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旧長浜領境界碑 |
天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃しています。また、裏切りか・・・。
この攻城戦の最中において竹中重治や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、別所長治を降伏させています(三木合戦)。同年、但馬国の山名堯熙が篭もる有子山城も攻め落とし、但馬国をも織田氏の勢力圏においています。
天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が、山名豊国を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させています(鳥取城の戦い)。その後も中国西地方一帯を支配する毛利輝元との戦いは続いています。同年、岩屋城を攻略して淡路国をも支配下に置いています。
天正10年(1582年)には備中国に侵攻し(中国攻め)、毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めにより追い込んでいます(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙したため、信長に援軍を要請しています。
このように中国攻めでは、三木の干殺し・鳥取城の飢え殺し・高松城の水攻めなど、「城攻めの名手秀吉」の本領を存分に発揮しています。
ところが、・・・天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都の本能寺において明智光秀の謀反により殺害されるという大事件が発生します。いわゆる本能寺の変です。このとき、備中高松城を水攻めにしていた秀吉は事件を知ると、すぐさま高松城城主・清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返しています。これを世に中国大返しと呼んでいます。
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長浜城石垣出土地 |
秀吉勢の出現に驚愕した明智光秀は、6月13日に山崎において秀吉と戦っています。しかし池田恒興や丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であった中川清秀や高山右近までもが秀吉に付いたうえに筒井順慶も動かなかったため、兵力で劣る光秀方は大敗を喫し、光秀は落武者狩りにより討たれています(山崎の戦い)。秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握しています。
同年6月27日、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれています。この会議は、後世に清洲会議と呼ばれていて、結果的には秀吉と勝家の対立が決定的となる原因となっています。
この会議では織田家筆頭家老の柴田勝家が信長の三男・織田信孝(神戸信孝)を後継者に推していますが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(のちの織田秀信)を推しています。勝家はこれに反対したが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師を信孝が後見人となる妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となっています。
さらに信長の遺領分割においては、織田信雄が尾張、織田信孝が美濃、織田信包が北伊勢と伊賀、光秀の寄騎であった細川藤孝は丹後、筒井順慶は大和、高山右近と中川清秀は本領安堵、丹羽長秀は近江の滋賀・高島15万石の加増、池田恒興は摂津尼崎と大坂15万石の加増、堀秀政は近江佐和山を与えられています。勝家も秀吉の領地であった近江長浜12万石が与えられています。秀吉自身は、明智光秀の旧領であった丹波国や山城国、河内国を増領し、28万石の加増となっています。
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長浜城歴史博物館チケット売り場 |
これにより、領地においても秀吉は勝家に勝るようになったのでした。ただし、この時点で長浜城は勝家の養子である柴田勝豊に与えられています。
いずれにしろ秀吉と勝家の対立は決定的となり、日増しに激しくなっていきます。その原因は秀吉が山崎に宝寺城を築城し、さらに山崎と丹波で検地を実施し、私的に織田家の諸大名と誼を結んでいったためです。これに対し、天正10年(1582年)10月に勝家は滝川一益や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいています。これに対して秀吉は10月15日、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として、信長の葬儀を行なうことで切り抜けています。
12月、越前の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、信孝が三法師を安土に戻さないことなどと大義名分とし、信孝打倒の兵を挙げます。12月9日、秀吉は池田恒興ら諸大名に動員令を発動し、5万の大軍を率いて山崎宝寺城から出陣し、12月11日に堀秀政の佐和山城に入っています。そして柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲しています。
元々勝豊は勝家、そして同じく養子であった柴田勝政らと不仲であった上に病床に臥していたため、秀吉の調略に応じて降伏しています。これにより秀吉は長浜城を獲得したことになります。12月16日には美濃に侵攻し、稲葉一鉄らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老・斉藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏せしめた。こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んでいます。
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長浜城址を示す石碑 |
天正11年(1583年)1月、反秀吉派の一人であった滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城を守る岡本良勝、関城や伊勢亀山城を守る関盛信らを破っています。これに対して秀吉は2月10日に北伊勢に侵攻します。まず2月12日には一益の居城・桑名城を攻撃しますが、桑名城の堅固さと一益の抵抗にあって、三里も後退を余儀なくされています。また、秀吉が編成した別働隊が長島城や中井城に向かっていますが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退しています。しかし伊勢亀山城は、蒲生氏郷や細川忠興、山内一豊らの攻撃で遂に力尽き、3月3日に降伏しています。とはいえ、伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であるにもかかわらず、優勢でした。
2月28日、勝家は前田利家を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣します。これが賤ヶ岳の戦いの始まりです。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3月11日には柴田勢と対峙します。この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こっています。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めると、信孝の人質を処刑しています。
4月20日早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃に赴いた隙を突いて、奇襲をかけます。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走します。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた(美濃大返し)秀吉の反撃にあい、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に敗走を余儀なくされます。
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豊公園にある日本庭園 |
4月24日、勝家は正室・お市の方と共に自害し、お市の方と浅井長政との三姉妹、茶々(豊臣秀吉側室)・初(京極高次正室)・江(徳川秀忠継室)は秀吉に引き取られています。秀吉はさらに加賀国と能登国も平定し、それを前田利家に与えています。
5月2日には、信長の三男・織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏しています。
こうして織田家の実力者たちを葬ったことにより、秀吉は家臣第一の地位を確立しています。表面上は三法師を奉りつつ、実質的に織田家中を牛耳ることになったわけです。
次の長浜城主となったのは山内一豊(やまうちかつとよ)です。
山内一豊は、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、その前哨である伊勢亀山城(三重県亀山市)攻めで一番乗りの手柄をあげています。また、翌12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、家康を包囲するための付城(前線基地)構築に当たっています。この後、豊臣秀次の宿老となり、天正13年(1585年)には若狭国高浜城主、さらには近江長浜城主として2万石を領有しています。
さらに従五位対馬守に任官しています。ところが天正13年11月29日(1586年1月18日)に発生した天正大地震により、長浜城は大破して、一豊の一人娘与祢姫を失っています。一豊は、天正18年(1590年)の小田原の役にも参戦し、山中城攻めに参加しています。まもなく遠江国掛川に5万1000石の所領を与えられています。山内氏が移封された後は、長浜城は空城となったために次第に荒廃し、湖北真宗門徒の惣会所があったといわれています。もっともこの地は石田三成が領有していたのですが、三成は佐和山城を居城としていたので、長浜城は使用されていなかったということになります。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍が敗れて、石田三成は処刑されたためにこの地は徳川氏の手に落ちています。慶長11年(1606年)には、徳川家康の異母弟である内藤信成が近江国4万石を領有し、長浜城を居所としています。
さらに慶長17年(1612年)にはその子信正が長浜城主となっていますが、1615年(元和元年)に廃城になり資材の大半は彦根城の築城に流用されています。彦根城の天秤櫓(現存・重要文化財)は、長浜城から移したものと伝えられています。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられていて、今でも矢尻の跡が残っているを見ることができます。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられています。
現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので長浜城歴史博物館として運営されています。
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長浜城天守遠望 |
さくら名所100選「豊公園」 |
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長浜ロイヤルホテルがすぐそばに |
長浜城天守は模擬天守です |
 |
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天守を下から撮影 |
天守台の石垣の傾斜が緩いのはイマイチです |
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天守からみた長浜市街地の様子 |
大きくカーブしている道路は県道331号線 |
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天守曲輪 |
日本庭園を天守から |
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長浜市街地遠望 |
長浜城天守はけっこう立派です |
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天守と石垣 |
石垣はさほどの高さではない |
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本丸橋とありますが、川もないのに・・・ |
ここは内堀跡なのですね |
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天守遠望 |
この門はなんでしょう |
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天守曲輪への階段 |
長浜城説明板 |
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所在地 |
滋賀県長浜市公園町 |
形式 |
梯郭式平城 (海城) |
遺構 |
石垣、堀 |
築城者 |
羽柴秀吉 |
再建造物 |
模擬天守 |
城主 |
羽柴秀吉、柴田勝豊、山内一豊、内藤氏 |
駐車場 |
公園周辺に駐車場あり |
築城年 |
天正元年(1573年) |
文化財 |
長浜市指定史跡 |
廃城年 |
元和元年(1615年) |
住所 |
滋賀県長浜市公園町10-10 |
電話 |
TEL 0749-63-4611/FAX 0749-63-4613 |
営業時間 |
9:00~17:00(入館は16:30まで) |
休館日 |
施設メンテナンスによる臨時休館、年末年始 |
入館料 |
大人400円、小人200円、団体(20人以上) 2割引 |
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