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復元された小田原城天守 |
小田原城は、神奈川県小田原市にある戦国時代から江戸時代にかけて存在した平山城です。
江戸時代には小田原藩の藩庁が置かれていました。
1938年(昭和13年)8月8日、国史跡に指定されています。
別名、小峯城とも呼ばれています。
この小田原城の地には、平安時代末期には、既に相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平の居館が置かれていました。
室町時代中期になり、1416年(応永23年)の上杉禅秀の乱で禅秀方であった土肥氏が失脚し、駿河国に根拠を置いていた大森氏が小田原城に入り、相模国・伊豆国方面に勢力を広げています。ただし、このあたりの事情については詳細は不明です。
そもそも相模土肥氏は、建保元年(1213年)の和田合戦で壊滅的な打撃を受けていたためその後衰退していますし、小早川氏はその後もかろうじて本領は維持していたようですが、居館をいつまで維持していたのかはよくわかりません。
1495年(明応4年)(ただし年代をそれ以後とする説もある)、伊豆国を支配していた伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から小田原城を奪い、城は大幅に拡張されています。
それ以後は1590年(天正18年)の小田原合戦により開城するまで戦国大名北条氏五代にわたる居城として、南関東の政治的中心地となっています。
中世小田原城は、本丸を現在の小田原高校がある八幡山上に置き、現在の本丸付近には居館が構えられていた。最高所となるお鐘の台を取り込み、小田原城は八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲んだ惣構えは、後の豊臣大坂城の惣構を凌ぐ大規模なものでした。
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復元された馬出門 |
近世には大久保忠世・稲葉正勝によって城は改修され、本丸を中心に東に二の丸および三の丸を重ね、本丸西側に屏風岩曲輪、南に小峯曲輪、北に御蔵米曲輪を設け、4方向の守りを固めていました。この他、小峯曲輪と二の丸の間に鷹部曲輪、二の丸南側にお茶壺曲輪および馬屋曲輪、二の丸北側に弁才天曲輪と、計4つの小曲輪が設けられ、馬出として機能しました。
建造物としては、本丸に天守および桝形の常磐木門、二の丸には居館、銅門、平櫓がぞれぞれ設けられていて、小田原城全体では、城門が13棟程、櫓が8基程建てられていたものと考えられています。江戸末期には、海岸に3基の砲台が建設されています。
一般に北条早雲と知られている伊勢盛時は、従来は一介の素浪人から戦国大名にのし上がったと考えられてきましたが、最近では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流です。さらに伊勢氏のうちで備中国に居住した支流で、備中国荏原荘(現井原市)で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって備中荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる)であることがほぼ確定しています。さらに近年の研究で早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に八代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになっています。盛時は伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれています。つまり伊勢盛時は、幕府官僚の出身でそれなりの身分であり、決して一介の素浪人ではないのです。
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復興された隅櫓 |
また北条氏を名乗ったのは二代目の氏綱のときであり、実際は盛時が北条早雲と名乗ったことはないのです。
ですから、ここでは北条早雲ではなく伊勢盛時とします。
応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こり、駿河守護今川義忠は上洛して東軍に加わっています。この義忠はしばしば伊勢貞親を訪れていて、その申次を盛時の父盛定が務めています。おそらくはその縁で盛時の姉(または妹)の北川殿が義忠と結婚したと考えられます。文明5年(1473年)に北川殿は義忠の嫡男龍王丸(後の今川氏親)を生んでいます。
伊勢新九郎盛時の名は文明13年(1481年)から文書に現れます。文明15年(1481年)には将軍義尚の申次衆に任命されています。さらに長享元年(1487年)には奉公衆となっています。
文明8年(1476年)今川義忠は遠江国の塩売坂の戦いで西軍の遠江守護斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて戦死しています。しかし、当時の遠江国の政情は複雑で、近年の研究ではこれらの国人は東軍の斯波義良に属するものだと考察されていて、つまり義忠は同じ東軍と戦っていたことになってしまいます。どういう事情なのかというと、もともと今川氏は遠江に所領を持っていたのに斯波氏に奪われていて、斯波氏を恨みに思っていました。応仁の乱では、今川氏は東軍につき、遠江守護の斯波義廉は西軍についています。しかし斯波義良は、斯波氏の家督を義廉に奪われていたのを恨みに思っていて、応仁の乱では東軍についています。ところが義廉が失脚し、義良が遠江守護職につくようになり、さらに東軍は西軍方だった遠江守護代の甲斐氏を寝返らせて、義良に味方させたため、東軍内でも対立が生じてしまうことになり、今川義忠と斯波義良が戦うことになったわけです。もっとも斯波義良としては自分の所領を守ろうとしただけですし、今川氏としても言ってみれば従来の遠江の所領を取り戻そうとしたわけです。
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復元された銅門 |
残された嫡男龍王丸はまだ幼少であり、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが義忠の従兄弟の小鹿範満を擁立しようとしたため、家中が二分される家督争いとなってしまった。これに堀越公方と扇谷上杉氏が介入し、それぞれ執事の上杉政憲と家宰の太田道灌を駿河国へ兵を率いて派遣させています。このため龍王丸派にとって情勢は不利であったのです。
そこで亡君義忠の正室北川殿の弟(または兄)である盛時は駿河国へ下り、調停を行って龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させています。これに伴い上杉政憲と太田道灌も撤兵させています。両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓っています。家督を代行した範満が駿河館に入り、龍王丸は母北川殿とともに小川の法永長者(長谷川政宣)の小川城(焼津市)に身を寄せています。
今川氏の家督争いを収めた盛時は京へ戻り、前述するとおり将軍義尚に仕えて奉公衆に任じられています。
従来、この調停成功は盛時の抜群の知略による立身出世の第一歩とされていますが、これは貞親・盛定の命により駿河守護家・今川氏の家督相続介入の為に下向したものであるとの説が有力となっています。確かに普通に考えればそれが妥当でしょうが、調停を成功させて内戦を回避したのはやはり盛時の手柄と考えるしかないでしょう。ただし事実とすればですが。
というのは、この最初の駿河下向と家督争い調停については、盛時がこの時点で推定年齢が20歳なので、この大役を任せられるには少々若すぎるとも考えられ、疑問も残ります。とすれば実はこの時はもっと年上だったのかもしれません。
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復元された常磐木門表門 |
文明11年(1479年)前将軍義政は龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出しています。ところが、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を戻そうとはしませんでした。まあ、そんなところでしょう。一度甘い蜜を吸うと、離したくなくなるものですから。そこで長享元年(1487年)には盛時は再び駿河国へ下り、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って兵を集めています。そして同年11月、盛時は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺害しています。
龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り、正式に今川家当主となっています。盛時は伊豆国との国境に近い興国寺城(現沼津市)と所領を与えられています。そのまま駿河へ留まり、今川氏の家臣となった盛時は氏親を補佐するようになり、守護代の出す「打渡状」を発行していることから、この時点では駿河守護代の地位にあったと見ることもできます。
この頃に盛時は幕府奉公衆小笠原政清の娘(南陽院殿)と結婚し、嫡男氏綱が生まれています。
享徳の乱で関東公方足利成氏が幕府に叛いたため、将軍の命を受けた今川氏が鎌倉を攻めてこれを占領。成氏は古河城に逃れて古河公方と名乗るようになり反幕府勢力となり、幕府方の関東管領上杉氏と激しく戦っています。将軍義政は成氏に代る関東公方として弟の足利政知を関東へ送りますが、成氏方の力が強く、鎌倉に入ることもできず伊豆国北条に本拠に留まって堀越公方と呼ばれるようになります。さらに文明14年(1483年)には古河公方成氏と関東管領上杉氏との和睦が成立して、堀越公方の存在は宙に浮いてしまい、伊豆一国のみを支配するだけとなります。堀越公方政知には長男茶々丸がいたのですが、正室の円満院との間に潤童子と清晃をもうけていました。この茶々丸は、父に疎まれていて土牢に軟禁され廃嫡されてしまい、潤童子が跡継ぎとされていました。
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復元された常磐木門裏門 |
延徳3年(1491年)に政知が没すると、茶々丸は今度は継母の円満院に虐待されていましたが、7月に牢番を殺して脱獄し、円満院とその子の潤童子を殺害して強引に跡目を継ぐという事件が起きています。
盛時は延徳3年(1491年)5月までは「伊勢新九郎」の文書が残っていますが、明応3年(1494年)の史料では「早雲庵宗瑞」と法名になっており、この間に出家したと思われます。それでこの頃からは早雲を名乗っていたと思われるので、ここからは早雲とします。
明応2年(1493年)4月に、管領細川政元が明応の政変を起こして将軍義材を追放。政知の子清晃を室町殿(実質上の将軍)に擁立しています。清晃は還俗して義遐を名乗り、後に義澄と改名しています。権力の座に就いた義遐は母と兄の敵討ちを早雲へ命じています。これを受けて早雲は、同年10月に伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃しました。この事件を伊豆討入りといい、東国戦国期の幕開けと評価されています。一般にはこの時点で戦国時代に突入したと言われています。
堀越公方足利茶々丸は、弟と継母を殺害したことと、もともと素行不良の乱暴者で讒言を信じて重臣を殺害するなど粗暴な性格だったので、早雲の侵攻により支持を失い、堀越御所から逃亡して武田氏、関戸氏、狩野氏、土肥氏らに擁せられて早雲に数年に渡って抵抗しています。早雲は伊豆の国人を味方につけながら茶々丸方を徐々に追い込み、明応7年(1497年)に南伊豆の深根城を落として、茶々丸を捕らえて殺害しています。
伊豆国平定の一方で、早雲は今川氏の武将としての活動も行っており、明応3年(1494年)頃から今川氏の兵を指揮して遠江国へ侵攻して、中遠まで制圧しています。
明応3年(1494年)関東では山内上杉氏と扇谷上杉氏の抗争(長享の乱)が再燃し、扇谷上杉定正は早雲に援軍を依頼しています。定正と早雲は荒川で山内上杉顕定の軍と対峙するが、定正が落馬して死去したため、早雲は引き上げています。
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小田原城天守への入口 |
早雲は茶々丸の討伐・捜索を大義名分として、明応4年(1495年)に甲斐国に攻め込み、甲斐守護武田信縄と戦っています。同年9月、相模国小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取しています。『北条記』によれば、早雲は大森藤頼にたびたび進物を贈るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになる。ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許した。早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れる。その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放つ。数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れたといわれていますが、どこまで真実かはわかりません。たぶん嘘でしょうけど。この小田原城奪取は明応4年(1495年)9月とされていますが、史料によって年月が異なります。実際にはこれ以降のことかも知れません。
最近の研究では、この翌年にあたる明応5年(1496年)、上杉顕定は足利政氏と連合して相模に侵攻して扇谷上杉側の長尾景春・大森藤頼そして早雲の援軍と戦い、大森藤頼と援軍を率いてきた早雲の弟・弥次郎が籠る小田原城を攻め落としているということが判明しています。つまり、従来早雲が小田原城を手中に収めたとされている時期には追放された筈の大森藤頼が未だに小田原城主であり、早雲が援軍として藤頼を救援していることになります???。これはいったいどういうことでしょうか。
この事実について近年では明応10年(文亀元年・1501年)までに何らかの理由で早雲が相模守護である扇谷上杉朝良の許しを得て小田原城を占拠していたということと考えられています。まあ、明応4年(1495年)9月の小田原城奪取はやはり眉唾でしょうね。
ここで注目すべきは、仮にも同盟相手とは言え他国の大名の家臣に領土の一部を譲り渡すという事態はそれだけ、扇谷上杉朝良の戦況が苦境に立たされていた事を示唆しているといえます。
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小田原城ミューゼ |
逆に言えばそれだけ早雲の武将としての才覚は勿論の事、彼が後見する駿河守護今川氏親(早雲の甥)の軍事力を朝良は必要としていたことになります。事実、早雲の軍事的支援を受けて朝良は顕定に奪われた相模の諸城を取り戻しています。
また、明応10年3月28日(文亀元年/1501年)に早雲が小田原城下にあった伊豆山神社の所有地を自領の1ヶ村と交換した文書が残されており、この時点では早雲が小田原城を既に領有していたと思われます。小田原城は後に北条氏の本城となるのですが、早雲は小田原城奪取後も伊豆国の韮山城を居城としています。
伊豆討ち入り、小田原城奪取などの早雲の一連の行動は、茶々丸討伐という目的だけでなく、自らの勢力範囲を拡大しようとする意図もあったと見られていましたが、近年の研究では中央では義澄、細川政元、関東の扇谷上杉氏、駿河の今川氏親、早雲の派閥と、中央における足利義稙、大内政弘、伊豆の足利茶々丸、関東における山内上杉氏、甲斐武田氏の派閥、つまり明応の政変による対立構図の中での軍事行動であることが明らかになってきています。もともと堀越公方討伐も足利義澄の命で行っていましたし、小田原城奪取も、時期はともかく藤頼が義稙ラインの山内上杉氏に寝返った為に扇谷上杉氏が早雲に味方したと考えられています。今川氏の武将としての活動も続き、文亀年間(1501年-1504年)には三河国にまで進んでいます。しかし『柳営秘鑑』によると文亀元年(1501年)9月、岩付(岩津)城下にて松平長親と戦って敗北し、三河侵攻は失敗に終わっています。まあ、そうそううまくはいかないものです。
その後、早雲は相模方面へ本格的に転進し、関東南部の制圧に乗り出しましたが、既に茶々丸討伐の名目を失ったため、この後の軍事行動には多大な困難が伴ったようです。さらに、伊豆・西相模を失った山内上杉顕定による離間策により氏親・早雲は義澄・政元と断絶されてしまい、この事によって早雲の政治的な立場が弱くなっています。それでも早雲は今川氏の援助を受けながら、今度は義稙-大内ラインに与し、徐々に相模に勢力を拡大していきました。こうした関東進出の大きな画期となったのは、永正元年(1504年)8月の武蔵国立河原の戦いであり、扇谷上杉朝良に味方した早雲は、今川氏親とともに出陣して山内上杉顕定に勝利しています。この敗戦後に山内上杉顕定は越後上杉氏の来援を得て反撃に出ます。山内上杉軍は相模国へ乱入して、扇谷上杉氏の諸城を攻略。翌永正2年(1505年)、河越城に追い込まれた扇谷上杉朝良は山内上杉氏に降伏しています。これにより、早雲は山内上杉氏、扇谷上杉氏の両上杉と敵対することになります。
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東堀花菖蒲園 |
永正6年(1509年)以降は早雲の今川氏の武将としての活動はほとんど見られなくなり、早雲は相模進出に集中することになります。永正3年(1506年)には相模国で検地を初めて実施して支配の強化を図っています。この時期に検地を実施するとは・・・極めて斬新で先進的な戦国大名であったと言えましょう。
永正4年(1507年)、管領細川政元が暗殺されます。同年、顕定の弟で越後守護房能が越後守護代の長尾為景に殺害される事件が起きています。早雲は為景と結んで顕定を牽制するようになります。
永正6年(1509年)7月、顕定は大軍を率いて越後国へ出陣します。同年8月、この隙を突いて早雲は扇谷上杉朝良の本拠江戸城に迫っています。上野国に出陣していた朝良は兵を返して反撃に出て、翌永正7年(1510年)まで早雲と武蔵国、相模国で戦っています。早雲は権現山城(横浜市)の上田政盛を扇谷上杉氏から離反させ攻勢に出ますが、同年7月になって山内上杉氏と扇谷上杉氏が反撃に出て、権現山城は落城。三浦義同(道寸)が早雲方の住吉要害(平塚市)を攻略して小田原城まで迫ります。
早雲は手痛い敗北を喫し、扇谷上杉氏との和睦をして切り抜けています。一方、同年6月には越後国に出陣していた顕定は長尾為景の逆襲を受けて長森原で敗死してしまっています。
三浦氏は相模国の名族で源頼朝の挙兵に参じ、鎌倉幕府創立の功臣として大きな勢力を有していましたが、嫡流は執権北条氏に宝治合戦で滅ぼされています。しかし、傍流は相模国の豪族として続き、相模国で大きな力を持っていました。
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天守への階段から本丸を見る |
この頃の三浦氏は扇谷上杉氏に属し、同氏の出身で当主の三浦義同(道寸)が相模中央部の岡崎城(現伊勢原市)を本拠とし、三浦半島の三崎城(現三浦市)を子の義意が守っていました。早雲の相模平定のためには、どうしても三浦氏を滅ぼさねばならなかったのです。敗戦から体勢を立て直した早雲は、永正9年(1512年)8月に岡崎城を攻略し、三浦義同を住吉城(逗子市)に敗走させ、勢いに乗って住吉城も落とし、義同は義意の守る三崎城に逃げ込んだ。早雲は鎌倉に入り、相模の支配権をほぼ掌握する。扇谷上杉朝興が江戸城から救援に駆けつけるが、早雲はこれを撃破します。さらに三浦氏を攻略するため、同年10月、鎌倉に玉縄城を築いています。義同はしばしば兵を繰り出して早雲と戦火を交えるが、次第に圧迫され三浦半島に封じ込められてしまいます。扇谷上杉氏も救援の兵を送るがことごとく撃退されてしまいます。
永正13年(1516年)7月、扇谷上杉朝興が三浦氏救援のため玉縄城を攻めるが早雲はこれを打ち破り、義同・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せます。激戦の末に義同・義意父子は戦死して、ついに名族三浦氏は滅び、早雲は相模全域を平定します。
その後、早雲は上総国の小弓公方足利義明と上総武田氏を支援して、房総半島に渡り、翌永正14年(1517年)まで転戦しています。永正15年(1518年)、家督を嫡男氏綱に譲り、翌永正16年(1519年)に死去しています。ここでは生年を康正2年(1456年)とする説を採ると、享年64となります。
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二の丸と本丸の間にある東堀花菖蒲園 |
早雲は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、かつ伊豆一国を支配しながら室町幕府から正式に伊豆守護として任じられることはなかったのです。その点から、最初の戦国大名とも呼ばれています。『早雲寺殿廿一箇条』という家法を定め、これは分国法の嚆矢となっています。永正3年(1506年)には小田原周辺で指出検地(在地領主に土地面積・年貢量を申告させる検地)を実施していて、これは戦国大名による検地として最古の事例とされています。また、死の前年から虎の印判状を用いるようになっています。早雲の後を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大していきます。以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、五代に渡って関東に覇を唱えることになります。
2代目の氏綱は、長享元年(1487年)、北条早雲の嫡男として生まれています。永正15年(1518年)、父の隠居により家督を継ぎ、当主となる。永正16年(1519年)に父が死去したため、名実共に北条氏の当主となりました。従来、父早雲は没年88歳とされていたが、前述するようにこれを64歳とする説が唱えられており、その説によれば、早雲が32歳のときに氏綱が生まれたことになります。やはりこちらの方が妥当でしょうね。
早雲の時代、北条氏の居城は伊豆の韮山城でしたが、氏綱は居城を相模の小田原城に移しています。この時期に氏綱は姓を伊勢から北条へと改めたと推定されます。
大永4年(1524年)、氏綱は、扇谷上杉朝興が山内上杉憲房との和睦のために川越城に在城している隙に扇谷上杉氏の家臣・太田資高を寝返らせて江戸城を攻略します。江戸城を攻略後すぐに追撃を開始して、板橋にて板橋某・市大夫兄弟を討ち取る。
同年2月2日には敵対する岩付太田氏の岩付城を攻撃し落城させ太田備中守(太田資頼の兄)を討ち取っています。また、毛呂城主の毛呂太郎・岡本将監が北条方に属したため、毛呂~石戸間を手中におさめ敵の松山城~川越城間の遮断に成功します。
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小田原城馬屋曲輪の櫓台跡 |
しかし大永4年6月18日に太田資頼が朝興に帰参してしまい、同年7月20日には、朝興からの要請により武田信虎が武蔵国に侵入し岩付城を攻め落としています。これにより、太田資頼は岩付城に復帰することができたわけです。
享禄3年(1530年)には嫡男・氏康と共に上杉朝興と多摩川河原の小沢原で戦い、これに大勝しています(小沢原の戦い)。天文6年(1537年)には朝興が死去して、若年の上杉朝定が後を継いだことにつけ込んで侵攻し、河越城を奪取しています。
氏綱は関東(古河)公方足利晴氏へ娘方春院を嫁がせ和睦しています。当時、扇谷・山内の両上杉家は関東公方足利家配下の管領を称していました。氏綱は、このうち扇谷家の「管領」を後継することが関東公方により承認され、後に氏康がこれを後継したともいわれています。しかし、山内上杉家の関東管領が扇谷上杉家よりいくらかの正統性と実質を伴っていて、以降も管領家とされていたので、氏綱や氏康が管領を自称した記録はありません。
天文7年(1538年)には、北条・古河公方方が小弓公方足利義明と安房の里見義堯らの連合軍と戦っています。この戦いを第1次国府台合戦と呼んでいます。この戦いで氏綱は小弓公方足利義明を討ち取り、足利・里見連合軍に大勝して、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大することに成功しました。
氏綱は関東に勢力を拡大する一方で、父早雲の代より主従関係にあった駿河国の今川氏親との駿相同盟に基づいて甲斐国の武田信虎と甲相国境で争っています。今川氏輝の時代までは、北条氏の外交方針は親今川、反武田でしたが、天文5年(1536年)3月17日に今川氏輝が死去し、跡目争いが発生しています(花倉の乱)。この跡目争いは北条氏の支援を得た今川義元が勝利し、今川家の家督を継承して甲駿同盟が成立すると相駿同盟が破綻することになり、北条氏は外交方針を転換し、武田氏、今川氏と対立することになり、今川氏との抗争が始まってしまいます。これを河東の乱と呼びます。この戦いは、天文14年(1545年)まで続くことになります。
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小田原城歴史見聞館 |
関東において氏綱に敗れた扇谷上杉朝定が、山内上杉憲政と手を結んで反攻の兆しを見せ始め、さらに今川軍との戦いも長期化する中、氏綱は天文10年(1541年)に病に倒れ、7月19日に死去。享年55。後を嫡男の北条氏康が継いでいます。
北条氏3代当主・北条氏康は氏綱の嫡男として永正12年(1515年)に生まれています。母は氏綱の正室の養珠院。
天文14年(1545年)、今川義元は関東管領・山内上杉憲政や扇谷上杉朝定らとともに挙兵しています。しかも氏康の義兄弟(妹婿)であり、これまでは北条と同盟してきた古河公方足利晴氏も連合軍と密約を結び後に参戦しています。
義元は北条氏綱に奪われていた東駿河の一部を奪還すべく軍事行動を起こしています。これを第2次河東の乱といいます。北条軍は、今川軍に敗れて、河東一帯を奪い返されてしまいます。しかしこのとき武田晴信の斡旋があって、氏康と義元は停戦和睦しています。この時は、関東諸将がこぞって北条方への攻撃姿勢を見せていたため、北条氏は戦力が分断されたため今川軍とこれ以上の交戦は困難になっていました。だから武田晴信からの斡旋は氏康にとっては救いの手になったわけです。
天文15年(1546年)、態勢を立て直した山内・扇谷の両上杉氏と足利晴氏の連合軍、およそ8万(かなり誇張しているかも)の大軍が北条領に侵攻し、北条氏に奪われていた川越城を包囲します。この際の8万という軍勢は北条氏の勢力範囲以外では集めるのは困難と思います。当時の北条氏の領地は、相模、伊豆、武蔵の一部で少なくとも60万石程度はあったと思われます。しかし、このとき北条軍は1万未満しかなく、圧倒的に劣勢でした。この兵力は、必ずしも不当ではないでしょう、川越城に全兵力を集中することはできないので、60万石程度の北条氏の最大動員能力は15000程度でしょうから、川越城に投入できる兵力はせいぜいその半分以下でしょう。
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小田原城南曲輪跡 |
そこで氏康は両上杉・足利陣に「これまで奪った領土はお返しする」との手紙を送り、長期の対陣で油断を誘っています。そして氏康は義弟・北条綱成と連携して、連合軍に対して夜襲をかけるのです。この夜襲で扇谷上杉朝定は戦死し、扇谷上杉氏は滅亡します。また、山内上杉憲政は上野国平井城に、足利晴氏は下総国古河に敗走しました。この戦いを河越夜戦と呼び、日本三大夜戦の一つとされています。この勝利により、氏康は関東における支配権を確立することになります。
そして天文20年(1551年)には、北条軍が上野国に侵攻し、憲政を越後に追放しています(平井合戦)。
両上杉氏を失い、劣勢になった古河公方晴氏は北条氏の圧迫に屈して、足利藤氏を廃嫡し、天文21年(1552年)には自らも公方職を退いて、氏康の甥でもある義氏を第5代古河公方としています。
天文23年(1554年)、晴氏・藤氏らは古河城に籠城し、北条氏に抵抗したが結局は降伏し、晴氏は相模国秦野に幽閉されています。弘治3年(1557年)、晴氏は古河城に戻り再度抵抗を企てるが、北条氏に近い公方重臣の野田氏によって、栗橋城に幽閉されて永禄3年(1560年)に没しています。永禄元年(1558年)、鎌倉にいた古河公方義氏は古河に近い関宿城に移座しています。関宿は簗田氏の基盤でしたが、古河公方義氏の命令には簗田氏も従わざるを得ず、関宿城を明け渡して古河城に入っています。この関宿の地は交通の要衝でしかも経済的にも発展していて、氏康はここに目をつけて労せずして手に入れたのでした。
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常磐木橋 |
さらに大石氏には氏照、藤田氏には氏邦と息子を養子に送り込んで、時間をかけて急変は避けつつも実質的に一門に組み入れています。
しかし上杉憲政が越後に逃亡したことにより、長尾景虎(上杉謙信)との対立関係が表面化してしまいます。上野国は憲政が去った後も、上杉氏家臣である長野家当主・長野業正や横瀬(由良)の北条・武田勢への頑強な抵抗が継続していました。また常陸の佐竹、下野の宇都宮などの関東諸侯による抵抗もあって、関東統治は停滞していました。さらに今川との関係も依然として緊迫した状況であり、国境は気が抜けない状況でした。
天文23年(1554年)、今川義元が三河に出兵している隙を突いて、氏康は駿河に侵攻しますが、義元の盟友である武田晴信の援軍などもあって、駿河侵攻は思うように進まなかったのです。そして同年、今川氏重臣・太原雪斎の仲介などもあって、娘を今川義元の嫡男・今川氏真に嫁がせ、武田信玄の娘を嫡男・氏政の正室に迎えることで、武田・今川と同盟関係を結ぶに至っています。これを世に言う甲相駿三国同盟と呼んでいます。
永禄2年(1559年)、氏康は次男の氏政に家督を譲って隠居しています。未曾有の大飢饉が発生していたため、代替わりによる徳政令の実施を目的としていました。しかし隠居後も小田原城本丸にとどまって「御本城様」として政治・軍事の実権を掌握し、氏政を後見しています。
永禄4年(1561年)、長尾景虎(上杉謙信)が関東へ侵攻してきます。前年に謙信は厩橋城・沼田城・岩下城・那波城など上野国の北条方の諸城を攻略して関東に橋頭堡を築いていて、この上野諸城をも含め、関東一円の大名や豪族さらには一部の奥州南部の豪族まで動員した10万超の連合軍を率いていました。これに対し里見方の上総久留里城を囲んでいた氏康は、包囲を解いて帰還し、松山に着陣します。だが謙信率いる上杉軍との兵力差が大きいため、野戦は不利と判断した氏康は小田原城に撤退して、綱成は玉縄城に籠城、その他主要な城に兵力を集中させ専守防衛の構えをとっています。謙信は下総国古河御所などを攻略し、さらに大連合軍を率いて氏康の本国・相模国にまで押し寄せ、約一ヶ月に渡り居城・小田原城を包囲しています。
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小田原北條五代祭 |
謙信軍は小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけます。対する北条軍は各地で輸送隊を襲い物資を奪い去って抗戦しています。さらに武蔵の大藤氏などが上杉勢を苦しめています。小田原城の防衛は堅く、謙信は攻略を中断、いったん鎌倉に兵を引き上げ、鶴岡八幡宮にて関東管領就任式を挙行しています。この後、再度小田原を攻める構えを見せるのですが、時を同じくして氏康と同盟を結ぶ武田信玄が信濃国・川中島で海津城を完成させた上に軍事行動を起こす気配を見せて、謙信の背後を牽制しています。さらに長期にわたる出兵を維持できない佐竹氏など諸豪族が撤兵を要求し、一部の豪族は勝手に陣を引き払う事態となっています。
謙信は小田原城攻略を中止し厩橋城へと軍を退き、そのまま越後国へ帰国します。この途上、松山城が上杉軍によって落城しています。この直後、謙信が信玄との川中島の戦い(第四次)のために信濃に出兵すると、氏康は上杉氏に奪われた領土の再攻略を試みます。謙信帰国の直後、下総の千葉氏・原氏・高城氏を帰参させ、下野の佐野昌綱を寝返らせることに成功します。つまり関東の諸将は必ずしも謙信に心から従っていたわけではなかったわけです。この情勢を受けて上杉軍は、川中島の戦いで大きな被害を受けていたにも関わらず、再び関東へ攻め寄せます。これを好機と見た氏康は永禄4年11月27日の生野山にて合戦を行い、上杉勢を打ち破っています。やはり上杉軍が川中島の戦いで受けた被害は甚大であり、とても戦える状態ではなかったようです。
この後、上杉勢は古河城を梁田氏に任せるとの書状を出して撤退しており、12月には近衛前嗣が由良成繁に古河城の苦境を伝えています。氏康はその年は武蔵国の要衝・松山城にも攻撃を仕掛けていますがこの時は攻略には失敗しました。しかし、永禄6年(1563年)には武田信玄の援軍を得たことにより松山城の攻略に成功しています。さらに下野の小山氏を寝返らせ、その後は古河城をも攻略し、謙信が擁立した古河公方足利藤氏(義氏の異母兄)を捕らえています。
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小田原北條五代祭の武者行列 |
永禄7年(1564年)、氏康は、里見義堯・里見義弘父子と上総などの支配権をめぐって対陣します(第二次国府台の戦い)。
北条軍は兵力的には優勢でしたが、里見軍は精強で一筋縄にはいかず、北条軍は遠山綱景などの有力武将を多く失っています。しかし氏康の夜襲が成功したことにより里見軍は敗れて安房に撤退しています。同年、太田資正を謀略によって岩付城から追放し武蔵を再び平定します。この後、謙信は臼井城や和田城の攻略に失敗、さらに箕輪城が陥落した事もあり、上野の由良氏、上総の酒井氏、土気(土岐)氏、原氏、正木氏の一部など多くの豪族が北条氏に服従するようになります。さらに、永禄9年(1566年)上野厩橋城の上杉家直臣北条高広が北条に寝返った事により、上杉氏は大幅な撤退を余儀なくされています。ただし高広の厩橋城は後述の越相同盟成立により上杉方となります。氏康は信玄と共同で謙信に対抗することで、関東での抗争で再び優位に立つことになります。
永禄9年(1566年)以降は氏康は実質的にも隠居し息子達に多くの戦を任せるようになります。関東における優位が決定的なものとなり、氏政も着実に成長していたためでしょう。これ以降は「武榮」の印判を用いての役銭収納、職人使役、息子達の後方支援に専念するようになります。この前後から氏政は左京大夫に任官し、氏康は相模守に転じています。家臣への感状発給もこの時期に停止し、氏政への権力の委譲を進めています。
永禄10年(1567年)、氏康は息子の氏政・氏照に里見攻略を任せ出陣させます。しかし、正木氏などの国人が里見に通じたことなどがあり、氏政は里見軍に裏をかかれて大敗し、北条家は上総南半を失っています。この際、娘婿の太田氏資が戦死しています。これを三船山合戦と呼びます。しかし、常陸においては、南常陸の小田氏等の臣従により佐竹領以外には北条氏の勢威が及ぶようになり、北条家の勢いが衰えることはなかったのです。
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馬までいます |
永禄3年(1560年)5月、今川義元が桶狭間の戦いにおいて織田信長に討たれたため、今川氏の勢力が衰退しています。
そして永禄11年(1568年)、武田信玄が今川氏と断交し駿河侵攻を行ったことにより、三国同盟は破棄されることになります。今川氏真は武田軍に敗北し、さらに徳川軍の侵攻を受けて掛川城に追い詰められます。北条家は娘婿の今川氏真を支援をする方針を固め、氏政が駿河に出兵、薩多峠にて武田軍と対峙します。氏康は信玄が徳川の不信を買ったことを利用し徳川との密約を結び、駿河挟撃の構えをとっています。さらに大宮城に攻撃を仕掛けた武田軍を退けたことにより、信玄はこの状況での駿河防衛は困難と判断し、駿河から軍を退き甲斐へと退却しています。氏康と信玄の敵対関係は決定的となり、甲相同盟は破綻しました。
氏康は三方を敵に囲まれる状況を避けるべく、駿河出兵を決めると同時に上杉との同盟交渉を開始しています(大石氏照書状)。既に纏まっていた今川家と上杉家の同盟に乗る形で交渉を始め、由良成繁を仲介役に、石巻天用院を使者として、永禄11年(1568年)に上杉謙信と同盟を結んでいます(越相同盟)。北条方は北条三郎(上杉景虎)、上杉方は柿崎晴家が人質とされています。永禄12年(1569年)9月、武田軍が武蔵に侵攻します。これに対し、鉢形城で氏邦が、滝山城で氏照が籠城し武田軍を退け、武田軍はそのまま南下、10月1日には小田原城を包囲します。しかし氏康が徹底した籠城戦をとったため、武田軍は小田原城攻略は不可能と判断、たいした戦もなくわずか4日後に撤退します。その撤退途上で、氏照・氏邦率いる北条軍と武田軍が衝突します。氏康は追撃軍との挟撃を計り氏政を出陣させますが、氏政の行軍が遅れたこともあり本隊到着寸前に突破され敗退、武田軍の甲斐帰還を許す結果になっています。これを三増峠の戦いと呼んでいます。北条軍はこの合戦で受けた損害を埋めるために駿河から軍勢を呼び戻したという説もあるくらいで甚大な被害を受けています。
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小田原城銅門 |
その後、武田は再度駿河に出兵してきますが、対する北条は里見の勢力回復や氏康の体調悪化に伴い、駿河での戦いは押され気味となっていき、武田軍の駿河制圧を許す結果となります。
その後も信玄が伊豆・駿河方面に進出するとこれに対抗しますが、蒲原城、深沢城等の駿河諸城が陥落し、氏康が病がちになり戦線を後退、元亀元年(1570年)には北条方の駿河支配地域は興国寺城及び駿東南部一帯だけとなり、事実上駿河は信玄によって併合されています。
また越相同盟に関しては、両家の停戦という意味では成功したものの、上杉軍の信濃出兵は実現せず、対武田に大きく機能することはなかったのです。さらにこの同盟は謙信に対する関東諸大名の不信感を生み出し、里見や佐竹、太田といった反北条勢力は謙信から離反し武田についてしまっています。これは武田氏が彼らとうまく同盟してあくまで北条と対抗させるように仕向けたと言えます。そのため北条はこれらの勢力との争いを続けることとなり、結局、氏康はこの同盟を継続する利点はないという結論に達したと思われます。
元亀2年(1571年)から、氏康は、謙信から離反して東上野を領する北条高広を通じて、武田信玄との和睦・同盟を模索していました。氏康は元亀元年(1570年)8月頃から病を得ていましたが、その年になりそれが悪化。最後の務めとして氏政をはじめとする一族を集め、「上杉謙信との同盟を破棄して、武田信玄と同盟を結ぶように」と遺言を残したとされています。そして10月3日、小田原城において病死しています。享年57。死後の12月27日、氏康の遺言どおり、北条・武田は再同盟しています。
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馬屋曲輪南側の水堀 |
ただ近年ではこのような氏康の遺言はなく、氏政の独自の方針、あるいは三河に集中したい信玄側からの申し入れであったという説も有力です。しかし私見を言わせてもらうと、当時の状況から考えて氏康が越相同盟を破棄して武田氏と再び同盟した方が有利と考えていない訳はないので、文書としては残さないとしても氏政にこっそりと遺言していた可能性は充分にあると思います。
天文7年(1538年)、氏政は3代当主・北条氏康の次男として生まれています。氏康の長男・新九郎が夭折したために世子となり、新九郎のちに氏政と名乗っています。天文23年(1554年)、父・氏康が武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟を成立させると、武田信玄の娘・黄梅院を正室に迎えています。夫婦仲は極めて良好であったと言われています。永禄2年(1559年)に父・氏康が隠居して家督を譲られて、北条家の4代当主となります。父・氏康存命中は氏康・氏政の両頭体制が続いています。家督相続後、氏政が最初に行なった仕事が北条家所領役帳の作成(代替わりの検地)とされています。民意を重視し、検地や徳政を行うための内政事情によって代替わりすることが北条氏の常套でした。
永禄3年(1560年)、下野国の佐野昌綱が背いたため、父・氏康に命じられ、3万5千の大軍を率いて昌綱の居城唐沢山城を攻囲する。この時越後国守護代の長尾景虎(上杉謙信)は、関東管領上杉憲政の居城平井城に自らの軍勢8千とあったが、このことを聞き唐沢山城救援に駆けつけ、昌綱以下の唐沢山城兵7千とともに氏政の軍と戦っています。氏政以下は長尾・佐野勢の猛撃に耐えられず、散々打ち負かされて退却しています。
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小田原城馬出門からの出陣 |
永禄4年(1561年)、謙信が関東・南陸奥の諸大名を糾合した大軍で小田原城を包囲しまする。氏政は父・氏康主導のもとで籠城戦で対抗し、上杉軍を撃退しています。越後に撤退した謙信が第4次川中島の戦いで武田信玄と戦って甚大な被害を受けると、信玄と呼応して北関東方面に侵攻して、上杉方に奪われた領土の大半を奪い返しています。
永禄7年(1564年)の第2次国府台合戦では、緒戦こそ里見義弘の前に苦戦したが、氏政は北条綱成と共に里見軍の背後を攻撃して勝利を得ています。これによって、上総国に勢力を拡大しています。さらにこの勝利で上総土気城主・酒井胤治らが一時的ながら氏政に帰順しています。同年には武蔵岩槻城主・太田資正の長男・太田氏資を調略して、資正を武蔵から追い武蔵全域の支配権を確立しています。
元亀2年(1571年)10月、父・氏康が病死したため、その遺言に従って氏政は12月に信玄との同盟を復活させて(甲相同盟)、謙信との同盟を破棄しています。元亀3年(1572年)の信玄の上洛(西上作戦)の際には、諸足軽衆の大藤政信や伊豆衆筆頭で怪力の持ち主とされる清水太郎左衛門など2000余を援軍として武田軍に参加させ、三方ヶ原の戦いでは織田・徳川連合軍に勝利しています。なお、この戦いで大藤政信が戦死しています。
甲相同盟復活後、氏政と謙信の戦いが再び始まり、天正2年(1574年)に謙信が上野に進出すると、氏政も上野国に出陣し、利根川で対陣しています。謙信は越中方面などの一向衆の動きによって決戦を回避します。この隙に、氏政は閏11月には簗田晴助の関宿城を攻め落とし、翌年には小山秀綱の下野祇園城を攻め落としています。さらに、下総国の結城晴朝が恭順するなど、氏政の勢力は拡大していきます。天正5年(1577年)には上総国に侵攻し、宿敵・里見義弘との和睦を実現しています。なおこの戦いにおいて嫡男氏直が初陣しています。
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学生さんたちが大挙参加しています |
天正6年(1578年)、上杉謙信が死去すると、その後継者をめぐって謙信の甥・上杉景勝と氏政の弟で謙信の養子・上杉景虎(北条三郎)の間で後継者争いである御館の乱が発生します。氏政はこのとき下野において佐竹・宇都宮と対陣中であったため、5月に実弟の景虎の援助のために氏照、氏邦らを越後に派遣した。8月下旬には氏政自身も景虎援助のため、上野の前橋城まで出陣します。しかし、すぐに小田原へ引き返しています。また、これと同時に同盟者で妹婿の武田勝頼にも援軍を依頼しています。当初、勝頼は景虎を支援して自らも出陣しています。しかし、隙をついた徳川家に攻め込まれた東海方面の諸城から援軍を求められる状況になり、佐渡産の金を押さえた景勝から黄金を贈られ、上野沼田の割譲を条件にした同盟を受け入れて景勝支持に転じています。(甲越同盟)。その結果、御館の乱は景勝の勝利に終わり、景虎は自害しています。
甲越同盟に対して氏政は第2次甲相同盟を破棄し、織田信長・徳川家康と同盟を結び駿河の武田領国を挟撃することになります。天正8年(1580年)に武田勝頼を攻めて重須の合戦が起きたが、勝負はつかなかった。更に上野では勝頼の攻勢が続き、上野下野国衆も武田方に転じたため、劣勢に陥っています。このため、この頃、石山本願寺を降伏させて勢いづく織田信長に臣従を申し出ています。敵対した武田勝頼も織田家との和睦・同盟を画策していたため、先手を打って同盟を成立した高度な外交と言えます。しかし北条氏も織田氏の力をかなり恐れていたとも言えましょう。信長の敵対勢力を根絶やしにするやり方を熟知していたということかもしれません。
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小田原城学橋 |
同年、嫡男の北条氏直に家督を譲って隠居しますが、父氏康に倣い、なおも北条家の政治・軍事の実権は掌握しています。
北条氏直は永禄5年(1562年)、北条氏4代当主・北条氏政の次男として小田原城で生まれています。母は武田信玄の娘で氏政の正室・黄梅院です。幼名は国王丸。仮名は新九郎。
天正10年(1582年)2月、織田信長の嫡子の織田信忠を総大将、織田四天王の1人である滝川一益を軍監とした軍勢が、武田征伐に乗り出すと、駿豆国境間の情報が途絶していたため当初情報の少なかった氏政は氏邦に上野方面から情報収集させています。その後、伊勢からの船による情報により、織田の武田領国侵攻を確認すると、これに呼応し駿河の武田領に侵攻しています。3月11日に勝頼は天目山の戦いで正室・桂林院(氏政の妹)と共に自刃し、甲斐武田氏は滅亡しています。
信長は滝川一益を上野厩橋城に派遣して関東管領とし、上野西部と信濃国の一部を与え、関東の統治を目論んでいます。すでに北条は氏直に織田家から姫を迎えて婚姻することを条件にして、織田の分国として関東一括統治を願い出ていたが、これについて織田信長から明確な回答がなかったため、氏政は三島大社に氏直の関東支配と織田家との婚姻祈願の願文を捧げています。また一益の仲介により、下野祇園城を元城主の小山秀綱に返還する等、織田氏の関東支配に協力しています。氏政はこの時点での信長の勢威を恐れており、織田-北条の友好関係は保たれていました。関東の北条領は一益の文書では南方と呼ばれ、重視されていました。
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天守から見た小田原駅 |
6月2日、京都本能寺において織田信長が明智光秀の裏切りにより滅ぼされています(本能寺の変)。信長の死を知った氏政は、当初は滝川一益に引き続き協調関係を継続する旨を通知しているが、その後、氏直と氏邦に上野奪取を命じ、5万6千と称する大軍を上野に侵攻させ、滝川軍と対峙しています。北条軍は滝川軍の3倍の兵力でしたが、緒戦で北条軍先鋒は壊滅的打撃を受けています。だが数日後の決戦に大勝し、一益は敗走しています。これを神流川の戦いと呼びます。この後、北条軍は敗走する一益を追って、碓氷峠から信濃に進出。真田昌幸・木曾義昌・諏訪頼忠などを取り込み、徳川方として旧武田兵を集めて決起した依田信蕃を討って小諸城に駐屯し、信濃東部から中部にかけて占領下に置いています。上杉景勝も信濃国北部に侵入してきましたが、氏直は、信濃川中島4郡を割譲する条件で景勝と和睦しています。
一方、滝川一益の敗走により、信濃国や上野国と同じく、空白地帯と化した甲斐国に侵攻した家康は、依田信蕃を通して真田昌幸を調略し、さらに徳川方の小笠原貞慶への肩入れなどにより、北条軍と対立しています。この一連の抗争を天正壬午の乱と呼んでいます。この一連の流れによって、織田家は甲斐・信濃・上野を一挙に失うことになり、織田家トップクラスの重臣だった滝川一益は失脚しています。その後、甲斐若神子において氏直と家康は対陣しましたが(若神子の戦い)、信濃では真田昌幸が北条から離反し徳川方につき、甲斐国においても別働隊の北条氏忠が、黒駒において徳川方に敗北したため、甲斐の北条領は郡内地方の領有に留まる等、対陣は不利となっています。このため氏直と家康の娘・督姫を結婚させることで和睦しています。

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石垣山城を望む |
領土問題は甲斐・信濃を徳川領、上野国を北条領とすることで合意していますが、信濃佐久・小県両郡と甲斐郡内地方の放棄は北条氏にとっては不利な講和条件でした。しかも徳川についた真田昌幸が、後に上野国の沼田を北条に明け渡す事を拒んで上杉氏に寝返り、上田・沼田城にて徳川・北条と抗戦することとなり、これが後の沼田問題さらに名胡桃事件の伏線となります。
天正11年(1583年)に古河公方・足利義氏が死去すると、北条氏は官途補任により権力を掌握し、これにより関東の身分秩序の頂点に立っています。また武蔵国の江戸地域、岩付領の支配を掌握し、利根川水系と常陸川水系の支配を確保、これによって流通・交通体系を支配したため、関東の反北条連合は従属か徹底抗戦の二者択一を迫られるまでに至っています。なお、この時期に同地域の支配を確固たるものにするために江戸城を隠居城として政務を執る構想があったとも言われていますが、実際には氏政は以後も小田原に居住しており、具体化には至らなかったとされています。
天正13年(1585年)、佐竹義重・宇都宮国綱らが那須資晴・壬生義雄らを攻めると、氏政は那須氏らと手を結んで本格的に下野侵攻を開始し、下野の南半分を支配下に置いています。また常陸南部の江戸崎城の土岐氏及び牛久城の岡見氏を支援し、常陸南部にも勢力を及ぼしています。
こうして、北条氏の領国は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部に及ぶ240万石に達するようになり、最大版図を築き上げています。
しかし、北条氏には、明智光秀を討って信長の天下一統事業を継承した豊臣秀吉との対立が待っていました。
天正16年(1588年)、秀吉から氏政・氏直親子の聚楽第行幸への列席を求められていますが、氏政はこれを拒否しています。
京では北条討伐の風聞が立ち、「京勢催動」として北条氏も臨戦体制を取るに至っていますが、徳川家康の起請文により以下のような説得を受けています。
- 家康が北条親子の事を讒言せず、北条氏の領国を一切望まない。
- 今月中に兄弟衆を派遣する。
- 豊臣家への出仕を拒否する場合督姫を離別させる。
これに従い、8月に氏政の弟・北条氏規が名代として上洛したことで、北条-豊臣間の関係は一時的にではあるが安定します。
なお武州文書によると、この頃、氏政は実質的にも隠居をすると宣言しています。氏政は秀吉への全面従属には反対であったため、親徳川の氏直をたてたとされていますが、のちに氏政自身が上洛することを家臣・国衆に通知しており、氏政が主戦派との見解については疑問が残ります。また、氏規上洛直後に氏政が政務に一切口出しをしなくなったことが確認されています。
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水堀と隅櫓 |
天正17年(1589年)2月、評定衆である板部岡江雪斎が上洛し、沼田問題の解決を秀吉に要請しています。秀吉は沼田領の3分の2を北条側に還付する沼田裁定をおこない、6月には12月氏政上洛の一札を受け取り、沼田領は7月に北条方に引き渡されています。これは真田昌幸が名胡桃城は自分の先祖の墓があって離れがたいと言い張った結果ですが、もちろん嘘です。と言うか、秀吉もそんなことは嘘だとわかっていながら、このような裁定をすることで、火種を残したのだという見方もできます。
しかし上洛について、氏政は新たに天正18年(1590年)の春夏頃の上洛を申し入れましたが、今度はそれを秀吉が拒否したことにより、再び関係が悪化し始めます。こうした状況の中の天正17年(1589年)10月、氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が起きます。
この名胡桃城と沼田城との距離は3km程度と近く、北条方にとってはまさに目の上のたんこぶと言える目障りな存在であったと言えます。そしてなんと沼田城主であった猪俣邦憲が詭計をもって名胡桃城を奪取するという事件が起こってしまうのです。名胡桃城主であった真田家臣鈴木主水重則の家臣中山九兵衛尉は元中山城主(高山村)中山安芸守の次男であったが、邦憲に「小田原への忠誠を示せば、中山、名胡桃、小川をやろう」と誘われます。中山九兵衛尉はこの言に乗せられ、自作の偽状を昌幸からと言って鈴木主水に見せた。主水の妻は中山安芸守の娘ということもあり、中山九兵衛尉を疑わなかった鈴木主水は、急ぎ上田へ来てほしいというの書状を見て驚きます。主水はわずか20人ばかりの手勢をもって急ぎ城を出ます。途中、岩櫃城に立ち寄り重臣矢沢頼綱と会って、謀られたと知った主水は急ぎ立ち返る。しかし、すでに名胡桃城は猪俣邦憲の手勢に乗っ取られた後だった。11月23日、城奪回が適わぬと思った主水は、沼田城下の正覚寺に入り、自害しています。しかし猪俣能登守の詭計は鮮やかなお手並みと言うしかないのですが、彼の独断でやったとは考えられず、氏政、氏照らの命令によって実行したと考えられます。
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堀でボート遊びとは優雅です |
秀吉はこの事件を知ると激怒し、家康、景勝らを上洛させ、諸大名に対して天正18年(1590年)春の北条氏追討の出陣用意を促しています。また、秀吉は津田盛月・富田一白を上使として北条氏に派遣して、名胡桃事件の首謀者を処罰して即刻上洛するよう要求しています。これに対して氏直は、氏政抑留か国替えの惑説があるため上洛できないことと、徳川家康が臣従時に朝日姫と婚姻し大政所を人質とした上で上洛する厚遇を受けたことに対して、名胡桃事件における北条氏に対する態度との差を挙げ、抑留・国替がなく心安く上洛を遂げられるよう要請しています。また名胡桃城奪取事件について、氏政や氏直の命令があったわけではなく、真田方の名胡桃城主が北条方に寝返ったことによるもので、すでに名胡桃城は真田方に返還したと弁明しています。
このことについて、氏直は名胡桃城は北条が乗っ取ったのではなく、すでに真田に返還していることと、この件について真田方の名胡桃城主と思われる中山の書付を進上するので真理を究明してほしい旨を、秀吉側近の津田信勝、富田知信に対して弁明するとともに、徳川家康に対しても同様に執り成しを依頼しています。ところが家康は秀吉から小田原攻めに関する軍議に出席するよう求められたため、既に上洛しており、家康への依頼が実を結ぶことはなかったのです。
この事件が真に猪俣の独断であるならば、氏直・氏政の監督不行き届きが招いた結果であり、穏健派の氏規と中間派の氏直、主戦派の氏政・氏照・氏邦の対立が表面化したと言えます。しかし現存している各種書状において、沼田城受領後の氏政は自らの上洛時期が当初の12月から翌春夏にずれたものの、上洛に積極的であり、また氏政・氏直が再三にわたり名胡桃城を北条が奪取したわけでないと述べていることを考慮すると、名胡桃城奪取事件の真相は今をもっても不明といわざるを得ません。
この事件の真相に関する私見は、おそらくは真田昌幸の謀略であろうと思います。つまり猪俣邦憲に氏政か氏直の名で偽造した偽の書状を送って名胡桃城を奪取するように仕向けて、後でその書状を盗み出したというところではないでしょうか。
とにかく猪俣邦憲が独断で名胡桃城を奪ったとは思えないし、氏政も氏直もそんな命令を出した形跡がないことから、謀略だったと考えた方が筋が通ります。しかし偽手紙を使って城を奪った側が実は偽手紙に騙されていたとなればこれは皮肉な結果と言わざるを得ませんが、そもそも城攻略の方法も元の偽手紙に書いてあったとすれば説明がつきます。
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天守はなかなか立派なものです |
いずれにせよ未だに上洛を引き延ばす氏政の姿勢に業を煮やした秀吉は、氏政の上洛・出仕の拒否を豊臣家への従属拒否であるとみなして、ついに12月23日、諸大名に正式に追討の陣触れを発しました。これに先立って駿豆国境間が手切れに及んだことを知った氏政・氏直は、17日には北条領国内の家臣・他国衆に対して小田原への1月15日参陣を命じて迎撃の態勢を整えるに至ります。そして3月から、各方面から侵攻してくる豊臣軍を迎え撃っています。当初は碓井峠を越えてきた真田・依田に対して勝利し、駿豆国境方面でも布陣する豊臣方諸将に威力偵察するなど戦意は旺盛でしたが、秀吉の沼津着陣後には、緒戦で山中城が落城してしまいます。その後領国内の下田城、松井田城、玉縄城、岩槻城、鉢形城、八王子城、津久井城等の諸城が次々と落城してしまいます。
小田原城における籠城は4月から7月に及んでいますが、秀吉の大軍による小田原城の完全包囲、水軍による封鎖、支城の陥落などに加え、重臣松田憲秀とその庶子の笠原政晴が秀吉に内応しようとして、松田直秀がそのことを氏直に密告したため、氏直が政晴を成敗し、憲秀を拘束したことなどから、7月1日には和議を結ぶことを決意し、7月5日に秀吉方の武将・滝川雄利の陣所へ赴いて、氏直自身が切腹することにより将兵の助命を請い、秀吉に降伏しています。
俗にこの際、一月以上に渡り、北条家家臣団の抗戦派と降伏派によって繰り広げられた議論が小田原評定の語源になったと言われていますが、本来は北条家臣団が定期的(概ねの期間において毎月)に行っていた評定を指します。
しかしながら秀吉は氏直の申出について、感じ入り神妙としたものの、北条氏の討伐を招いた責任者として氏政・氏照及び宿老の松田憲秀・大道寺政繁に切腹を命じています。
井伊直政の情報では一時は助命されるという見通しもあったのですが、7月11日に氏政と弟・氏照が切腹しています。
氏政享年53。 氏照享年51。静岡県富士市の源立寺に首塚があります。
氏政の辞世の句は、「雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」、「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」。
氏照の辞世の句は、「吹くと吹く 風な恨みそ 花の春 もみじの残る 秋あればこそ」、「天地(あまつち)の 清き中より 生まれきて もとのすみかに 帰るべらなり」
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小田原城案内図 |
北条氏は豊臣家に対して徹底抗戦したため、家康や長宗我部氏、島津氏征伐の時とは異なり、極めて厳しい処置を招いたと言えるでしょう。ここに戦国大名としての小田原北条氏は滅んだのです。
小田原城を含む北条氏の領地は徳川家康のものとなり、家康は江戸城を居城としたため、徳川氏重臣の大久保忠世が小田原城主となっています。北条氏時代の小田原城は現在の小田原の市街地を包摂するような巨大な総構えを持つ城郭でしたが、大久保氏入部時代に規模を縮小させています。1614年(慶長19年)に徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させています。地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたという説もあります。と言うか、そう思わない方がどうかしていると言えましょう。
現在の小田原城址の主郭部分は、大久保氏時代に造営されたものです。土塁の城の多い関東地方においてはたいへん珍しい主要部のすべてに石垣を用いた総石垣造りの城ですが、現在のような総石垣の城になったのは1632年(寛永9年)に始められた大改修後のことです。1614年(慶長19年)、2代藩主大久保忠隣は、政争に敗れ改易の憂き目にあっています。これにより小田原城は破却され、以後5年間は番城となっています。一時はこの小田原城を2代将軍秀忠が大御所として隠居城とする考えもあったといわれていますが、結局は実現しなかったのです。
1619年(元和5年)、上総大多喜城主・阿部正次が小田原城に入っていますが、1623年(元和9年)には岩槻藩に転封となっていて、小田原城は再び番城となります。1632年(寛永9年)、下野国真岡藩から稲葉正勝が小田原に8万5千石で入封します。稲葉氏は1685年(貞享2年)に越後高田藩へ転封します。
1686年(貞享3年)に、下総佐倉藩主・大久保忠朝が10万3千石で入封しています。大久保忠朝は小田原藩最初の藩主・大久保忠世の5代目にあたり、当時は幕府の老中でした。以後は幕末・明治初頭まで大久保氏の支配が10代続いています。
小田原城は、江戸時代を通して1633年(寛永10年)と1703年(元禄16年)の2度も大地震に遭っています。なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けています。天守が再建されたのは1706年(宝永3年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続しています。
1870年(明治3年)から1872年(明治5年)にかけ、城内の建造物はほとんど取り壊され、天守台には大久保神社が建てられています。1901年(明治34年)
旧城内に小田原御用邸が設置されています。
1909年(明治42年) 唯一取り壊されなかった二の丸平櫓の修築工事が行われています。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により、御用邸は大破し、その後廃止されています。現存していた二の丸平櫓は倒壊、石垣も大部分が崩壊しています。1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて上記石垣が積み直されています。しかし、以前より低く積んでしまったため、偉容を損ねてしまっています。1935年(昭和10年)
震災で倒壊した二の丸平櫓が隅櫓として復興されたが、予算の関係で規模が2分の1となっています。1950年(昭和25年) 関東大震災で崩壊した天守台の整備を開始しています。その後、小田原城址は小田原城址公園として整備されます。
1960年(昭和35年) 天守がRC構造によって外観復元されています。ただし、小田原市当局の要望により天守最上階に高欄が取り付けられ、天守の本来の姿を忠実に再現するものではありません。天守からは太平洋や笠懸山の石垣山城がよく見えます。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(23番)に選定されています。
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住所 |
神奈川県小田原市城内 |
城郭構造 |
平山城 |
遺構 |
石垣 土塁 水堀 |
天守構造 |
複合式層塔型3重4階
(1633年築・1706年再・1960年 RC造復興) |
再建造物 |
天守 馬出門 常磐木門 銅門 隅櫓 |
築城者 |
大森頼春 |
施設 |
歴史見聞館、市立図書館、郷土文化館、レンタサイクル |
城主 |
北条氏 阿部氏 稲葉氏 大久保氏 |
駐車場 |
周辺に有料駐車場あり |
築城年 |
1417年(応永24年) |
文化財 |
国史跡 |
廃城年 |
1871年(明治4年) |
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住所 |
神奈川県小田原市城内6-1 |
電話 |
0465-23-1373 FAX 0465-22-0776 |
開館時間 |
9:00~17:00(入場は16:30まで) |
休館日 |
年末年始(12月31日~ 1月1日) |
観覧料 |
区分 |
通常料金
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割引料金
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大人 |
小・中学生 |
大人 |
小・中学生 |
天守閣・見聞館共通料金 |
600円 |
200円 |
540円 |
180円 |
天守閣 |
400円 |
150円 |
360円 |
140円 |
見聞館 |
300円 |
100円 |
270円 |
90円 |
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