史跡 大峪城跡
大峪城の概要
大峪城説明板
大峪城説明板
大峪城は、富山県富山市五福にある平城です。
戦国時代にこの地を治めていた神保長職によって築かれたと言われていますが、詳細は不明です。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉が越中国富山城城主佐々成政を討伐する為に出陣しました。この戦いを富山の役と呼んでいます。富山城攻めの本陣となった越中国白鳥城には前田利家の家臣である片山延高、岡嶋一吉が拠っていましたが、白鳥城を出て大峪城並びに安田城を改修し、白鳥城の出城として両城を守備しています。同年8月29日には、佐々成政が降伏しています。その後は片山伊賀守延高が大峪城城主となっています。
慶長2年(1597年)、延高は前田利長の命により呉服山(白鳥城の事でしょう)の守備に就きますが、山上にあるため強風に悩まされ、平地にある安田城を居城としています。
慶長4年(1599年)に、片山延高は前田利長の命により石川源太、松田直秀らによって大坂で殺害されています。
前田利家の死から7日後の事で、利家の遺言状には延高には謀反の気配があるから油断しない様に書かれていて、利長はそれに従ったものと思われます。
もう一つには徳川家康が片山延高を高く評価しており、延高にも既に徳川家康の手が回っていて、延高が実は徳川に内通していたからとも言われています。
しかしそれにしても翻意がはっきりしていないのに片山延高を暗殺するのはどうだったか。だいたい利家は油断するなと言っただけで殺せとは言っていなかったので、利長自身に何か理由があったのかなと思うのですが。
仮に内通しているからと言ってあわてて殺すのではなくしばらく泳がせて情報操作をするという手段もあったと思うのですが。
あるいは既にそうしていて見切りをつけたというのなら理解できます。
大峪城本丸跡の土塁
大峪城本丸跡の土塁
松田直秀は、北条氏の重臣松田憲秀の次男です。直秀は秀吉の小田原攻めの際に父憲秀が秀吉方に内通していることを主君の氏直に告げたために父憲秀が拘束され、長男の笠原政晴は殺害されてしまいます。これがきっかけで北条氏は降伏し、小田原城は開城しています。しかし秀吉は戦後に松田憲秀を処刑してしまい、直秀には咎めがなく前田家に高禄で仕えるようになっています。つまり松田憲秀は裏切り者だから処刑し、直秀は主君に忠実な若者だから許すとしたわけです。
ううむ、秀吉め、なかなかやるな。でも一説によると秀吉が直秀を処刑しようとしたが黒田官兵衛が直秀を助けたという話もあります。
話としては、こうです。
豊臣秀吉による小田原征伐のとき、北条家の重臣・松田憲秀は、長男・笠原政晴とともに豊臣秀吉に内応したが、内応に反対した次男・松田直秀に密告されたために、内応は失敗に終わり、松田憲秀と笠原政晴は投獄されてしまいます。
天正18年(1590年)7月、北条氏直が小田原城を出て降服したため、小田原城は内部から崩壊し、北条氏政・北条氏照も小田原城を出て、豊臣秀吉に降服した。
このとき、北条氏政は、裏切り者の松田憲秀を処刑してから開城し、豊臣秀吉に降った。これに怒った豊臣秀吉は、軍師・黒田官兵衛に「裏切り者の松田の子を殺せ」と、内応を密告した次男・松田直秀の処刑を命じたとされています。しかし、命令を受けた黒田官兵衛は、松田憲秀の内応に賛同した長男・笠原政晴を切腹させてしまいます。これに驚いた豊臣秀吉は、黒田官兵衛を呼びつけ、「ワシは裏切り者を処刑しろと命じたはずだ。どうして、内応に賛成した長男・笠原政晴を切った」と問いただした。
すると、黒田官兵衛は「次男・松田直秀は親不孝ですが、内応を密告した忠義者です。一方、長男・笠原政晴は親孝行ですが、主君に背く不忠者です。裏切り者を殺せと命じられましたので、主君に背いて寝返ろうとした長男・笠原政晴を処刑しました」と答えた。すると、豊臣秀吉は、長男・笠原政晴を切腹させた件について、これ以上、追求する事は無かったといいます。
さて、黒田官兵衛の機転によって命が助かった次男・松田直秀は、高野山へ追放となった北条氏直に従って高野山へと移っていきました。その後、前田家に4000石で召し抱えられています。
大峪城東側の土塁
大峪城東側の土塁
しかし、この話は前後関係に間違いがあるので信用できません。松田憲秀の謀反が発覚した時に笠原政晴は、北条氏によって殺害されていますし、降伏時に松田憲秀が処刑されたという話も事実ではないのです。ですから、これはやはり秀吉の判断で松田憲秀が処刑されたのだと考えられます。
参考までに言うと、小田原合戦で戦後に処刑されたのは、北条氏政、氏照に大道寺政繁、松田憲秀の4人でした。
このうち氏政、氏照の二人は主戦派だったために切腹させられたと理解できます。
しかし大道寺政繁は松井田城に立て籠もり、秀吉軍の攻撃を受けて降伏し、その後は秀吉軍に協力していること、松田憲秀は堀秀治に内通していたが事が露見して捕らえられていたことから秀吉側が後の二人を処刑するのはやや不可解なのですが、判断基準としては北条氏に不忠だった者を処刑したのだと考えれば納得できますので、直秀は逆に主君に忠実であった事から咎めがなかったのだと言えます。
いずれにせよ、大峪城城主の片山伊賀守が殺害され、城には城代が置かれたものの、関ヶ原戦の頃には廃城となっていると考えられます。まあ、近くには富山城、安田城、白鳥城がありますし、この城の存在価値は低くなっていたので早晩廃城になる運命だったとも言えるのですが。
この大峪城の古図を見ると本丸、二の丸を土塁と水堀が囲み、その外郭にも土塁と水堀があり、井田川から水を引き入れていたことがわかります。城域はかなり広く、総構えの城となっています。
城の構造としては織豊系城郭の性格を持っていますが、石垣は見あたりませんし、天守の存在も確認できません。
神保長職が築いた小城を前田利家が改修して、けっこうな規模の平城に造り直したというところでしょうか。
大峪城跡
住所 富山県富山市五福 形式 並郭式平城
遺構 土塁  築城者 神保長職
施設 説明板 城主 神保氏 片山延高
駐車場 なし 築城年 戦国期
文化財 なし 廃城年 1600年頃
史跡 大峪城跡マップ
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