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石動山の説明板 |
石動山(せきどうさん)は、石川県鹿島郡中能登町、七尾市及び富山県氷見市にかけて広がる寺院跡、城郭伽藍跡です。
石動山の標高は565m。開山は紀元前92年(崇神天皇6年)とも717年(養老元年)とも言われていて、延喜式には伊須流岐比古神社として登場します。養老年間に泰澄が開いたという説が妥当としても、それ以前から既に霊場として開かれていたとしても全く不思議ではありませんので、どちらも正しいのかもしれません。
756年には泰澄が講堂を建立し、石動寺をあらためて天平勝宝寺としています。767年、泰澄の死後には真言宗の仁和寺・勧修寺の法親王が交互に、大宮坊座主位を管摂するとされました。
鎌倉時代には、五社権現と呼ばれ、厳しい山岳修行を求めて多くの修験者らが石動山に集まるようになりました。そして真言密教の霊峰として広く知られるようになりました。京都仁和寺を本山とし、後白河天皇の皇女宣陽門院の祈願所でもありその権威は高いものがあったようです。さらに757年には北國七ヶ国の智識米勧進の特権を持つようになり、急速に勢力を伸ばすようになりました。最盛期の中世には、本社以下80末社、院坊360余り、衆徒約3,000人の規模を誇ったと伝えられています。
石動山衆徒は「智識米」として一戸当り3升の米を集め、しかもしばしば強引に行われたため、衆徒たちは「泣く子も黙る石動山衆徒」と怖れられていました。
しかし南北朝時代と戦国時代の二度の全山焼き討ちと明治の廃仏毀釈によって衰亡してしまい、現在では廃寺となっています。山頂一帯は国史跡に指定されています。
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伊須流岐比古神社の登り口 |
南北朝時代には、南朝と北朝の両者の争いが北陸地方にも及ぶようになりました。
建武親政下における地方の支配組織は、朝廷が任命する地方長官としての国司と幕府が任命する守護が並立していました。
このような後醍醐天皇の公家優先の復古政策は、大半の武士勢力の反発をまねき、やがて彼らは鎌倉幕府打倒の功労者であり、武士の棟梁でもある足利尊氏を担いで後醍醐天皇と対立するようになりました。
太平記によると、建武2年(1335年)10月27日に足利尊氏の呼びかけに応じた越中国守護・普門蔵人利清が、同族の井上氏や、野尻・長沢・波多野らの越中諸氏と共に軍勢を集めて、越中国司・中院定清を攻撃する事態となりました。
中院定清は、南朝方だった石動山衆徒を頼って石動山に立て籠もりました。しかし普門利清は大軍で石動山を攻撃したため、石動山衆徒は奮戦したものの、同年12月12日、ついに中院定清が討ち取られ、同時に石動山寺院をも焼亡しています。この戦いは石動山合戦と呼ばれ、これにより一旦、石動山は衰亡してしまいます。
しかし、興国2年(暦応4年:1341年)、光明天皇が室町幕府に命じ、足利尊氏が石動山を再興する事となりました
同年本山の勧修寺から導師を迎えて、再建の堂塔供養が執り行われました。つまりこの時から、本山は真言宗の御室仁和寺から、同じ真言宗で山科にあった勧修寺に変わったことになります。
応永23年(1416年)には、本山勧修寺の導師を迎えて、石動山五重塔跡・講堂の造立つ供養が行なわれています。
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大宮坊御成門 |
この頃には、検校(寺務)職は、勧修寺二品法親王寛胤、別当は慈尊院栄海僧正とされていました。御会符一巻によると、当時なお360余坊、寺領4万3000石とあります。これは最盛期の勢力と同等ですので、名実ともに再興されたと言えましょう。
その後、戦国時代になると、石動山が再び戦場となってしまいます。
戦国時代では能登国は畠山氏が七尾城に割拠していましたが、重臣たちの勢力も強く、畠山氏の権威は地に墜ちていました。
そして西からは織田氏の勢力が東からは上杉氏の勢力が伸びてきて、その接点となっていました。畠山氏は基本的には親上杉で同盟関係がありましたが、筆頭重臣の長続連・綱連(つなつら)父子は密かに織田信長に与するようになり、これが実権を持つようになりました。上杉謙信は、能登国が織田方になることを恐れて、長氏一族を滅ぼして能登を制圧するため、天正4年(1573年)5月に一向一揆と和睦し、さらに同年11月には能登国に侵攻してきました。七尾城内では、上杉謙信からの降伏を勧める手紙をめぐって、重臣達の間で、会議がもたれています。信長側に立とうという長氏と、謙信側に立とうという遊佐氏とに意見が分かれたが、長氏の意見が通り、七尾城は謙信の和議を拒絶して抗戦することに決しました。謙信は1万の兵を引き連れ、七尾城下の天神川原に陣取り、七尾城では、城の各部所に分かれた2千の兵が立てこもっています。
この際に謙信は長期戦を覚悟して、七尾城の裏手にあたる石動山の大宮坊の大師堂裏手の山に石動山城を築いています。そして直江大和守景綱を守将としてここに置いています。
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復元された大宮坊書院台所棟 |
石動山城の山城の名が資料で最初に見えるのは、弘治3年(1557年)に、温井備中守景隆がここに築砦し、城兵を置いた時の事ですが、実際にはそれ以前から石動山衆徒によって古くから砦が築かれていたものでしょう。
南北朝の時代にも越中国司・中院定清がここに立て籠もったというのも、ここが既に城郭としての機能を持っていたからと考えられます。現在跡を辿っても、七口といわれる、尾根筋を辿る各登拝口の要所要所には、空堀や土塁などの防御施設が築かれているのがわかります。また参拝道も曲がりくねり、敵の侵入を防ぐ造りになっています。
つまり大宮坊背後の本城は、以前から石動山衆徒の本丸であったと考えていいでしょう。上杉謙信は、その堡塁・砦などを補強し、利用したと考えるのが妥当でしょう。石動山衆徒は、永禄12年(1569)越中を制圧した謙信に対して、戦勝を祈願し大般若経を転読して巻数を送るなど、これ以前から謙信方についていたと考えられます。
しかし自然の要害を巧みに利用した難攻不落を誇る七尾城は容易には落ちません。長綱連は、一向一揆を扇動し謙信の背後から攻めさせたが、結果は戦上手な謙信に逆襲され、一向一揆は撃退されてしまいます。
謙信は、一段と激しく城を攻めて、能登で越年して翌年3月まで滞陣していますが、関東での政情不安(北条氏の上杉氏領内進入)によりいったん越後に帰国しています。この知らせで勢いを盛り返した城兵は、七尾城を包囲する残留守備兵を蹴散らし、失った熊木城・富木城をいったん奪い返しています。
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大宮坊石垣 |
天正5年閏7月、上杉謙信が再び能登に攻め入ってきました。この再度の謙信の遠征のため『能登国司畠山殿伝記』では、「国中の男女が謙信を恐れ、驚き、殿、助けてくれ!!と城内に入り、山中にあふれ、謙信は、石動山大宮坊に止宿して総指揮をとった。そして7月より9月まで、城を取り巻き攻め立て、城内城外を問わず、雑人共の糞尿で悪臭がたち込め、悪病が流行し、病死する者多し」と記されるような苦境に陥っています。
この苦境を脱するためには信長の援軍を頼むしかないと、長綱連は弟の長連龍を信長の許に派遣して、救援を依頼させています。一方、上杉謙信も、遊佐続光へ密かに手紙を送り、降伏を勧めています。遊佐続光は、温井・三宅の重臣を誘って謙信に降伏及び城の明け渡しを約束しています。遊佐続光は長綱連にこれ以上戦うことは無理だと降伏を勧めましたが、長綱連は信長の援軍が必ず来ると信じて、降伏は武士の恥である、としてこれを拒絶しています。遊佐続光はもはやこれまでと、城門を開き上杉軍を城内に引き入れています。
9月15日、上杉軍は遊佐続光の内応によって城内に侵入し、最後まで抵抗した長続連・綱連ら一族100余人を討ち取り、ついに七尾城を陥落させたのです。
謙信は、この時、石動山大宮坊の本陣に陣を構え、七尾城開城の知らせを聞いています。
一方、落城を知らない長連龍は、信長の家臣羽柴秀吉・柴田勝家・前田利長の4万の援軍を先導して、七尾に向かって進軍してきましたが、途中の加賀水島で落城を聞かされ、さらに、兄をはじめ一族の晒し首を倉部浜(松任市)で見て、悔し涙を流し、復讐を誓っています。また奥能登の松波城も9月25日に落城し、松波城主の畠山義親も戦死しています。ここに能登は、ことごとく謙信によって征服されたのです。
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伊須流岐比古神社の鳥居 |
ところが天正6年(1578年)3月に上杉謙信が急死してしまいます。これにより能登に再び戦雲が巻き起こります。
七尾落城の折り、父続連から織田信長の許に援軍要請に派遣されていて、一人生き残った長連龍は、畠山重臣で上杉方に内応した遊佐続光・温井景隆・三宅長盛に対する復讐の念に燃えていました。同年6月越前から海路で羽咋郡富来についた長連龍は穴水城を奪回しましたが、すぐに温井・三宅氏や上杉勢に逐われ、越中国氷見に逃れて神保氏張を頼っています。
11月、信長は越中の諸将に長連龍への合力を命じています。ところが、温井・三宅兄弟は、上杉方を離反して信長に帰服しています。そこで天正7年(1579年)になると、信長は連龍に温井・三宅への遺恨を捨てるように再三説得を試みますが、連龍はなかなか従いません。相当恨んでいたようですね。温井・三宅兄弟は、同年8月頃、鯵坂長実を七尾城から逐って能登の上杉勢力を排除し、平・遊佐等も含む畠山旧臣の合議体制を樹立しています。これに対して長連龍は、同年冬から能登侵攻を開始し、羽咋郡敷波宿に陣を据え、翌8年3月には同郡福水に移り、丹治山福水寺を拠点としています。温井・三宅等の七尾方も、本郷鉢伏山や金丸仏性山等の砦に拠り、邑知潟をはさんで対峙しています。能登の主導権をめぐる長連龍と温井・三宅等との戦いは、同8年5月5日と6月9日の2度、菱脇(現羽咋市)を中心に展開し、いずれも長連龍が勝利を収めています。敗北した畠山旧家臣団は、三宅長盛を信長の許に派遣して、降伏と七尾城明け渡しを願い出ています。信長はこれを容れ、連龍に追撃をやめさせ、9月1日鹿島半郡の二宮川以西59ヶ村を与え、居城を福水とすることを承認しています。
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伊須流岐比古神社拝殿 |
天正9年(1581年)3月、信長は菅屋長頼を七尾城代として派遣しています。この際に遊佐続光・盛光父子は七尾城を逐電したが、6月長連龍に捕らわれて殺害されています。危険を感じた温井景隆・三宅長盛兄弟は、石動山に逃れ、さらに上杉景勝を頼って越後に逃亡しています。8月、能登一国は前田利家に与えられ、連龍の鹿島半郡は2重知行の形となった。上杉方に味方した石動山は、この年に織田信長から天平寺領5千貫を没収されて、1千貫に削減されています。
天正10年(1582年)6月2日、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、越後にあった温井景隆・三宅長盛兄弟は、寺領を削減した信長に対して密かに奪回を画策していた石動山衆徒と結び、また上杉方の助勢も借りて能登奪回を企てたのです。
そして6月23日(実際には7月らしいが)に石動山に近い荒山城に入り、能登国を支配していた前田利家と対峙することとなりました。利家は、越前の柴田利家と佐久間盛政に書を送って加勢を頼み、自分は先手をとって3000人の兵で石動山に進み、石動山と荒山城の中間にある柴峠に陣を張り、石動山の温井景隆・三宅長盛兄弟の軍勢4300人が、荒山城に向かうところを急襲しています。温井景隆・三宅長盛軍は、不意を突かれて、荒山城に立て籠もりました。
佐久間盛政は、2500人の兵を引き連れ、高畠に陣取っていましたが、その知らせを聞き直ちに荒山城を攻めたてます。この攻撃で温井景隆・三宅長盛・遊佐長員は討ち取られ、利家は伊賀の倫組50余人に石動山の伽藍に放火させ、敵軍を破っています。
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石動山城主郭 |
石動山は、この天正10年の石動山の戦いで360余坊あった寺院群が、再び灰燼に帰してしまっています。この敗戦によって、石動山衆徒は、北方の伊掛山(七尾市江泊町)に移され、監視されることとなっています。同年、天平寺領から没収された土地のうち、鹿島半郡が長連龍に与えられています。
天正11年(1583年)、朝廷は石動山天平寺の再興を、時の権力者・羽柴秀吉に命じています。また、同年に正親町天皇は、石動山再興の綸旨を下しました。前田利家は、秀吉の命を受けて、大窪村(富山県氷見市)大工に屋敷地を与え、石動山天平寺の再興に携わります。天正19年(1591年)には、利家は、大呑沢野村(七尾市沢野町)の内100俵を石動山天平寺に寄進しています。慶長2年(1597年)、利家は、石動山天平寺の僧の監視を解き、伊掛山から石動山へ還ることを許しました。そして承応2年(1653年)には、前田利常が石動山本社(現在の本殿)を建立しています。
その後、江戸時代を通じて石動山は前田氏の保護下にあったのですが、明治維新を迎えて、明治元年(1868年)には神仏分離令が発せられ、以後、全国に廃仏毀釈運動が吹き荒れることとなり、石動山も明治5年~7年にかけて、主要な建物が売却されて、廃寺となり、以降再興されることもありませんでした。
その後、発掘調査が入り、昭和53年(1978年)には一帯が国史跡に指定されています。
平成14年(2002年)には大宮坊が復元されています。大宮坊は、書院台所棟、御成門、台所門、番所、厠が復元されています。
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石川県指定文化財 旧観坊 |
さて大宮坊裏手にある石動山城ですが、主郭はさほど広くはないのですが、その外周には空堀が巡らされているのが確認できました。さらに主郭の周囲にはいくつもの腰曲輪があります。
つまりこの城は天平寺伽藍を守るために築かれた城で万一の時にはここに籠るつもりだったと考えるべきで、一時的に築いた陣城ではないのだと思います。上杉氏がこのあたりを支配していた際に、城をある程度改修した可能性もありますが、
しかし城の規模としてはさほど大規模なものではなく、実際に大軍で攻められたら守りきれるとは思えません。
実際にも二度も焼き討ちに遭っていて、全山が灰燼に帰す結果になっています。
さらに言えば、二度ともどちらかというとこの石動山の要害を頼ってきたものを庇ったために、焼き討ちにあったと言えます。
つまり本来は霊場として信仰を集めていた石動山が次第に勢力を大きくしていったために、ここを守る必要が生じて来たために城郭化したのだと考えた方が良いでしょう。
さて、史跡としての石動山ですが、これは極めて広大な領域に坊跡が点在し、遺構として石垣跡が多数残っています。これだけの範囲に遺構が現存している上に山側にも多数の遺構があるので、これをすべて攻略するのは体力的にも時間的にもかなりの困難さが予想されます。と言うわけで、極めて見所が多い史跡ですが、ここを訪れる際には充分体力を残した状態で時間的にも余裕を持ってこないと、とても全部は回りきれないと思います。筆者は、ここを訪れる前に手前にある荒山砦を攻略していたために、時間的にも体力的にも余裕がなかったので、すべてを回りきれませんでした。ただし、山側の遺構はほぼ回れたのですが、山麓側の広い範囲に残る坊跡まではすべては回りきれなかったのが実際です。ここを訪れる際には少なくとも半日は必要と考えてください。
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復元番所(左)と復元厠 |
書院台所棟式台 |
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書院台所棟次の間 |
書院台所棟茶湯の間 |
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書院台所棟書院座敷 |
書院台所棟厠 |
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大宮坊台所門 |
大宮坊厠 |
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経蔵跡 |
多宝塔跡 |
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籠堂跡 |
開山堂跡説明板 |
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梅の宮跡説明板 |
梅の宮跡 |
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石動山城空堀に残雪 |
石動山城跡 |
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大御前への石段 |
大御前 |
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大御前から火の宮跡への石段 |
火の宮跡説明板 |
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火の宮跡の石垣 |
剣の宮跡説明板 |
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剣の宮跡の石垣 |
作事場跡 |
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円光坊跡 |
行者堂説明板 |
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行者堂 |
三蔵坊跡 |
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玉橋跡 |
宝珠院跡 |
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大師堂跡 |
五重塔跡 |
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伊須流岐比古神社本殿 |
聖護院道興御歌の碑 |
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雨乞所跡 |
イワシガ池 |
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鐘楼跡 |
宝池院跡 |
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宝池院跡に残る石垣遺構 |
宝池院跡には石が散乱しています |
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宝池院跡に残る礎石 |
宝池院跡の井戸跡 |
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安養院跡 |
安養院跡の井戸跡 |
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釈迦院跡 |
釈迦院跡の石垣 |
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戒定院跡 |
なんと井戸から木が・・・ |
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仏頂院跡 |
元々は石垣だったのでしょうか |
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仏頂院跡は低地で石に囲まれています |
仏頂院跡の全景 |
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大覚坊跡 |
宝池院跡 |
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宝池院跡石垣 |
慈光院跡 |
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石垣跡 |
月光坊跡 |
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一明坊跡 |
真蔵院跡 |
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随観坊跡 |
延命院跡 |
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東蔵院跡 |
石垣跡 |
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心王院跡の石垣跡 |
心王院跡を示す碑 |
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心王院跡入口の石垣跡 |
心王院跡 |
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心王院跡から宝珠院跡の石垣 |
宝珠院跡の標識 |
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宝珠院跡の石垣 |
石垣は全般的に低いものです |
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花蔵院跡 |
顕実坊跡の標識 |
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動字石の案内板 |
動字石 |
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顕実坊跡 |
顕実坊跡と来智院跡の間にある池 |
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来智院跡 |
井戸の覆いが破壊されていましたが・・・ |
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日乗院跡 |
日乗院跡を示す標識 |
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明勝坊跡 |
五智院跡 |
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五智院跡経塚石層塔群 |
五智院跡経塚石層塔群の説明板 |
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五智院跡 |
大宝院跡 |
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大宝院跡からの通路そばにある石垣 |
大徳坊跡と石垣 |
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道任坊跡の石垣 |
とにかく石垣が多いてすね |
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道任坊跡 |
土塁やら礎石らしい石がありますね |
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道任坊跡を示す標識 |
良智坊跡と福智院跡 |
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道任坊跡を守る石垣 |
良智坊跡 |
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福智院跡 |
福智院跡の石垣 |
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福智院跡へ入る通路 |
松本坊跡 |
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妙高院跡 |
宝性院跡と井戸跡 |
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慈光院跡の石垣 |
慈光院跡は石垣で囲まれています |
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慈光院跡は駐車場になっています |
仏蔵坊跡 |
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日澄寺正門 |
日澄寺 |
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仏蔵坊跡にある礎石 |
宝達坊跡も駐車場化しています |
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仏蔵坊跡と大宮坊の間にある石垣 |
行住院跡 |
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旧観坊を囲む石垣 |
旧観坊を囲む石垣と入口 |
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旧観坊正面 |
旧観坊全景 |
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旧観坊は唯一現存する建造物です |
重蔵院跡 |
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性空坊跡への通路 |
千手院を囲む石垣 |
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性空坊跡に残る井戸跡 |
性空坊跡には井戸跡が2つもあります |
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性空坊跡 |
千手院跡 |
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井戸跡 |
仁王門跡 |
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大宮坊内部 |
大宮坊縁側 |
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大宮坊居間 |
大宮坊土間 |
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大宮坊本堂跡 |
証誠殿跡 |
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住所 |
石川県鹿島郡中能登町石動山ラ部1番地2 |
電話 |
0767-76-0408 FAX:0767-76-0408 |
営業時間 |
午前9時から午後5時 |
休館日 |
毎週火曜日(火曜日が祝日の場合は翌日) |
冬期休館 |
12月1日~3月20日 |
入館料 |
(個人) 大人200円 ・小人 100円
(団体)(20名以上) 大人160円 ・小・中学生 無料 |
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所在地 |
石川県鹿島郡中能登町・七尾市・富山県氷見市 |
形式 |
山城 (標高520m/比高30m) |
遺構 |
郭、土塁、石垣、空堀、堀切、拝殿、行者堂、旧観坊、井戸 |
築城者 |
石動山衆徒 |
再建築物 |
大宮坊、門、石垣、堀、厠 |
城主 |
天平寺、直江景綱 |
駐車場 |
無料駐車場あり |
築城年 |
不明 |
文化財 |
国史跡 |
廃城年 |
1582年 |
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