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堅田城の登城口 |
堅田城は石川県金沢市堅田町にある山城跡です。現在は、金沢市指定史跡となっています。
金沢市の東側にある国立医王病院の裏手の山頂付近に城跡はあります。現在では、山側環状線の森本トンネルが真下の山の中をくりぬいています。
堅田城の縄張りは、西から階段状に5つの郭が連郭式に配置されていて、東側の4つ目の郭が主郭となっていて、その中でも土塁がやや高くなっているところに四等三角点があり、その標高は113.3mで最高地点となっています。主郭は約50m×30mという規模で最も広い郭です。主郭の削平状態は、ややいい加減という気もしますが、おそらくは自然の地形にやや手を入れただけというところが。しかし周囲の一部には土塁の形跡が残っています。
主郭から北に延びる尾根には巨大な堀切があり、副郭があってその北にさらに堀切があるという厳重な防御が施されています。
南側も同様に二重の堀切に守られていて、厳重な防御がなされていて、なかなかつけ込む隙を与えません。
堅田城の西側の郭群のさらに西側の斜面にも巨大な堀切があり、さらにその北側の斜面には巨大な畝状竪堀群があります。
これは圧巻で、これを見るだけでもここに来る価値があるというものです。このような畝状竪堀群というのは上杉氏の城によく見られるもので、もしかすると上杉氏の手で改修されているのかも知れません。
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堅田城の畝状竪堀群 |
この堅田城は、言うまでもありませんが金沢城の近くにあり無関係とは思えませんが、いかにも中世山城という造りで、前田氏が手がけた織豊系城郭とは異なる造りと思われますので、やはり一向一揆が築城したのだろうと思われます。
このあたりは1580年までは一向一揆の支配下でしたが、金沢御坊が織田方の手に落ちたときにここも落城したかあるいは降伏したのだと考える方が妥当でしょうか。その際に廃城になったか、あるいはしばらくは佐久間氏あるいは前田氏が使用していたのかもしれませんが、そう考えると一応は辻褄が合いますが果たして事実はどうなのか。
今のところ、残念ながらこの城の歴史的な背景は今ひとつ判然としていませんが、この城に実際に登城してみると、たいへん見晴らしが良く、交通の要衝を守るための城という位置づけが感じられるのと、これまでの発掘調査からは弥生時代後期から織豊時代に至るまでこの城が使用されてきたという事実が判明しています。
この堅田城は、歴史的背景が判明していない割には、その遺構はたいへん保存状態が良く、史跡としての価値が高いので、この城の歴史的背景が判明すれば国史跡となってもおかしくないレベルです。
さて、この堅田城を我が軍が攻めるとすればどうするかですが、もっとも手薄なのが南東側なのでここの尾根筋を伝って主郭に攻め込みたいところですが、ここから攻めると守備側からは丸見えなので被害が大きくなりそうです。で、ここから攻める際には北側と南側からも同時に攻め込んで守備側に的を絞らせないようにする必要があるでしょう。主郭に入ってしまえば他の郭を落とすのはたやすいでしょう。しかしいずれにしても厳重な防御が施されている城ですので、攻め落とすのはたいへんでしょう。
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堅田城説明板 |
南西側からの登城道 |
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虎口付近 |
登城道は曲がりくねっています |
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虎口にあった案内板 |
西側の郭 |
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主郭の最高地点には三角点がありました |
主郭 |
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主郭はけっこう広いのです |
主郭にあった説明板 |
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南東側から主郭への虎口 |
虎口の下にある郭 |
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南東側から主郭への虎口 |
南東側の郭から伸びる尾根筋 |
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郭の北側は土塁で守られています |
ここからは金沢森本インターがよく見えます |
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主郭北側の郭 |
主郭を北側から |
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大きな堀切 |
畝状竪堀群への分岐点 |
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大きな堀切 |
畝状竪堀群 |
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竪堀が並んでいる様子がわかります |
畝状竪堀群 |
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畝状竪堀群 |
畝状竪堀群 |
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巨大な堀切 |
竪堀 |
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城への入口にはこのような看板があります |
登城道は極めて急坂です |
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階段は急な上に曲がりくねっています |
真下には医王病院があります |
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延々と階段が続きます |
細い尾根の上の登城道は急で曲がりくねります |
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ここは健脚の人でないとへとへとになります |
途中に土塁や堀切の類は見あたりませんね |
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いよいよ城の内部に突入します |
ここから左に入ると畝状竪堀群に入れます |
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畝状竪堀群の手前には堀切が走っています |
畝状竪堀群の入口です |
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畝状竪堀群の手前には案内板があります |
畝状竪堀群は何本もの竪堀が並んでいます |
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うねりが明確に残る残る畝状竪堀群です |
これだけの大規模な畝状竪堀群は滅多にない |
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左側に竪堀があります |
いったい何本の竪堀が走っているのか |
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あまりにも見事な畝状竪堀群には感動すら覚えます |
ここへ入り込んでしまうと身動きが取れないでしょう |
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主郭への登城道との合流地点に戻ります |
さらに城の中心部に向かいます |
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階段の右側には大きな堀切が |
しかしこれだけ急勾配が続く山城もけっこう珍しいかも |
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そろそろ曲輪が見えるはずですが・・・ |
ここまでくるとだいぶへたばっています |
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腰曲輪が主郭の真下にありますね |
曲輪に入る手前にきました |
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虎口に入ります |
虎口に案内板が設置してありました |
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主郭の直下にある西三の曲輪です |
この曲輪にはどんな建物があったのだろうか |
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西二の曲輪から主郭への上り道です |
主郭への階段を登ります |
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ようやく主郭です |
主郭の北側には土塁があります |
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主郭は最も広い曲輪です |
主郭の削平はやや不十分な気がしますが |
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主郭にはどんな建物があったのだろうか |
主郭はきれいに整備されています |
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主郭の端に土塁があり、ここに櫓があったようです |
主郭に設置されている説明板 |
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主郭の周囲は土塁で守られています |
下部の曲輪から主郭に入る虎口 |
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主郭から一段低いところに小さな曲輪が |
主郭から下部の東曲輪へ入る |
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東曲輪は小さな曲輪です |
東曲輪から主郭に入る虎口 |
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東曲輪に設置された案内板 |
東曲輪には見張り所程度の建物しかなかったのでは |
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東曲輪からさらに東側に向かいます |
この階段は急な上に曲がりくねっています |
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ここから侵入するのは困難ですね |
東側に抜ける通路が堀切で分断されています |
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東側へ尾根伝いに抜ける通路は実は抜け道では |
堀切は本来はこれよりもはるかに深かったはず |
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こちらは多分搦手口でしょう |
東曲輪に入る虎口 |
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東曲輪から主郭に入る虎口 |
櫓台跡から見た主郭 |
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住所 |
石川県金沢市堅田町 |
形式 |
連郭式山城 (標高113m/比高80m) |
遺構 |
曲輪、土塁、空堀、虎口、畝状竪堀群 |
築城者 |
木曾義仲(ただし詳細は不明) |
施設 |
案内板 |
城主 |
木曾義仲 一向一揆 |
駐車場 |
あり |
築城年 |
平安時代末期か |
文化財 |
金沢市指定史跡 |
廃城年 |
戦国期 |
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