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宮崎城案内板 |
宮崎城は、富山県下新川郡朝日町城山にある古代の山城跡です。富山県史跡に指定されています。
当城は標高249mの城山山頂から山腹にかけて築かれていて、郭、堀切、石垣、土塁、虎口、墳墓、供養塔などの遺構が現存しています。当城は越中国・越後国の国境に位置していて、親不知の東側という条件から交通の要地として過去にも幾多の戦闘が行われています。寿永元年(1182年)に平家討伐の令旨を発給した以仁王の第一皇子北陸宮が北陸に逃れ、これを迎え入れた木曽義仲に庇護されて義仲配下の在地勢力であった宮崎太郎長康により、寿永2年(1183年)に北陸宮の御座所として築かれたのがこの宮崎城の起源とされています。そのため今でも三の丸には北陸宮の墳墓と宮崎太郎長康の供養塔が現存しています。
この時点で宮崎城が厳重な城郭として整備されたのかどうか詳細は不明ですが、現在の遺構はやはり戦国時代に築かれたか改修されたものと考えるのが妥当でしょう。
『長尾氏系図』には、南北朝期に越後守護職上杉憲顕(関東管領)の命により守護代長尾景忠が南朝勢力の籠る越中宮崎要害で勝利を得たとの記述があり、宮崎城は越中の「境目の城」として越後勢力との争奪戦が繰り広げられたと考えられます。
永正16年(1519年)、「越中永正の乱」に介入した越後守護代長尾為景は能登守護職畠山義総とともに越中守護代神保慶宗を討伐し、その功で同18年(1521年)に越中国新川郡守護代を与えられます。この時に宮崎城は越後長尾氏の越中における拠点に
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宮崎城本丸 |
なったと考えられます。
永禄3年(1560年)、富山城主神保長職が武田信玄・一向一揆勢力と結び、椎名康胤の籠る松倉城を攻撃したため、長尾景虎(上杉謙信)は越後に出陣しています。さらに同11年(1568年)には今度は上杉被官であった椎名康胤が武田信玄・一向一揆勢力と結び上杉氏に叛した為、謙信は越中に出陣して松倉城を攻略し、椎名氏を追放して新川郡を勢力下に置いています。その後、上杉軍は順次越中国内に勢力を拡大し、天正4年(1576年)には神保氏の居城増山城、椎名氏の居城蓮沼城を攻略して越中を制圧し、この間越中領内の各城に城将を配置しています。なお宮崎城には柿崎和泉守が在城しています。天正11年(1583年)、宮崎城は佐々成政に攻略されて佐々氏の勢力下に組み込まれますが、同13年(1585年)には羽柴秀吉が越中に侵攻してきて佐々成政は秀吉に降伏し、結局は肥後に国替えとなり、越中国は前田利家の領国となり宮崎城へは前田被官の高畠氏・小塚氏が配置されています。しかし境関所が整備されたため慶長19年(1614年)に廃城となっています。
この宮崎城は、戦時中には電波技術研究所建設用地にされており、その時期に旧来の地形にかなり手が入ったようです。
かつての曲輪が存在した尾根筋は、あまりにも平らに整地されていますが、これらは大半は近年の工事によるものです。だいたい現在の地形ではまったく無防備な城ということになり、堅固な山城という印象ではありません。実際の地形は、もっと険しい地形であったのだろうと考えられます。
また鷲野曲輪虎口が現存していますが、なぜかその位置にトイレが設置されているのはどういう意図があってのことでしょうか。
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宮崎城三の丸の石垣跡 |
これはちょっと嫌がらせ的なやり方と思われても仕方ないようですが、たぶんこれを造った人たちは虎口の存在の意味がよくわかっていなかったのでしょうね。
本丸は東西70-80m、南北40-50mほどの平坦地の中に櫓台となる高い部分が石垣の上にあり、その広さは20m×15m・高さ6-7mで天守などはなく、せいぜい櫓があっただけと思われます。櫓台の周りには石垣が築かれています。
さらに本丸の南側にも郭がありますが、東西50-60m、南北110-120mの広い郭で、南東隅には櫓台が築かれています。
さらに尾根筋は堀切で分断されていますが、土橋の部分は造成されていて当時とは異なり広く高くなっているようです。
二の丸は、本丸から10m下に位置する郭で、東西20-25m×南北10-15mほどの小さな郭です。さらに二の丸から10-15m下には小郭を1段挟んで三の丸が配置されています。三の丸は東西40-50m×南北20-25mほどの規模で二の丸よりは広い郭です。南側縁部には内側を石積で補強した高さ1.5-2mの土塁が部分的に残存しています。
さてこの城を我が軍が攻めるということですが、鷲野曲輪虎口からの侵入を果たせば落城も容易ですが、標高も高い城でなかなかここまで到達するだけでもたいへんな城と思われます。
しかし力攻めすればそれほど堅固な山城とも言えませんので落とすことも可能でしょう。
この宮崎城は、県史跡となっていて公園として整備されていますし、自動車で城の近くまでたどり着けますので、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。特にこの城からの眺望は素晴らしく、これを見るだけでもここへ来る甲斐があるというものです。
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宮崎城鷲野曲輪虎口 |
宮崎城本丸櫓台跡の石垣 |
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宮崎城二の丸下の石垣 |
宮崎城本丸の石垣群 |
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三の丸の北陸宮墳墓 |
宮崎太郎長康公供養塔 |
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本丸に設置された三角点 |
本丸への石段 |
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櫓台跡 |
二の丸跡 |
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三の丸跡 |
三の丸跡の石垣跡 |
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住所 |
富山県下新川郡朝日町城山 |
形式 |
連郭式山城 (標高249m/比高240m) |
遺構 |
郭・土塁・石垣・堀切・虎口・古墳・供養塔 |
築城者 |
宮崎太郎長康 |
施設 |
石碑 案内板 トイレ |
城主 |
宮崎氏 長尾(上杉)氏 佐々成政 前田氏 |
駐車場 |
無料 |
築城年 |
寿永2年(1183年) |
文化財 |
県指定史跡 |
廃城年 |
慶長19年(1614年) |
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