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日宮城全景 |
日宮城(ひのみやじょう)は、富山県射水市下条に存在した城です。別名として火宮城、二上山城、橋下条城とも呼ばれています。現在は、射水市指定史跡になっています。
小規模な丘陵地である笹山を利用した一城別郭方式の山城(丘城)です。
主郭は北東の丘陵(標高20m)であるといわれています。しかしその南、南西にある郭も同規模ですし、実際にも南西の郭が主郭であるとする説もあります。しかし、南西の郭は自然のままで土塁や堀切らしきものが見あたらないことと、また他の丘陵とは独立した郭であるという点など、主郭である可能性は少ないと思われます。実際にここを訪れると現在ではここには日宮社があり、郭への通路も最も急勾配であり、本来ならばここを主郭としても良かったと思うのですが。ただ、主郭ではないとしてもここを城として使わない手はないと思うのは私だけではないでしょう。自然のままでも外側さえ水濠であれば防御できると思います。
北東部の主郭は土塁、堀切を効果的に使い、入り組んだ構造となっています。南の郭は他の郭よりなだらかな丘陵に作られており、主郭よりも平坦面が広いのです。ここには土塁や堀切の他に竪堀も設置されています。主郭の東には二の丸とされる郭がありますが、ここには県道が通っていてかなり削られています。二の丸脇の道路及び住宅地一帯は、太閤山団地が造成される前までは、元々胸まで浸かるほどの沼地が広がっていました。当時は城の周りは水濠で囲まれていたとされています。
この日宮城の築城年代は不明だが、戦国時代には越中守護代である神保氏当主の神保長職が、1562年(永禄5年)に越中国増山城を居城とする前にこの城に拠っていたといわれています。つまり1562年以前に既に築城されていたと考えられます。
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日宮城説明板 |
神保長職が増山城へ移ると、越中国富崎城等と同様にその支城として神保氏の支配下にあったと考えられます。
神保慶宗が長尾氏に討たれて没落していた神保氏は長職の代になって急速に勢力を拡大し、1543年(天文12年)に越中国富山城を築城して越中国新川郡を領有する椎名氏との激しい抗争が始まり(越中大乱)、椎名氏が神保氏に屈服する事態となっています。以前から椎名氏は越後守護代の長尾氏の傘下にあったので、1560年(永禄3年)には長尾景虎(上杉謙信)が越中へ出兵しています。この時の侵攻で富山城、日宮城が落城し、神保長職は敗れて増山城へ逃れています。神保長職はこの後、上杉謙信と和睦していますが、1562年(永禄5年)には再び上杉謙信の侵攻を受けてこれに降伏しています。神保氏は一応は上杉氏に従属する形になっていますが、家臣団は親上杉派、親武田・一向一揆派に分裂してしまい、嫡子の神保長住は武田方に付き追放される事態となり、その間に実権は徐々に親上杉派の小島職鎮に奪われて上杉方への従属化が進み、1572年頃には神保長職が死亡したらしくその後は家臣団の大部分が上杉氏家臣となっています。
1572年(元亀3年)には武田信玄の調略に応じた加賀国、越中国の一向一揆が蜂起。同年5月24日から日宮城は一揆勢の猛攻に遭う。日宮城主神保覚広は上杉方の越中国新庄城主鰺坂長実に援軍を要請し、上杉軍は長実や山本寺定長等を援軍として派遣しましたが、日宮城に辿り着く前に呉服山で一揆勢の迎撃に遭い退却したころを追撃されて、惨敗を喫しています。援軍が期待出来なくなった日宮城の神保覚広、小島職鎮、安藤職張、水越職勝らは同年6月15日に日宮城を開城、一揆勢と和議を結んで能登国石動山天平寺へと落ち延びています。これによって勢い付いた一揆勢はそのまま越中国白鳥城を攻め、越中国富山城をも落としています。日宮城はその後史料から姿を消しており、さして時を置かずに廃城となったと思われます。
しかし小島職鎮は、この後も親上杉派として行動していて1582年(天正10年)3月には、織田氏についた神保長住の富山城を急襲して占領するなど結構活躍していますが、あっさりと織田軍に富山城から追い出されています。 |
住所 |
富山県射水市下条 |
形式 |
連郭式山城 (標高20m/比高10m) |
遺構 |
曲輪、土塁、空堀、竪堀、堀切 |
築城者 |
神保氏 |
施設 |
説明板 |
城主 |
神保氏 一向一揆 |
駐車場 |
特にない |
築城年 |
戦国時代 |
文化財 |
射水市指定史跡 |
廃城年 |
1572年(元亀3年)以降 |
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