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甲府城稲荷櫓 |
甲府城は、山梨県甲府市丸の内にある梯郭式平山城です。
別名、舞鶴城。現在は山梨県史跡に指定されています。
この甲府城は、甲府盆地の北部、現在の甲府市中心街にある一条小山に築城された平山城です。
甲斐国は、言うまでもなく戦国期には武田氏が支配していて、この甲府が政治的中心地となり、躑躅ヶ崎館(武田氏居館)を中心とする武田城下町が造成されていました。
しかし天正10年(1582年)3月に武田氏が織田氏によって滅ぼされた後、甲斐国には織田氏家臣の川尻秀隆が入り、甲斐を統治するようになりましたが、武田氏旧臣を弾圧したため、恨みを買っていました。ところが同年6月にあの本能寺の変が発生し、主君織田信長が討たれ、武田氏旧臣や一揆の襲撃の恐れが生じたため武田氏旧領を所領としていた織田氏家臣の森長可、毛利長頼らが領地を放棄して美濃へ撤退する中、なぜか甲斐に留まっていた秀隆の元に家康からの使者として本多信俊が使わされています。信俊は、秀隆に家康の領地を通って織田氏本領への撤退を進言したのですが、秀隆は信俊を殺害してしまうのです。
つまり秀隆は、家康が武田氏旧領を奪うつもりだと見抜いて、そのような行為に出たのでしょう。しかし、その直後に武田氏旧臣を中心とした一揆が発生し、秀隆は甲斐からの脱出を試みるものの、岩窪において武田遺臣の三井弥一郎に同年6月18日に殺害されています。享年56。まあ、そもそもこの一揆も家康が扇動したのかも。
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甲府城内松陰門 |
いずれにしても甲斐・信濃の武田氏旧領は空白地帯となり、上野でも北条氏政が滝川一益を神流川の戦いで破り、上野から信濃に侵入してきて、徳川氏・北条氏・上杉氏の3氏が武田氏旧領を奪うべく戦うことになります。これを天正壬午の乱と呼びますが、最終的には、信濃川中島4郡は上杉氏が押さえ、信濃・甲斐は徳川氏、上野は北条氏が領有することになります。ただし、この際にキーマンとなったのが真田昌幸でした。真田氏は前述する3氏の間をうまく立ち回ったり、上田城を築城し、沼田問題を機に家康とも戦っています。
ともかくも甲斐を領有するようになった徳川家康は、引き続き甲府を甲斐の政治的中心地と定めて、翌1583年(天正11年)に徳川氏家臣の平岩親吉に命じて一条小山の縄張りを行い、一蓮寺を移転させて甲府城の築城を開始しています。しかし甲府城の完成前に、1590年(天正18年)には豊臣秀吉の小田原征伐があり、これにより北条氏直が秀吉に降伏しています。
秀吉は、家康に旧北条領を与えることになり、家康は関東へ移封されて、甲斐には豊臣秀勝(秀吉の甥)が入っています。しかしすぐに天正19年(1591年)3月に美濃国岐阜への転封となり、甲斐は加藤光泰に与えられています。
光泰は甲斐に入国すると国中、河内支配には嫡男作十郎(貞泰)と実弟の加藤光政、郡内地方には養子の加藤光吉を任じ、文禄元年(1592年)までは寺社領の安堵や寄進、諸役免除などを集中的に行い、検地を行っています。この時期の検地は、秀吉の朝鮮出兵に備えて諸将に負担させる軍役の元となる御前帳徴収に応じたものであると考えられています。また、甲府城がまだ完成していなかったため築城を再開しています。
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甲府城銅門跡への石段 |
光泰は、文禄の役で出陣し、文禄2年(1593年)9月には帰国予定でしたが、西生浦の陣中で発病し、病死しています。享年57。遺骸は国元へ送られ、山梨郡板垣村の甲斐善光寺に葬られていますが、のちに大洲曹渓院へ移されています。
翌文禄3年(1594年)1月には加藤貞泰は美濃国黒野に国替えされています。甲斐は一時収公されますが、浅野長政、幸長親子に与えられています。長政は上方に詰めていることが多いため、甲斐支配は主に嫡男・幸長が在国して行っています。浅野氏は近世に確立した地域区分である九筋二領にそれぞれ国奉行を配置し、郡内領や河内領においても支配機構を整え、太閤検地を実施しています。さらに甲府城の修築を行い、城はこの浅野氏の手によって完成しています。このように家康が関東に去った後、豊臣氏直臣の大名が甲斐を支配するようになり、甲府城を築城して新たに甲府城下町が整備されています。つまり当時の甲斐は、関東にある家康を監視、牽制する役目を負っていたことになります。
浅野長政は、豊臣政権ではいわゆる五奉行の一人でしたが、慶長4年(1599年)、前田利長、大野治長・土方雄久らとともに家康暗殺の嫌疑をかけられて謹慎し、家督を幸長に譲って武蔵国府中に隠居しています。
これなどはいかにも言いがかりですが、浅野長政の嫡男・幸長は石田三成とは犬猿の仲だったようで、長政もこれには困っていたようです。ですから、この事件は石田三成と前田、浅野を引き離すための謀略であったと思われます。
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武徳殿 |
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍率いる徳川家康が勝利して、西軍の総大将であった石田三成は捕らえられ処刑されています。さらに家康は、西軍に属した大名を改易にしたり、所領を削減したりして、東軍に味方した大名に加増しています。しかも単に加増したのではなく、豊臣氏に仕えていた外様大名をなるべく遠方に国替えしています。
この甲斐国は、関東に隣接していて徳川氏としてもたいへん重要地点となるので豊臣氏の直臣である浅野氏をそのままここに置くことはせず、紀州和歌山に加増転封しています。甲斐は徳川氏の直轄領となり、翌年には平岩親吉が再び城代に置かれています。
この後、江戸時代を通じて、甲斐は天領となるか、将軍家に最も近い親藩が置かれています。
慶長8年(1603年)には徳川義直(家康の九男)が甲斐に入り甲府城主となっています。元和2年(1616年)には徳川忠長(秀忠の二男、駿府城主)の支城となっています。寛文元年(1661年)には徳川綱重(家光の三男)が甲府城主となっています。
さらに延宝6年(1678年)には徳川綱豊(綱重嫡男で後の6代将軍家宣)が城主となっています。
この経歴を見てもわかるように、この甲府城は、徳川氏一門が歴代の城主となる特殊な城だったのです。つまり徳川氏にとっては、万一に江戸城に変があった際には、この甲府城に撤退して体勢を立て直すという意図があり、他人に城を任せる気にはならなかったのでしょう。
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甲府城天守台 |
ところが宝永2年(1705年)には柳沢吉保が甲斐に入り甲府城主となっています。江戸時代を通じて親藩以外の領地となったのは、この柳沢氏の時だけでした。当時の将軍綱吉に寵愛されていたとは言え、大抜擢されたわけです。
この柳沢氏は、実は武田氏武川衆出身ですので、故郷に錦を飾ったわけでした。
享保9年(1724年)には柳沢吉里(吉保の嫡男)が大和郡山へ転封となり、甲斐一国が天領となっています。甲府勤番が設置されて、交代で甲府城に詰めることになります。今後は、明治維新に至るまで、甲斐は一貫して天領とされています。
享保12年(1727年)には甲府城大火により本丸御殿や銅門を焼失しています。
慶応2年(1866年)には甲府勤番制を廃止し、甲府城代を設置しています。しかし明治元年(1868年)
の明治維新の際には甲府城に板垣退助らが無血入城しています。明治6年(1873年)には廃城となっています。
明治10年(1877年)頃には城内の主要な建物はほとんどが取り壊されてしまいました。まず内城全体が勧業試験場として利用され、さらに翌年、鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置されています。また現在の山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど、さらに城郭が縮小され、現在では内城の部分のみが城跡として残っています。
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甲府城稲荷曲輪門 |
明治37年(1904)に「舞鶴公園」として開放されました。
昭和5年(1930年)には、甲府中学校の移転に伴い、旧追手役所跡にあった県庁舎や県会議事堂が楽屋曲輪跡に移り、同時にその西側、南側の堀は完全に埋められました。その後、武徳殿(昭和8年)、恩賜林記念館(昭和28年)、県民会館(昭和32年)、議員会館(昭和41年)などが公園内に設置されました。
昭和39年(1964年)には都市公園「舞鶴城公園」として都市計画決定されました。最近では、舞鶴城公園整備事業が行われ、鍛冶曲輪門、稲荷曲輪門などの門や稲荷櫓が復元されています。昭和43年(1968年)には県指定史跡「甲府城跡」となっています。
平成18年(2006年)4月6日には甲府城が日本100名城(25番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されています。
さて、気になる天守の存在ですが、江戸時代には天守がなかったと思われますが、浅野氏時代には天守があったという説もあります。現在では天守台はありますが天守が建てられていたかは不明です。
ただ、実際にこの天守台に登ってみると、中央に階段があって、その両側が狭いため、もしこのままの構造でしたら天守を築くだけのスペースはないと言えます。もっとも当時の構造も今のままだったとは限りませんので、この点については何とも言えません。
私見では、おそらく天守と言えるほどの規模の建物はなく、あってもせいぜい櫓かなと言うところです。
さて、この甲府城ですが、築城された当時は甲府市街の南端にあったようですが、現在では市街地の中心にあります。まあ、それだけ市街地が南に延びたということになりますが、この城は石垣が多いし、当時は水堀が周囲を巡らしていて、そう簡単に攻め落とせる城ではなかったと思われます。徳川氏が万一の場合にはこの城に退却するつもりだったというのもこの城がなかなか堅固な城であったからと言えるからでしょう。そもそも武田信玄がこの甲府を治めていた頃などは、ここへ敵の侵入など全く許さなかったのも甲府盆地自体が天然の要害であった事もあるでしょう。
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城の北側から城壁を見る |
内松陰門付近の城壁 |
 |
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案内図 |
内松陰門裏門 |
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銅門跡付近の石段 |
内松陰門裏門 |
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本丸石垣 |
銅門跡 |
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謝恩塔 |
本丸櫓跡 |
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本丸櫓跡石垣 |
天守台 |
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本丸北側 |
天守台中央部 |
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天守台内部 |
歴史公園の山手渡櫓門 |
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本丸南側 |
稲荷櫓は二重二階 |
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 |
稲荷曲輪東側 |
稲荷曲輪北側 |
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稲荷曲輪南側 |
天守台の上部 ここに天守があったとは思えません |
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天守台に明治天皇御登臨の碑が |
鉄門跡には礎石が |
 |
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鉄門跡の石垣 |
鉄門跡から中の門跡への石段 |
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本丸南側の石垣 |
本丸南東部の石垣 |
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天守台 |
本丸北側の石垣 |
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稲荷曲輪井戸跡 |
煙硝蔵跡 |
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稲荷曲輪から本丸を見る |
稲荷櫓下部の石垣 |
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石垣の中に石垣が |
庄城稲荷跡 |
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稲荷曲輪門 |
稲荷曲輪門 |
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稲荷曲輪門 |
水溜跡・・・って今も水がありますが |
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 |
鍛冶曲輪から天守曲輪の石垣を見る |
石切場跡 |
 |
 |
数寄屋櫓台跡 |
鍛冶曲輪はたいへん広い |
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数寄屋櫓跡 |
数寄屋曲輪 |
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鍛冶曲輪南側の石垣 |
鍛冶曲輪から天守曲輪への通路 |
 |
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公園管理事務所 |
天守曲輪南側の石垣 |
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 |
日本庭園 |
恩賜林記念館 |
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鍛冶曲輪門 |
鍛冶曲輪門と西側石垣 |
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鍛冶曲輪門 |
水堀 |
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坂下門跡 |
武徳殿 |
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中の門跡 |
鍛冶曲輪から本丸方面を見る |
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遊亀橋 |
遊亀橋から水堀を見る |
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舞鶴城公園の看板 |
遊亀橋入口から見た甲府城全景 |
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城の東側にある高さ17mの高石垣 |
稲荷櫓 |
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住所 |
山梨県甲府市丸の内 |
形式 |
梯郭式平山城 |
遺構 |
石垣 堀 |
築城者 |
徳川家康 |
再建造物 |
櫓 門 |
城主 |
平岩親吉 加藤光泰 浅野長政 徳川氏 柳沢氏 |
駐車場 |
臨時駐車場は土日祝のみ 有料駐車場あり |
築城年 |
天正11年(1583年) |
文化財 |
県指定史跡 |
廃城年 |
明治6年(1873年) |
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