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弓庄城跡説明板 |
弓庄城(ゆみのしょうじょう)は、富山県中新川郡上市町館にある平城です。この城は新川郡一帯を領していた土肥氏の居城です。上市町指定史跡となっています。
城主の土肥氏は源頼朝の攻臣、土肥次郎実平を祖とする一族で、相模国土肥郷(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町)を出身とします。実は土肥氏は小早川氏とは同族です。
土肥氏は、建保元年(1213年)の和田合戦で破れたために一時衰退しますが、土肥実綱が鎌倉将軍九条頼嗣、執権の北条時頼、北条時宗に仕えて活躍したため、土肥氏は再び息を吹き返します。この実綱の弟の土肥頼平が越中土肥氏の祖です。
ですから鎌倉時代には新川郡堀江庄の地頭職としてその名が見られます。
南北朝時代から戦国時代にかけては、越中国の代表的な国人領主に成長してかなりの勢いを持っていたようです。越中国守護畠山氏の傘下に入り、畠山氏の家督争いでも活躍しています。土肥氏は一貫して畠山氏の傘下だったと考えられています。
戦国時代には、越中守護代である神保氏と椎名氏の二大勢力の狭間で翻弄されています。
永正年間(1504〜1521年)には土肥政道が弓庄城を築きここを居城としています。1520年には新庄城で長尾為景と神保慶宗が新庄合戦を戦い、神保軍は破れ神保慶宗が自害していますが、この際に土肥氏は神保方として戦って敗れたため大打撃を受けています。
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弓の里歴史文化館 |
また神保氏と椎名氏が覇権を巡って抗争を繰り返した越中大乱にも巻き込まれて、1543年には椎名氏に討たれて大打撃を受けるなど、大勢力の狭間で苦しめられている様子が伺えます。
やがて神保氏が椎名氏を圧倒するようになり、上杉氏が椎名氏救援を名目に越中に侵攻してくるようになると、弓庄城城主の土肥美作守政繁は上杉謙信に属するようになりました。これにより土肥氏もようやく一息ついたと言えます。
しかし天正6年(1578年)に上杉謙信が急死し、織田信長が越中に進出すると、織田方に付くようになっていました。
この頃になると越中の諸豪族は、上杉方に付くか織田方に付くかを決めないといけない状況になっていて、信長に疑われた寺崎氏や石黒氏は粛正されています。土肥氏も再び上杉方に返り忠したらしく、天正9年(1581年)8月、佐々成政により弓庄城を囲まれていますが何とか城を持ちこたえています。しかしこの時は上杉氏の後詰が得られず、翌10年(1582年)4月には佐々成政に再度包囲されて降伏しています。この時点で斬られても文句は言えませんね。
しかし、天正10年(1582年)6月に織田信長が明智光秀に本能寺で討たれると、土肥氏は再び上杉方に通じるようになりました。
佐々成政は天正10年8月〜9月にかけて弓庄城を包囲し熾烈な攻撃をかけてきましたが城は落ちず、佐々勢はいったん引き上げるものの、翌天正11年(1583年)にかけ、越中へ再侵攻して魚津城、小出城を陥落させています。さらに同年4月以降からは佐々勢の攻勢が本格的となり、佐々成政は土肥美作守政繁を攻めるために弓庄城の周りに4つの砦を築造して、弓庄城を包囲しています。それでも土肥政繁は弓庄城で籠城を続けていましたが、豊臣秀吉が賎ヶ岳の合戦による戦後処理として成政の越中支配を認めた結果、秀吉と成政、景勝の3者の和睦が成立したことで、天正11年(1583年)7月〜8月にかけて土肥政繁は弓庄城を明け渡して越後の糸魚川城へと退去しています。弓庄城は土肥氏の退去により廃城になったと思われます。
その後、土肥政繁は天正12年(1584年)10月、上杉軍の越中攻めの先鋒として宮崎城攻略に功をあげていますが、旧領回復はならず、越後に引き上げています。しかし上杉家中では冷遇され、政繁は同18年(1590年)、越後国能生で病死しています。
一族はその後最上義光に仕えていますが、最上家のお家騒動に巻き込まれて自害し、越中土肥氏は滅亡しています。
弓庄城は、南北600m、東西150mと広大な城域を持っていて、佐々成政が何度も攻撃してもなかなか落城させることができなかった事からかなりの堅城であると判断できますが、どうも周りは水堀でその外側が湿田だったようで足を踏み入れるのも難しい城であったようです。また、この一帯は水田地帯で食糧も潤沢にあったために兵糧攻めも難しかったのでしょうか。
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弓庄城の縄張り図 |
弓庄城本丸跡の石碑 |
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弓庄城本丸跡 |
弓庄城本丸跡全景 |
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本丸の背後にも郭があった |
弓庄城本丸跡の説明文 |
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住所 |
富山県中新川郡上市町館 |
形式 |
平城 |
遺構 |
土塁 堀跡 井戸跡 |
築城者 |
土肥政道 |
施設 |
弓の里歴史文化館 説明板 石碑 |
城主 |
土肥氏 |
駐車場 |
あり |
築城年 |
永正年間 |
文化財 |
上市町指定史跡 |
廃城年 |
天正11年(1583年) |
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