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稲村城遠景 この城山の山頂に城があります |
稲村城は、富山県中新川郡上市町稲村にあった山城です。
上市町指定史跡となっています。
城域は主郭が40m四方で、櫓台跡が西側に残っています。
山城としては周囲に小規模な堀切を設けただけの簡単なものですので、実際のところは陣城に近いもので万一の際の詰めの城として築かれたものの、常時使用するという城ではなかったのではないかと思われます。
稲村城は、この一帯を支配していた在地領主の土肥氏の居城であった堀江城の詰め城の一つであったと考えられます。
土肥氏は、建長年間(1249年〜1255年)に土肥氏一族の土肥頼平が越中国に地頭として入国したとされていますが、詳細は不明な点が多い。その後、土肥氏は越中で勢力を伸ばして、南北朝時代から戦国時代には越中国の代表的な国人として勢威を振るっていました。
越中国守護畠山氏の傘下に入り、畠山氏の家督争いでも活躍しています。土肥将真は畠山尚順に従って将軍に謁見していて、明応2年(1493年)の明応の政変では土肥六郎左衛門が畠山政長と運命を共にしています。
戦国時代となると土肥氏は、一応は椎名氏に従っていましたが、神保氏が勢力を伸ばし、椎名氏との抗争に突入すると、土肥氏が神保氏に寝返る事態に発展します。しかし神保氏と椎名氏が和睦すると土肥氏は立場が悪くなり所領を失うなど、両勢力の狭間で翻弄されていますが、越中国に越後国の長尾氏の勢力が拡大してくると、当主土肥政繁はそれに従っています。上杉謙信死後は上杉景勝に従っていますが、織田氏武将である佐々成政の攻撃を受け、弓庄城に籠城して一進一退の攻防を繰り広げています。弓庄城は平城なのですが、佐々成政が何度攻撃しても落城しなかったということは、よほどの堅城であったことになります。しかし佐々成政の執拗な攻撃により、土肥政繁はついに天正11年(1583年)に降伏して越後国へと逃亡しています。その後、天正12年(1584年)に上杉景勝が佐々成政と羽柴秀吉の争いにつけ込んで旧領奪回の機会を狙って越中に侵攻していますが、上杉氏が秀吉と和睦したために、旧領回復を果たせずに天正18年(1590年)に越後国で没しています。その死後、一族が最上義光に従ったが、お家騒動に巻き込まれて自害し、越中土肥氏は滅亡しています。
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上市川が天然の堀となっています |
城山の麓には上市川ダムがあります |
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住所 |
富山県中新川郡上市町稲村 |
形式 |
山城 (標高348m/比高200m) |
遺構 |
郭 堀切 物見台跡 |
築城者 |
土肥氏 |
施設 |
特になし |
城主 |
土肥氏 |
駐車場 |
特になし |
築城年 |
戦国期 |
文化財 |
なし |
廃城年 |
天正11年(1583年) |
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