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勝山城博物館 |
勝山城(かつやまじょう)は天正8年(1580年)に柴田勝家の養子である柴田勝安によって越前国勝山に築かれた城郭です。
江戸時代に入ると、慶長6年(1601年)に家康の子、結城秀康の支配下になり、寛永元年(1624年)松平直基が3万石をもって封じられると、勝山藩の藩庁が置かれました。
その後、松平直良が入るが、正保元年(1644年)直良が越前大野に5万石で加増転封されると勝山城は廃城となり、福井藩預かりの後、貞享3年(1686年)からは天領となっています。
元禄4年(1691年)に小笠原貞信が2万2千石で勝山の地に封じられました。
以後明治維新まで小笠原氏8代がこの地を治めています。
勝山藩は小藩であり、小笠原氏が勝山に封じられた時から既に財政的には苦しい状態に陥っていました。
しかし小笠原氏の格式は元々が守護家の家柄で比較的高く、譜代大名として大坂加番など公役負担も多く、出費がかさんでいました。
そのために入封時に家臣団を整理していますが、基本的には年貢の増微策をとらざるを得なかった上に、元禄8~9年(1695~96)にかけて災害や凶作に襲われています。
生活に苦しむ農民達はついに元禄10年(1697年)春に江戸の藩邸への越訴を決行するに至りました。この時には年貢率の引き下げこそ認められませんでしたが、年貢納入時期や借用米金の返済、町米問屋の廃止など、そのほかの要求はほとんど認められています。また、役人が藩主に無断で米金借用に及んだのが事件の原因として、今後一切このような行動をしないことを条件にして農民への処分もなく、結果的に越訴は成功しています。
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西側から見た勝山城博物館 |
一方、この事件で勝山藩側は大きな痛手を受けた形となり藩の重臣間に対立を招いたといわれています。
小笠原貞信は、財政が苦しいのに築城願いを幕府に提出し、親族、家臣も陳情した結果、次代の信辰のときの宝永5年(1708年)6月に築城が許可されています。
しかし2万余石の小藩であり財政的にも苦しい状況であったために城の規模は小さく、工事の進行も緩慢であったのはやむを得ないでしょう。ようやく天守は完成したものの、その後は工事は遅々として進まず、信辰が死去し信成の代になると工事は中断されています。
5代藩主小笠原信房の代になり、明和5年(1768年)に工事再開にこぎつけましたが、やはり財政的には苦しく工事は順調には進むわけもなく、3年後に本丸御殿などが完成したのみで再び中断しています。
勝山藩では藩財政の建て直しを考え、小笠原信房は明和8年(1771年)に幕府から人を得て税率を固定する定免制から作況状況で税率を定める検見制に切り替えて年貢の増微を図ろうとしました。そして抜き打ち的に庄屋を集めて検見制への切り替えの承諾を得ようとしたことから再び騒動となり、結局検見制への移行は失敗しています。
既にこの時期には藩の権威は失墜し、農民側が一致団結した力の前にはなすすべも無かったことが見て取れます。
文化8年(1811年)になると大杉沢騒動といわれる、杉の伐採中止を求める一揆が起きています。
材木商と藩役人によって杉材が切り出されたことによって、保水が得られずに大水害が起きたことで大規模な打ちこわしにまで発展しています。この事件は杉の伐採がきっかけとなっていますが実際には物価の高騰が騒動の本当の原因と見る事もできます。
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南側から見た勝山城博物館 |
大杉沢騒動の際には藩側は完全に傍観し、結局尊光寺など一向宗寺院の仲介によって騒動を治めています。
結局、農民側の要求は全て認められており、藩は自力で事件を解決することができず、統制力を完全に失っていることが伺えます。藩主小笠原長貴は、人々の不満をなだめ、人心を一新して藩政の建直しをはかるために、事件後に家老以下奉行・代官等関係家臣団の処分を行い、大庄屋も交代させています。
さて小笠原長貴の代にようやく城は完成を見ましたが、文政5年(1822年)には本丸より出火し、門、高塀、土蔵を残し、すべての建物が焼失してしまい、文政9年(1826年)にようやく本丸御殿は再建されています。ただし、天守台は建造されましたが、天守は建造されないままでした。
天保年間に入ると全国的な飢饉となり、勝山藩も大規模な飢饉に襲われています。そのため農民は疲弊し、藩財政は極度に悪化して破綻寸前となっています。
最後の勝山藩主小笠原長守が藩主に就いたときにはまた幼少だったので、その補佐として天保11年(1840年)に林毛川が家老になり、藩政改革を主導するようになりました。
林毛川は、綱紀粛正、人材育成、産物奨励、天保13年(1842年)からの5ヵ年に及ぶ倹約、生活の簡素化などの積極的な藩政改革に務めています。天保14年(1843年)には藩校成器堂を創設して人材育成に努めています。嘉永元年(1848年)には軍備を増強し、専売制を確立するなどして、一時的に藩財政は改善されています。しかし弘化4年(1847年)に幕命を受けて河川普請を務めたり、安政2年(1855年)にも安政の大地震で藩邸が崩壊するなどして出費が重なり、藩財政は再び悪化しました。
さらに改革における領民に対する普請などの負担が大きかったため、遂に領民から林毛川の罷免を求める声が上がり、長守は11月22日に林毛川を罷免しています。他の重臣たちも同時に罷免されていて小笠原長守の責任逃れとも取れる行動ですが、すでにこの時点では封建制度自体が崩壊する寸前にあり、封建制度維持をめざす改革は不可能であったと見る事もできます。
明治維新後、勝山城は廃城となり、建物は次々と取り壊されています。現在の市役所付近が城跡中心部で、市役所と公民館あたりが本丸であり、市役所前の道路付近に堀がありましたが、今は跡形もありません。
天守台や石垣が昭和40年まで残っていましたが、市民会館建設に伴い取り壊されています。
現存する建物としては、成器堂の講堂、演武場、表門、土蔵があります。成器堂の建物は明治12年に取り壊され、払い下げられています。講堂が神明神社社務所、演武場が布市の道場、表門、土蔵が今井家表門・土蔵として移築され現存しています。
このように城跡の遺構は失われ、現在は市民会館敷地に城址の碑が建つのみである。
現在の勝山城博物館は、平成4年1月に、勝山城と多田清コレクションの寄贈を受けて『財団法人多田清文化教育記念財団』が設立され、福井県教育委員会より博物館登録を受け、同年7月に落成式を行い、一般公開を開始したものです。
平成4年に完成した勝山城博物館は、5層6階の大天守(日本一の高さ57.8mを誇る)と小天守のある博物館で構成されています。主な展示品としては、諸大名の甲冑、刀剣、鉄砲、弓矢、馬具、衣服、印籠、などがあり、貴重な合戦図屏風などもあります。
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勝山城博物館は5層6階天守 |
天守から見える越前大仏 |
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勝山城博物館は大天守と小天守がある |
天守から見える勝山市街 |
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水堀と石垣 |
博物館で水堀まであるのは珍しい |
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大手門 |
博物館入口 |
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勝山城博物館
〒911-0822 福井県勝山市平泉寺町平泉寺85-26-1
電話:0779-88-6200
開館時間(営業時間):午前9:30~午後4:30
休館日(定休日):水曜日 12月28日~12月31日は休館日 |
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