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各郭にある案内板 |
長沢東城は、富山県富山市婦中町長沢に位置する城跡です。家老屋敷城跡、あるいは菅谷砦とも呼ばれています。
この長沢東城は、標高約120mの無常山山頂に築かれた中世山城です。比高差は約70mとなります。
谷を挟んだ西側には長沢西城があります。長沢西城を「長沢城」、長沢東城を「家老屋敷城」とする見方もありますが、実際には長沢東城の方が全体的に標高が高く、規模も大きく郭も多いし、長沢西城には狼煙台があるなどを考えるとむしろ長沢東城の方が本城ではないかとの見方もできます。またこの二城を一つの城として見なすことも可能です。ただその場合は、南側の防備は東城も堅いですが、西城の方がより厳重ですので、こちらが大手口と考えることもできます。
私見ではこの長沢東城は単に家老屋敷としてはあまりに巨大すぎる城なので、むしろこちらの長沢東城が本城で、長沢西城が支城なのではないかと思います。あるいは、この二つの城は実は一つと見るのが妥当で、一城別郭形式の城と考える方が正しいかもしれません。どちらかというと後者の見方が妥当かな。
この長沢周辺は国史跡「王塚・千坊山遺跡群」があり、各願寺、古洞ダム、富山市天文台など各種の名所が揃っていて、城域自体も古墳群のまっただ中にあり、いわば聖域の中にある城といえます。城自体も古墳跡だとしてもなんら不思議はなく、むしろ古墳があったところに築城したのだと考えた方が普通かもしれません。まあ、本当だとすればばちあたりですが。ただ、古墳の上に城を造ったという例は数多くあります。古墳を土塁と見なして、これを削って加工することで工程を省略できるためです。ううむ、やはり罰当たりだ。
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大手口 |
この城がいつ築城されたのかは不明ですが、戦国末期に改修されたのは間違いないようです。また誰が築城したのかという点も当然ながら不明ですが、1580年代には佐々成政が改修しているのではないかと思います。改修者が前田氏という可能性もありますが、前田氏が越中を支配するようになってからあえてこの城を改修する必要性はあまりないように思います。
この城は、無常山山頂に向かってA-Gの7ヶ所もの曲輪が連なっていて、山頂部のG郭とその手前のF郭は広さの点ではさほどではなく詰めの郭であったと思われます。しかし、山頂部のG郭は主郭だと言われていますがなぜか周囲に土塁が存在しない簡素な造りである上に、尾根を伝って長沢西城や各願寺、猫坂峠へと繋がっていて簡単に移動できるし、途中に堀切があるものの、城の北側はほとんど無防備という感があり、どう考えても北側からの攻撃には脆弱であると思われます。逆に南側の防御は完璧ですのでこれほど落差が大きい城は他ではあまり見かけないものです。つまりこの城を築城する際に、また改修する場合でも北側からの攻撃がまったく意図されていなかったと考えられるのですが、この城を攻めようと思ったらむしろ北側から攻めようと考えるのが普通だと思うので、正直言って築城者の意図がよくわかりません。
なお虎口は立派な枡形虎口で、ここから攻めるのはたいへん危険です。ここは他の遺構とはちょっと毛色が違い、あまりに堅固な構えであることからおそらくは戦国末期に改修されたものでしょう。たぶん佐々成政が改修したのでしょうね。もちろん当時はここには門があったのでしょうけど。因みに虎口から下ったところには二つの屋敷跡があります。虎口から入って最初の郭がA郭で7つの郭では最も広い郭で東西約50m、南北約75mとかなりの広さです。郭の周りは土塁と切岸で防備しています。その東側には虎口を見張る形で三角状のB郭が張り出していて、南側の斜面を防備しています。
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長沢東城B郭 |
とにかく南側からの攻撃に対しては虎口から入るのもB郭の南側の斜面から攻めるのも困難です。
この城がどうして築城されたのかを考えますと、とにかく北側からの攻撃には対処できないことから城の北側を支配していた勢力が南側にいる勢力を監視するためとか、あるいは山田川の向こうにある富崎城を守るためとかいくつか考えられます。
しかし戦国時代に改修した跡があるのはどうしてかですが、佐々成政が改修したとすれば上杉方の攻撃に備えてということになりますか。前田氏との抗争に対してはもっと呉西側にある城を強化するのが本当でしょう。
しかし長沢西城、長沢東城は多数の遺構が残っていて枡形虎口や井戸跡など見所も多いのに何ら史跡の指定を受けていないというのは不思議なのですが、何しろ歴史的にどういう役割があったのか誰が築城して誰が在城したのかはっきりわかっていないからでしょう。
「越登賀三州志」、「花管三代記」、「肯構泉達録」などに残っている記録によれば、富崎城より早く14世紀中頃、つまり南北朝時代に構築され、それ以来特定の武将の居城になったのではなく、戦略上一時的に陣城として利用されてきたとされています。
中でも中院定清や桃井直和がこの地で戦いを繰りひろげたとされています。また、越中国が佐々成政の所領であった時期には元は神保氏重臣であった寺嶋牛助が居城していたと伝えられています。寺嶋牛助は天正9年(1581)大道城に立て籠もって、結局は佐々成政に降伏していてその後この城へ移されたのかもしれません。
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長沢東城G郭 |
長沢東城F郭 |
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中心部へ向かう通路が土塁により屈曲しています |
長沢東城E郭 |
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説明板及びD郭とE郭を仕切る土塁 |
長沢東城D郭 |
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D郭にある説明板 |
A郭~D郭の間にある説明板 |
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長沢東城A郭 |
説明板の左側が大手口です |
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長沢東城枡形虎口 |
長沢東城大手道 |
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大手口から城内部を見る |
土塁の上から大手道を見る |
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長沢東城C郭 |
大手口の説明板 |
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住所 |
富山県富山市婦中町長沢 |
形式 |
連郭式山城 (標高120m/比高70m) |
遺構 |
曲輪、土塁、空堀、切岸、枡形虎口、大手道 |
築城者 |
不明 佐々成政が改修か |
施設 |
案内板 |
城主 |
不明 |
駐車場 |
あり |
築城年 |
戦国時代 |
文化財 |
なし |
廃城年 |
不明 |
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