岐阜県史跡 飛騨高山城跡
高山城跡の概要
飛騨高山城の本丸石垣
飛騨高山城の本丸石垣 
高山城跡は、岐阜県高山市空町城山公園にある金森氏の居城跡です。現在は、岐阜県史跡に指定されています。
高山市街地の東南部にある標高686.6メートルの城山に築城された平山城で、曲輪、堀、石垣、土塁などの遺構が残っています。望楼型2重3階の御殿風天守を持つ古い城郭形式は、織田信長が築城した安土城の影響を受けたものと見られています。
この地に最初に城が築かれたのは室町時代、文安年間(1444年~1448年)のことで飛騨国守護・京極氏の被官であった多賀出雲守徳言がこの地に天神山城(多賀山城)を築城しています。永世年間(1504年~1521年)には守護代多賀氏の一族であった高山外記が山頂部に天神山城を築城しています。そしてその名からこの付近を高山と呼ぶようになったというが、多賀山城の名から高山と呼ぶようになったという異説もあり、地名の由来は今ひとつ明確ではないようです。
戦国時代には、飛騨国では高山周辺の領主であった三木自綱が敵対する江馬氏を滅ぼして、飛騨を平定し、松倉城を築城しています。三木自綱は越中の佐々成政と同盟し、豊臣秀吉に対抗したことから、1585年(天正13年)豊臣秀吉の命を受けた越前大野城主金森長近により攻められ、これにより三木自綱は降伏しています。この功により金森長近が、飛騨国3万3千石の領主となっています。当初、長近は鍋山城を居城としましたが、1588年(天正16年)に天神山城跡に高山城を築城してここを居城としています。
高山城本丸跡
高山城本丸跡 
長近は1600年(慶長5年)までに本丸・二の丸を完成させ、その3年後には三の丸が整備されています。また築城と同時に城下町の整備も進められ、高台に家臣屋敷を建設し、下段の三町を町人の町としています。そして京都に倣って東山に寺院を集めています。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでも長近は徳川氏に味方していて、戦後美濃国郡上八幡城攻めなどの功を賞されて二万石を加増され、初代高山藩主となっています。飛騨国は、石高は低いものの木材の資源が豊富であることと、鉱山があり金銀が産出することなど、なかなかおいしい点があります。
ところが1692年(元禄5年)に金森氏6代目当主に当る金森頼時が出羽国上山藩へ国替えを命じられ、高山城は加賀藩主前田綱紀が預かりとなってしまいます。さらに1695年(元禄8年)には飛騨国が天領とされたため、幕命により高山城は前田綱紀により完全に破却されて廃城となってしまいます。
その後は、飛騨国は幕末まで一貫して天領となり、郡代・代官は高山陣屋にて政務を執っています。これはやはり飛騨国の鉱山と木材の資源に目をつけた幕府が金森氏を追い出してこの地を天領にしたと考えるのが妥当でしょう。
現在の高山城は、所々に石垣が点在していますが、天守跡には石垣による天守台が見あたらず、徹底的に破却されてしまったと考えられます。高山陣屋及び高山城本丸には高山城天守の復元図及び模型がありますが、これによれば天守というよりも本丸御殿というべき構造となっていたと推測されます。少なくとも戦闘向けではなかったようです。
まあ、そもそもこの高山城は一度も戦火に遭っていないし、城を築いたのも戦国自体末期のことでここは戦場にはなっていませんので戦闘向きの城を造る必要性は薄かったのでしょう。
それと実際に訪れてみると本丸自体もけっこう狭いので、これで本当に天守があったのかと思いたくなりました。
単純な天守ならばそれも可能でしょうが、模型はかなり大規模な構造物を示していたので。
城の曲輪としては本丸が頂上にあり、その北側には東北曲輪、南側には南之出丸があり、北側にはさらに二の丸、三の丸があるのですが、なぜか二の丸から本丸への入口が搦手口となっていました。大手口は南側にありますが、ここにはあまり大きな曲輪がありません。南側には白雲水と呼ばれるわき水があります。
三の丸には現在では護国神社があり、その北側には外堀が水堀として現存しています。
これほどの山城で水堀があるというのは結構珍しいのですが、春日山城の麓に監物堀があるのと似ています。
さて、我が軍がこの城を攻めるにはどうするかですが、北側の搦手口から攻めるとすると三の丸、二の丸、中段屋形、北東曲輪を落とす必要があり、これは極めて困難です。ですから曲輪は点在しているものの一つ一つが独立している南側から攻めるのが良いでしょう。しかし城域は広く険しいので、かなりの困難が予想されます。

駐車場と公園が二の丸跡です 大手口から二の丸への通路
駐車場と公園が二の丸跡です 大手口から二の丸への通路 
月見平 城山公園鳥瞰図ですがたいへん見難くなっています 
月見平 城山公園鳥瞰図ですがたいへん見難くなっています 
ここで白雲水方面へ向かいます これは堀切かな・・・
ここで白雲水方面へ向かいます これは堀切かな・・・ 
白雲水に到着です 堀切があります
白雲水に到着です
白雲水は水源となっていたのでしょう 白雲水
白雲水は水源となっていたのでしょう 白雲水
ここから大手道を駆け上ります 大手道は狭く曲がりくねっています
ここから大手道を駆け上ります 大手道は狭く曲がりくねっています
大手道 大堀切
大手道 大手道
本丸への通路が続きます ここで襲われたらひとたまりもないでしょう
本丸への通路が続きます ここで襲われたらひとたまりもないでしょう
土塁があります 当時はここに監視所があったかも
土塁があります 当時はここに監視所があったかも
石垣跡が残っています もみの木平と呼ばれる南之出丸です
石垣跡が残っています もみの木平と呼ばれる南之出丸です
案内板がありました いよいよ本丸が近いようです
案内板がありました いよいよ本丸が近いようです
大手道は狭く急な階段です 本丸の周囲には石垣跡が残っています
大手道は狭く急な階段です 本丸の周囲には石垣跡が残っています
主郭にもさほど大規模な建築物はなかったと思われます 本丸の周囲に石垣跡が残っています
石垣跡が残っていました 本丸の周囲に石垣跡が残っています
使者之間の説明文 本丸北側の曲輪
使者之間の説明文 本丸北側の曲輪
玄関跡を示す標識 天守曲輪への階段
玄関跡を示す標識 天守曲輪への階段
石垣の上に使者之間がありました 高山城跡の説明板ですが見難いですね
石垣の上に使者之間がありました 高山城跡の説明板ですが見難いですね
大広間があったことを示す標識 本丸屋形があったことを示す標識
大広間があったことを示す標識 本丸屋形があったことを示す標識
風呂屋があったことを示す標識 高山城復元想定図
風呂屋があったことを示す標識 高山城復元想定図
本丸屋形の説明板 本丸屋形の平面図
本丸屋形の説明板 本丸屋形の平面図
本丸屋形があったにしては狭いと思うのですが 本丸屋形の説明板
本丸屋形があったにしては狭いと思うのですが 本丸屋形の説明板
ここの石垣が最も大規模です 本丸北側に搦手門があった
ここの石垣が最も大規模です 本丸北側に搦手門があった
拾間櫓跡が本丸北側の曲輪にあった 拾三間
拾間櫓跡が本丸北側の曲輪にあった 拾三間
本丸屋形跡 搦手道
本丸屋形跡 搦手道
水手門を示す標識 石垣跡がここにも
水手門を示す標識 石垣跡がここにも
東北曲輪周辺図 東北曲輪からさらに下へ
東北曲輪周辺図 東北曲輪からさらに下へ
東北曲輪の石垣が修復されるようです 東北曲輪は本丸を守る最後の曲輪です
東北曲輪の石垣が修復されるようです 東北曲輪は本丸を守る最後の曲輪です
石垣がここにも 搦手道も狭く険しい
石垣がここにも 搦手道も狭く険しい
中段屋形の案内板 中段屋形跡
中段屋形の案内板 中段屋形跡
二の丸広場と金森長近像 金森長近像
二の丸広場と金森長近像 金森長近像
搦手口 搦手道
搦手口 搦手道
外堀東側 三の丸の北側に外堀が現存しています
外堀東側 三の丸の北側に外堀が現存しています
外堀の北側 外堀を北側から見る
外堀の北側 外堀を北側から見る
三の丸には護国神社があります 外堀に架かる橋から
三の丸には護国神社があります 外堀に架かる橋から
飛騨高山城跡
住所 岐阜県高山市空町城山公園 城郭構造 連郭式平山城(標高686m・比高100m) 天守:望楼型2層2階(非現存)
遺構 曲輪、石垣、堀、土塁 築城者 金森長近
施設 標識、休憩所 城主 金森氏
駐車場 二の丸に無料駐車場あり 築城年 天正16年(1588年)
文化財 岐阜県史跡 廃城年 元禄8年(1695年)
 スライドショー
スライドショーの使い方

 3つのボタンで画像を移動できます。
 
 最初・・・最初の画面に戻ります。

 戻る・・・一つ前の画像に戻ります。

 次へ・・・次の画像に移動します。
 
 拡大・・・拡大画像を表示します。
               
県史跡 高山城跡マップ
電子国土ポータルへのリンクです