岐阜県史跡 飛騨松倉城跡
松倉城跡の概要
松倉城本丸石垣
松倉城本丸石垣 
松倉城跡は、岐阜県高山市松倉町にある姉小路(三木)自綱の居城跡です。現在は、岐阜県史跡に指定されています。
高山市街地の西南部にある標高856.7mの松倉山に築城された山城で、曲輪、堀切、石垣、井戸などの遺構が残っています。
特に石垣の遺構は見事で、ほとんど総石垣の城と言えるほどの大規模な石垣跡が残っています。
この地に最初に城が築かれたのは天正7年(1579年)のことで飛騨国の高山周辺の領主であった三木自綱がこの地に松倉城を築いて居城を桜洞城から移しています。
三木頼綱は、永禄2年(1559年)に父・三木良綱の命を受けて国司である姉小路家の名跡を継承して姉小路氏を名乗るようになります。姉小路氏は藤原氏の流れを汲む名門ですが、飛騨国司として下向していたのですが、南朝方として北朝方の飛騨守護・京極氏に破れて衰退していました。その名跡を継いだことで名門として官位を得ようとしたのですが、うまくいかなかったようです。
元亀3年(1572年)には上杉謙信の要請に応じて越中に出兵していますが、その直後に父・良頼が死んだため、家督を継承しています。
天正6年(1578年)に、謙信が死去すると織田信長と手を結び、翌年には前述するように本拠を松倉城に移して飛騨の支配体制を固めています。しかし上杉氏から織田氏への鞍替えには反対する傘下の国人衆も多く、三木自綱は反対派の国人衆をことごとく攻め滅ぼすという政策を取った為に、本家の領地は増えたものの姉小路氏を支援する勢力は減り、結果的に勢力を弱めることになります。
松倉城本丸跡
松倉城本丸跡 
また天正7年(1579年)には長男の姉小路信綱に謀反の疑いをかけ殺害しています。ただしこれを天正11年(1583年)のこととする説もあります。また弟の三木顕綱をも天正11年(1583年)に謀殺しています。
天正10年(1582年)に織田信長が討たれ、これをきっかけに発生した八日町の戦いで三木自綱は江馬輝盛と飛騨の覇権を賭けて決戦して、これを討ち取り、江馬氏の居城である高原諏訪城を落城させて、飛騨の大半を制圧することに成功します。
この戦いでは三木軍が鉄砲をうまく使用して江馬輝盛を討ち取ったと言われています。
ところが信長の後継者として台頭した羽柴(豊臣)秀吉と越中の佐々成政が対立した時に以前より成政と誼を通じていた自綱は成政に味方して、豊臣秀吉に対抗してしまいます。これが自綱の運の尽きとなります。
1585年(天正13年)、三木自綱は豊臣秀吉の命を受けた越前大野城主金森長近により居城・飛騨高堂城を攻められ、降伏しています。松倉城に立て籠もったのは、自綱の嫡男・秀綱でしたが、やはり金森軍の攻撃を受けて城から逃れたものの、信濃国に逃れた秀綱を地元民が殺害したと言われています。
これにより飛騨の戦国大名としての姉小路氏(三木氏)は滅亡してしまいます。
自綱は、秀吉方に捕らえられたものの助命されて京都に護送され、天正15年(1587年)に同地で没しています。
松倉城二の丸跡
松倉城二の丸跡
この功により金森長近が、飛騨国3万3千石の領主となっています。当初、長近は鍋山城を居城としましたが、1588年(天正16年)に天神山城跡に高山城を築城してここを居城としています。
同時に松倉城は廃城とされています。
さてこの松倉城ですが、実際に訪れてみると大規模な石垣が残されていて、ほとんど総石垣の城です。
山城でこれだけの石垣を持つ城はそうそうないでしょう。
しかしもう一つ気づいたのは曲輪の広さが狭いということです。本丸、本丸外曲輪、二の丸、三の丸、腰曲輪など比較的少数の曲輪を持っていますが、いずれの曲輪も比較的狭いのです。
姉小路氏の居城となれば姉小路氏の主力が駐屯することを考えておかないといけないのに、これですと少数の兵しか収容できないでしょう。
見事な石垣群とはあまりにも見事にアンバランスな曲輪の広さですが、これはやはり飛騨国の石高及び人口が少ないということから、動員できる兵力も小さいことからくるものでしょう。
ですから要害堅固と言われているこの松倉城ですが、本格的な大軍に攻められたらひとたまりもないと言えるでしょう。
曲輪の広さが狭いという点を除くと、織豊系城郭としての特徴を持っている松倉城ですが、当時の三木氏は織田信長についていたので、その影響を受けたのでしょう。これは三木氏と並ぶ飛騨国の有力武将だった高原郷領主・江馬氏の高原諏訪城が全く石垣を使っていないのとは対照的です。江馬氏は上杉氏及び武田氏についていたのですが、上杉氏の戦国期の居城である春日山城及び江戸時代の居城である米沢城も石垣がなく土塁のみの城ですし、武田氏の新府城も土塁のみの城であったのです。
まあ、三木氏が織田氏についたのは好判断であったと言えるのですが、信長が滅ぼされた後に佐々成政について秀吉と対立したのは失敗でした。元々三木氏は佐々成政と親しかったので、信長死後も成政とつながっていたのかも知れませんが、天下の情勢を眺めてみれば既に秀吉に傾いていたので、秀吉につく方が良かったと思われるのですが、飛騨国への情報が途絶してしまっていたのでしょうね。つまり三木氏には情勢を正確に判断する材料がなかったのではないかと思われます。

城への入口には松倉シンボル広場があります 城への入口
城への入口には松倉シンボル広場があります 城への入口 
城への通路はけっこう急です 通路から下方を見る
城への通路はけっこう急です 通路から下方を見る 
通路は遊歩道となっているのですが さらに進みます・・・ 
通路は遊歩道となっているのですが さらに進みます・・・ 
本丸への看板 通路の途中に堀切が
本丸への看板 通路の途中に堀切が
堀切は尾根を真っ二つに切っています 堀切
堀切は尾根を真っ二つに切っています 堀切
大手道 ここは三の丸西南角櫓の石垣
石垣がありました ここは三の丸西南角櫓の石垣
本丸への通路が続きます 石垣がここにもありました
本丸への通路が続きます 石垣がここにもありました
三の丸西南角櫓跡 ここに櫓があったとすれば小さいものでしょう
三の丸西南角櫓跡 ここに櫓があったとすれば小さいものでしょう
西南角櫓跡からみた三の丸 三の丸全景
西南角櫓跡からみた三の丸 三の丸全景
搦手門跡 本丸外曲輪の石垣
搦手門跡 本丸外曲輪の石垣
腰曲輪 本丸外曲輪下の石垣
腰曲輪 本丸外曲輪下の石垣
本丸外曲輪北西部 三の丸は休憩所となっていました
本丸外曲輪北西部 三の丸は休憩所となっていました
三の丸南側の曲輪 南石門跡
三の丸南側の曲輪 南石門跡
主郭にもさほど大規模な建築物はなかったと思われます 東南角櫓跡
本丸南側の石垣跡 東南角櫓跡
二の丸南側には東南角櫓と南石門があった 二の丸南側の石垣
二の丸南側には東南角櫓と南石門があった 二の丸南側の石垣
こんなところにも石垣があるなんて ここを登るのは至難の業です
こんなところにも石垣があるなんて ここを登るのは至難の業です
本丸南側の石垣 旗立石・・・こんなものどうやって運んだのか
本丸南側の石垣 旗立石・・・こんなものどうやって運んだのか
二の丸跡 松倉遊歩道の案内図
二の丸跡 松倉遊歩道の案内図
本丸から見る高山市街地 大手道は飛騨の里に通じています
本丸から見る高山市街地 大手道は飛騨の里に通じています
二の丸にある井戸跡 井戸跡を示す案内板
二の丸にある井戸跡 井戸跡を示す案内板
井戸跡は埋まっています 井戸跡のそばに大手門跡があります
井戸跡は埋まっています 井戸跡のそばに大手門跡があります
注意書きがあちこちにあります 二の丸東側の石垣
注意書きがあちこちにあります 二の丸東側の石垣
この巨石は旗立石と読んでいます 本丸南東側の石垣
この巨石は旗立石と読んでいます 本丸南東側の石垣
二の丸跡 本丸石垣
二の丸跡 本丸石垣
本丸を囲む石垣跡 供養塔
本丸を囲む石垣跡 供養塔
本丸には石碑や三角点などいろいろあります 本丸の北側には高山市街地が展望できます
本丸には石碑や三角点などいろいろあります 本丸の北側には高山市街地が展望できます
本丸から見た二の丸 本丸東側の石垣から見た本丸中央部
本丸から見た二の丸 本丸東側の石垣から見た本丸中央部
本丸の東側にも石垣が 石垣が本丸を囲んでいます
本丸の東側にも石垣が 石垣が本丸を囲んでいます
史跡を示す石碑 三角点
史跡を示す石碑 三角点
本丸跡の標高は856.7m 金森長近像
本丸跡の標高は856.7m 本丸西側に一段低い外曲輪がある
本丸外曲輪は削平がやや不十分 本丸西南側の石垣
本丸外曲輪は削平がやや不十分 本丸西南側の石垣
飛騨松倉城跡
住所 岐阜県高山市松倉町 形式 山城(標高856.7m・比高360m)
遺構 曲輪、石垣、堀切、井戸 築城者 姉小路頼綱(三木自綱)
施設 標識、休憩所 城主 姉小路(三木)氏
駐車場 麓に駐車スペースあり 築城年 天正7年(1579年)
文化財 岐阜県史跡 廃城年 天正16年(1588年)
 スライドショー
スライドショーの使い方

 3つのボタンで画像を移動できます。
 
 最初・・・最初の画面に戻ります。

 戻る・・・一つ前の画像に戻ります。

 次へ・・・次の画像に移動します。
 
 拡大・・・拡大画像を表示します。
               
県史跡 松倉城跡マップ
電子国土ポータルへのリンクです