国史跡・国重要文化財 金沢城
国史跡・国重要文化財 金沢城の概要
金沢城石川門続櫓
金沢城石川門続櫓
金沢城は、石川県金沢市丸の内にある梯郭式平山城です。
江戸時代には一貫して加賀藩主前田氏の居城でした。
2008年(平成20年)には金沢城跡として国史跡に指定されています。
金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれています。
この城の建築上の特徴は、櫓や門に見られる白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠壁、屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋破風の出窓です。
さすがに加賀百万石の居城だけあって、たいへん壮大でなおかつ美しい建造物が揃っているのが目を引きます。
金沢城の始まりは、1546年(天文15年)に建立された、空堀や柵などを備える城造りの寺院であった尾山御坊(金沢御堂)です。
これが加賀国の支配権を得た加賀一向一揆(本願寺)の拠点となっています。織田軍が、1580年(天正8年)に尾山御坊を攻め落とし、佐久間盛政をここに置いて「金沢城」と呼ばれるようになりました。後に佐久間盛政は柴田勝家について賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉と戦ったのですが、秀吉軍に破れて捕らえられ斬首されてしまい、佐久間氏は滅亡してしまい、1583年(天正11年) に秀吉は金沢城を前田利家に与えています。この際に金沢城が尾山城と改称されています。
金沢城主となった前田利家は、前田家の当主である前田利昌の四男で本来は家督を継ぐような立場ではなかったのですが、織田信長の小姓として取り立てられ気に入られて側近として仕えるようになり、次々と戦功を立てています。
金沢城菱櫓
金沢城菱櫓
しかし利家は永禄2年(1559年)に同朋衆の拾阿弥を斬殺してしまい出奔しています。しかし、柴田勝家や森可成らの信長への取り成しにより、出仕停止処分とされて浪人暮らしをする羽目になります。その後、永禄3年(1560年)には出仕停止を受けていたのにも関わらず、信長に無断で桶狭間の戦いに参加して朝の合戦で首一つ、本戦で二つの計三つの首を挙げる功を立てていますが、勝手に戦に参加したということで帰参は許されませんでした。翌永禄4年(1561年)、森部の戦いでも無断参戦し、斎藤家重臣・日比野下野守の家来で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛なる豪傑を討ち取る功績を挙げています。この時、足立の以外にも首級1つを挙げていて、2つの首級を持参して信長の面前に出ると、今回は戦功が認められ、信長から300貫(一説に450貫文)の加増を受けて、ようやく帰参を許されたと言われています。
利家の浪人中に父・利昌は死去し、前田家の家督は長兄・利久が継いでいましたが、永禄12年(1569年)に信長から突如、兄に代わって前田家の家督を継ぐように命じられています。理由は利久に実子がなく、病弱のため「武者道少御無沙汰」の状態にあったからだといわれていますが、本当の理由はむしろ利久の養子である利益が滝川家から来たからではないかと思います。つまり利益、つまり前田慶次郎と信長とは相性が悪かったのではないかということと、滝川家は織田家家中では新参者で外様と言えたので、それが子飼いの前田家を乗っ取るのは望ましくなく、自分の子飼いの利家に家督を継がせる方がよいと信長が判断したのではないかと思います。
金沢城石川門表門
金沢城石川門表門
こうして前田家の家督を継いだ利家は、その後しばらくはいつも信長の身辺にいて信長を守る役目を仰せつかっています。
利家は天正2年(1574年)には北陸地方の司令官となった柴田勝家の与力となり、越前一向一揆の鎮圧に従事しています。翌年には越前一向一揆は平定されたが、この際に佐々成政、不破光治とともに府中10万石を与えられ、「府中三人衆」と呼ばれるようになります。越前平定後は、勝家与力として成政らと共に上杉軍と戦うなど主に北陸地方の平定に従事していますが、信長の命により摂津有岡城攻め(有岡城の戦い)、播磨三木城攻め(三木合戦)にも参加しています。この頃は、利家も各地を転戦していたということになりますが、本拠の越前と畿内とは実はけっこう近いので、行き来が比較的容易だったと言えます。
天正9年(1581年)には織田軍は能登から上杉氏の勢力を駆逐して、利家が能登七尾城主となり、能登23万石を領有する大名となっています。翌年には七尾城を廃城にして、港を臨む小山を縄張りして小丸山城を築城してここを居城としています。この地は今でも交通の要衝であり、利家の先見の明を感じさせます。
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で信長が家臣の明智光秀により討たれた時、利家は柴田勝家に従い、上杉景勝軍の籠る越中魚津城を攻略中であり、秀吉の光秀攻撃に加わることができなかった。魚津城は、翌3日に落城したものの、信長死すの報に織田軍は退却し、魚津城も放棄しています。上杉軍は城を取り戻してはいますが、死者は戻ってはこないのです。
金沢城石川門
金沢城石川門
明智光秀が秀吉によって滅ぼされた後、6月27日に織田家の後継人事等を決定する清洲会議において羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が対立すると、利家は勝家の与力であった事からそのまま勝家に与する事になるが、かねてから親交があった秀吉との関係にも悩んでいたといわれています。同年11月には勝家の命を受け、金森長近・不破勝光とともに山城国宝積寺城にあった秀吉を相手に一時的な和議の交渉を行っています。これは雪に閉ざされた北陸を本拠地としていた勝家の時間稼ぎでしたが、この際に秀吉に逆に懐柔されたといわれています。これが後の前田、金森らの裏切りに発展することになります。
そして翌天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いでは、利家は兵5,000を率いて柴田軍として布陣しましたが、合戦のたけなわで突然撤退し、羽柴軍の勝利を決定づけています。利家はその後越前国府中城に籠るが、敗北して北ノ庄城へ逃れる途中の勝家が立ち寄ってこれまでの労をねぎらい、湯漬けを所望したという逸話が残っています。勝家は秀吉と利家の関係を熟知していましたし、この時に一言も利家を責めるようなことは言わなかったとされています。その後府中城に使者として入った堀秀政の勧告に従って利家は降伏し、北ノ庄城に籠もった柴田勝家攻めの先鋒となっています。戦後本領を安堵されるとともに佐久間盛政の旧領・加賀のうち二郡を加増され、尾山城(金沢城)に移っています。この後は、金沢城は一貫して前田氏の居城となるわけです。前田利家は、この後は秀吉配下の大名として、その地位を保全されたことになります。ただし、越中にはまだ佐々成政がいて、潜在的な敵対勢力として未だ健在だったのです。
金沢城橋爪門続櫓
金沢城橋爪門続櫓
秀吉は、畿内と北陸地方を抑え、西は毛利氏と講和したことで次は東海地方をターゲットにします。
天正12年(1584年)には秀吉が徳川家康・織田信雄と対立し小牧・長久手の戦いが起こります。この際には、佐々成政が徳川家康らに呼応して能登に侵攻しましたが、末森城の戦いで佐々軍を退却に追い込んで死守しています。
一方、4月9日の長久手の戦いでは秀吉方は多数の将兵を失うという惨敗を喫していますが、その後も両軍の対陣が続いて戦線は膠着状態となっています。この間、利家は北陸からは動けず、秀吉への援軍を送ることはできませんでした。なぜなら佐々成政との抗争が続いていたからです。
末森城の戦いに勝った利家は、続いて荒山・勝山砦を攻略、越中へも攻め込んでいます。
成政との戦いは翌年まで持ち越され、その間利家は上杉景勝と連絡をとって越中境に進出させたり、成政方の部将である越中国阿尾城主菊池武勝に調略を仕掛けて寝返らせています。
天正13年(1585年)3月には秀吉は雑賀を鎮圧。6月には豊臣秀長を大将として四国へ遣わし、長宗我部元親を降伏させてこれを平定しています。8月、利家が越中への先導の役を果たし秀吉が10万の大軍を率いて攻め込むと富山城主佐々成政は秀吉に降伏しています。これを富山の役と呼びます。佐々成政は、越中国のうち新川郡のみを与えられて富山城は破却されています。
その後、成政は妻子と共に大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えています。さらに天正15年(1587年)の九州の役の戦後処理で肥後へ国替えになっていますが、肥後国内で広範な国一揆が発生した責任を取らされて尼崎で切腹しています。天正16年閏5月14日(1588年7月7日)の事でした。享年53歳。
金沢城橋爪橋と水堀
金沢城橋爪橋と水堀
一方、秀吉は利家の嫡子前田利長に越中のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増して、前田氏は父子で三ヶ国を領する大大名となっています。同年4月に、越前国主である丹羽長秀が没しており、それに伴い利家は豊臣政権下における北陸道の惣職ともいうべき地位に上り、越後の上杉氏や関東の北条氏、東北の諸大名とも連絡する役目に任じられています。
つまりこの時点で利家は秀吉政権下の重鎮としての地位を確立したと言えましょう。
天正14年(1586年)7月には九州征伐が開始され、前田利家は8,000の兵で畿内を守備していて、嫡男利長が九州へ従軍しています。この頃に秀吉が豊臣姓を名乗るとともに、利家には自分の旧称「羽柴筑前守」を名乗らせ、さらに天正13年(1585年)年11月29日には、朝廷に奏請して左近衛権少将に任官させています。同年7月には秀吉が関白に任官し、9月には豊臣姓を賜ると利家は右中将、天正18年(1590年)1月21日には参議に任じられています。また、秀吉が主催した北野大茶会や聚楽第行幸にも陪席していて、豊臣政権下では名実ともに重鎮として認められる立場であることがわかります。
さらに利家は奥州の南部信直や伊達政宗などに対して豊臣家への服従をもとめる交渉役となっています。
利家は天正16年(1588年)にキリシタン大名で築城の名手でもある高山右近を客将として迎えて尾山城の大改造を行っています。
金沢城橋爪門
金沢城橋爪門
この際に再び金沢城と呼ぶようになり、さらに1592年から1599年にかけて利家の子、利長が再び改修工事を行っています。
これらの大改造により金沢城は、5重の天守や櫓が建てられ、曲輪や堀も拡張されています。
高山右近は、築城術の権威であり戦も強い名将ですが、キリシタンにのめり込み過ぎて人生を誤ってしまった感があります。
天正18年(1590年)2月には北条氏制圧のための小田原合戦が起こり、利家は北国勢の総指揮として上杉景勝、真田昌幸と共に上野に入り、北条氏の北端要所の上野松井田城を攻略、他の諸城も次々と攻略しています。続いて武蔵に入り、鉢形城・八王子城を攻略しています。7月5日には北条氏が降伏しています。陸奥の伊達政宗もこの時すでに小田原に出向いて降参していたが、政宗に対する尋問は利家たちが行ったとされています。先に上洛を促していることといい、秀吉への奏者を務めていることといい、利家は伊達氏との外交についても担当していたわけです。
小田原落城後、秀吉は奥羽へ軍を進めています。秀吉自身は8月に帰陣の途についていますが、利家らはさらに奥羽の鎮圧に努めています。九戸政実の乱を鎮圧することで奥羽も平定しました。国内を統一した後の秀吉は唐入り(高麗御陣)、すなわち朝鮮出兵を始めてしまいます。これが結果的には豊臣家滅亡の原因となってしまいます。石田三成を始めとした奉行衆と福島正則らの武闘派との対立が決定的になってしまうからです。
天正19年(1591年)8月、秀吉より出兵の命が出され、名護屋城の築城が始められています。
金沢城本丸石垣
金沢城本丸石垣
文禄元年(1592年)、3月16日に利家は諸将に先んじて京を出陣、名護屋に向かっています。初め秀吉は自ら渡海する意思を持っていのですが、利家、家康らはその非なるを説き、思い止まらせています。7月22日、秀吉は母大政所危篤の報を聞いて、急ぎ東上しています。葬儀を終えて、再び名護屋へ向け大坂を発ったのが10月1日のことで、約3ヶ月間名護屋を留守にしていたことになり、その間、秀吉に代わって諸将を指揮し、政務を行っていたのは家康と利家でした。
慶長2年(1593年)1月に渡海の命を受けて準備し、陣立てまで定まっていましたが、明との講和の動きが進んだので、渡海は中止されています。5月15日、明使が名護屋に着くと、家康、利家の邸宅がその宿舎とされています。8月、秀頼誕生の報に、秀吉は大坂に戻り、利家も続いて東上し、11月に金沢に帰城しています。このときにまつの侍女である千代の方との間に生まれた子供が猿千代、のちの加賀藩主前田利常です。この間にも、先述したように金沢城の改修工事は続けられていました。
慶長3年(1598年)になると秀吉、利家ともに健康の衰えを見せ始めるようになり、病臥に伏せることが多くなったようです。利家は3月15日に醍醐寺三宝院での花見に妻のまつと陪席すると、翌月の4月20日に嫡子利長に家督を譲り隠居、湯治のため草津に赴いています。この時、隠居料として加賀石川・河北郡、越中氷見郡、能登鹿島郡にて1万5千石を与えられています。
金沢城菱櫓と五十間長屋
金沢城菱櫓と五十間長屋
しかし、草津より戻った利家は、五大老・五奉行の制度を定めた秀吉より五大老の一人に命じられています。しかも家康と並ぶ五大老の上首の地位となって豊臣政権の重臣としての立場が明確になります。そして8月18日、秀吉は、利家らに嫡子秀頼の将来を繰り返し頼み没しています。辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢 」。
慶長4年元旦(1599年)諸大名は伏見に参集し、新主秀頼に年賀の礼を行っています。利家は病中ながらも傳役として無理をおし出席、秀頼を抱いて着席しています。そして10日、秀吉の遺言通り、家康が伏見城に、利家が大坂城に入っています。以後、利家が秀頼の傅として、大坂城の実質的主となっています。
しかし、間もなく家康は亡き秀吉の法度を破り、伊達政宗、蜂須賀家政、福島正則と無断で婚姻政策を進めています。利家はこれに反発し、諸大名が家康・利家の両屋敷に集結する騒ぎとなったのです。利家には、上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老や五奉行の一人石田三成、武断派の細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味方していますが、2月2日には両者の和解が成って、利家を含む四大老、五奉行の九人と家康とが誓紙を交換し、さらに利家が家康のもとを訪問しています。家康も利家と対立することは不利と悟り家康が向島へ退去すること等で和解しています。この直後、利家の病状が悪化し、家康が病気見舞いのため利家邸を訪問しています。この時利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたというエピソードが残っています。
金沢城五十間長屋内部
金沢城五十間長屋内部
その後利家は大坂の自邸で程なく病死しています。享年61(満60歳没)。
利家は、当時としてはかなりの長身で美貌の持ち主で非常に見栄えのいい武将であったと言われています。しかも傾奇者の風潮を好み、若年の頃は女物の着物や動物の毛をあしらった着物などの派手な格好に、腰には赤鞘の太刀をぶら下げ、常に途方も無い長さの朱槍を携えていたといわれています。ですから若い時の利家は粗暴、かつかなりの喧嘩好きで知られています。
しかしこれでは信長といっしょですね。だから信長にかわいがられたのでしょうかね。
利家の跡を継いだ嫡子利長は、利家の遺言で3年は上方を離れるなとあったにもかかわらず、同年8月に家康の勧めにより金沢へ帰国してしまいます。罠に決まっているのにね。そう言えばこの手は上杉景勝にも使っていますね。
翌月、五奉行の一人増田長盛が利長・浅野長政らの異心を家康に密告します。やっぱりね。しかし増田長盛という人物もよくわからない人です。石田方についているはずなのに家康にも極秘情報を流すような事を平気でしています。
もちろんこれは言いがかりに過ぎないのですが、この時期には前田氏を屈服させようとする家康の謀略があったと考えられており、家康は強権を発動して加賀征伐を献言する事態となります。
そもそも家康も五大老の一人に過ぎないのに、他の五大老を討伐するなど越権行為だと思うのですが。利長はそれだけ甘く見られたと言えるでしょう。しかし利家に対してだったら、こんな手は使えなかったでしょうが、若い利長はまだまだ他の大老を動かすだけの人望はなかったのでしょう。もっとも上杉氏や毛利氏に救援を申し入れても地勢的な制約もあって難しそうです。
金沢城五十間長屋内部の石落とし
金沢城五十間長屋内部の石落とし
これに対して利長は最初徹底交戦する動きを見せ城を増強したりなどしていましたが、豊臣家へ救援を申し入れたのにそれを拒絶されたことから、利家の妻である芳春院が人質になることを条件に和睦となっています。
実際のところ、金沢城はここに籠城して敵を撃退するという堅固な城とは言い難いところがあり、大軍に包囲されたら支えきれないと思われます。ですから徳川氏と正面から戦うのは不利だと考えて和睦したのでしょう。
後に関ヶ原の合戦の際に上杉家が家康に反抗し、約90万石を失う大打撃を受けたことをみれば、徳川氏と正面から争うことを避けた前田家は先見の明があったと言えます。しかし家康と唯一互角に渡り合える程の人望を持っていた利家の死去は、豊臣氏滅亡を決定づけた最大の要因となったといえましょう。残念ながら石田三成は豊臣家臣の中でも武断派の武将に嫌われていたし、戦の経験でも利家には及ぶべくもありません。関ヶ原の敗戦の原因もつまりは武断派武将と三成の仲がうまくいっていなかったところを家康につけ込まれたからです。
慶長5年(1600年)、家康は五大老の一人である会津の上杉景勝討伐のために出陣し、利長にも出陣が命じられています。
家康出陣中に石田三成らが五大老の毛利輝元を擁立して挙兵すると、利長は弟利政の軍務放棄といった問題に悩まされながらも北陸で大聖寺城を落として西軍方の山口宗永を自刃させています。しかし西軍方の大谷吉継の偽情報に踊らされて動揺し、一旦金沢へ帰還することにします。しかし大谷吉継はさすがに秀吉が百万の軍勢の軍配を預けてみたいと言わしめた人物ですね。
金沢城五十間長屋内部
金沢城五十間長屋内部
まるで諸葛亮孔明みたいな軍略家です。
金沢への撤退を決意した利長率いる前田軍はなんと帰還途上で小松城主の丹羽長重の軍に待ち伏せされて大損害を受けています。これを浅井畷の戦いと呼びますが、小松城付近の狭い畦道と湿地帯に苦しめられながらも長連龍や山崎長徳の活躍で丹羽長重の軍をかろうじて撃退した前田軍は金沢に撤退しています。その後、前田利家は丹羽長重と和睦する形でこれを降伏させています。しかし利長もかなりふがいないですね。丹羽長重は、少数の兵であっても地形を最大限に生かした戦法で前田軍に多大な損害を与えているなど、なかなかやりますね。
しかし関ヶ原の戦いは西軍が敗れてしまい、西軍に与した大名は改易や減封などの厳しい処分を受けることになります。
丹羽長重も、いったん改易になりますが、後に復帰しています。これは丹羽長重の築城術が評価されたのと、浅井畷の戦いぶりを認められたからではないかと思います。
関ヶ原の戦いの後には、西軍に与した弟の利政の領国である能登と丹羽長重、山口宗永の所領であった加賀国能美郡・江沼郡・石川郡松任が加領され、加賀・越中・能登と合わせて120万石を支配し、金沢城を居城とする加賀藩が成立しました。
しかし1602年(慶長7年)に天守が落雷によって焼失してしまい、代わりに御三階櫓が建造されています。石川県地方は現在でもそうですが、特に冬場には雷が良く発生するのでそれにやられたのでしょう。
1631年(寛永8年)には金沢城下に大火が発生し金沢城内も被災し、焼失戸数は1,000戸にのぼりました。これが元で1632年(寛永9年)には防火のため辰巳用水が城内に引かれています。
金沢城菱櫓二階内部
金沢城菱櫓二階内部
さらに1759年(宝暦9年)に金沢城下で発生した大火(寺町から出火)で御三階櫓が焼失し、以後天守および代用の櫓も再建されませんでした。 これを宝暦の大火といいます。
この際に金沢城内の本丸、二の丸、三ノ丸、大手門、坂下門などが焼け、城下の焼失家屋は10,508軒(内 4,150軒武家屋敷、4775軒町家、99軒寺社、1,506軒寺社門前の百姓屋、23軒毀家)で外に土蔵283棟、橋梁29、番所27、木戸61の焼失があり、焼死者26人という空前の大火でした。この際に加賀藩では応急策として幕府から5万両を借入れて救済につとめています。
現在、重要文化財に指定されている石川門もこの際に焼けていますが、1788年(天明8年)に再建して現存しています。戌亥櫓、丑寅櫓、辰巳櫓もこの際に焼失していて、これまで再建されずじまいです。これらの櫓も再建してほしいですが、その場合は資料に基づいて、正確に再現しないと許可されないでしょう。
実は天守が再建されなかった理由として、すでに戦争が起こることはないので城は政庁としての役割だけでいいとからということと、他の大名家が参勤交代で金沢城下を通ることがないので、見栄を張る必要がなかったからという理由もあります。
もっとも本当の理由は財政的に逼迫していたということでしょう。また当時は徳川幕府の手前、勝手に天守を築くことはできないし、江戸城でさえも天守が焼失した後は再建していないくらいですから、財政的にも政治的にも天守を再建することはメリットよりデメリットが大きすぎたと思われます。
それにしても現在の本丸跡はまるでジャングルのようになっています。二の丸や三の丸が極めて美しく整備されているのに本丸があの有り様というのも、たいへん珍しいケースです。動植物の宝庫として貴重なエリアとなっているので維持されているのでしょう。
金沢城五十間長屋内部の軸組模型部分平面図
金沢城五十間長屋内部の軸組模型部分平面図
加賀藩は言うまでもありませんが前田家が一貫して藩主の地位にありましたが、明治維新になり、1871年(明治4年)には金沢城も廃城となりますが、1873年(明治6年) には全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方により金沢城が存城処分となり、陸軍省の財産となっています。そして1875年(明治8年)には 陸軍第7連隊が金沢城址に置かれています。
ところが1881年(明治14年)には火災で石川門と三十間長屋と鶴丸倉庫を残して焼失してしまっています。
1898年(明治31年)に陸軍第9師団司令部が金沢城址に置かれ、これは第二次世界大戦が終わるまで存続しています。
この第9師団は陸軍の中でも最精鋭部隊との呼び声が高かった最強部隊です。終戦時には台湾に進駐していました。
戦後には1949年(昭和24年) 、新設された金沢大学(丸の内キャンパス)として使われるようになりますが、1989年(平成元年)秋からに1995年(平成7年)にかけて移転しています。
1996年(平成8年)には石川県が国から金沢城祉を取得し、金沢城址公園として整備を開始しています。そして1999年(平成11年) には金沢城の復元整備事業の第1期工事を着工し、2001年(平成13年) には菱櫓・橋爪門・橋爪門続櫓・五十間長屋が復元完了し、名称も金沢城公園と改称されています。
2006年(平成18年)には金沢城が日本100名城(35番目)に選定されています。
木組
木組
同年、石川県と金沢市は、金沢城を中心とする「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の世界遺産(文化遺産)への登録を目指し、「世界遺産暫定一覧表」への記載を国(文化庁)に共同提案していますが、継続審議が適当とされ追加記載には至らなかったものの暫定一覧表候補(カテゴリーⅠb)との評価がなされています。
現在、金沢城の第2期復元整備事業が2014年完成を目指して進められています 。2010年春の完成を目指す河北門の復元事業は、2007年11月に工事着工されています。
その他には、石川門の保存修理、橋爪門二の門の復元整備、いもり堀の段階復元などが計画されています。
金沢城の中核をなす二の丸御殿の復元については、残念ながら現時点ではまだ目処が立っていません。
どうせなら天守を復元して欲しいところですが。
平成27年3月には、橋爪門二の門と玉泉院丸庭園の復元が完成して、金沢城の往年の姿にまた一つ近づいたと言えます。
この橋爪門は、寛永8年(1631)の大火後に整備された二の丸の正門です。高麗門形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門形式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇ります。「石川門」、「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられ、また、二の門の床には二の丸御殿と同じ敷き方で戸室石が敷かれるなど格式の高い門でした。
金沢城橋爪門二の門
金沢城橋爪門二の門
文化五年(1808)の二の丸火災で焼失した後、文化六年(1809)に再建された姿を復元しています。
今回の整備では、平成13年に復元された「一の門」に続く、「二の門」と「枡形二重塀」を復元することとし、平成24年6月に工事着工、平成27年3月に完成しました。
玉泉院丸庭園は、加賀藩三代藩主であった前田利常による寛永11年(1634)の作庭を始まりとし、その後五代藩主「綱紀」や十三代藩主「斉泰」などの歴代の藩主により手を加えられながら、廃藩時まで金沢城内玉泉院丸にあった庭園です。
庭園は明治期に廃絶され、その面影は失われていましたが、平成20年から5年間をかけて実施した発掘調査の成果や、絵図、文献、その他類似事例等に基づき設計を行い、平成25年5月に整備工事に着手しました。
整備にあたっては、遺構保存のため全体的に盛土を行い、その上に庭園を造成しています。また、外周部の石垣修築や入口部の整備など玉泉院丸一帯の整備も合わせて行い、平成27年3月には庭園の復元工事が完了し往時の姿が再現されました。
この庭園は、饗応の場として活用された「兼六園」に比べ、藩主の内庭としての性格が強い庭園だったと考えられています。
庭園は、城内に引かれた辰巳用水を水源とする池泉回遊式の大名庭園で、池底からの周囲の石垣最上段までの高低差が22mもある立体的な造形でした。滝と一体となった色紙短冊積石垣などの、意匠性の高い石垣群を庭の構成要素とする、他に類を見ない独創的な庭園であったと考えられています。
玉泉院丸庭園
玉泉院丸庭園
金沢城に隣接している日本庭園は兼六園と呼ばれていて、国特別名勝に指定されています。
広さ約3万坪、江戸時代を代表する池泉回遊式庭園としてその特徴をよく残しています。後楽園(岡山市)との偕楽園(水戸市)と並んで、日本三名園の一つに数えられています。兼六園は、江戸時代に加賀藩の庭園として延宝4年(1676年)に五代藩主前田綱紀が「蓮池亭(れんちてい)」を造り、その庭を「蓮池庭(れんちてい)」と呼んだのが始まりとされています。これは、蓮池門を入った辺りであり、現在7つある門の中で正門とされています。当時は、金沢城の外郭として城に属していました。
13代藩主前田斉泰は、天保8年(1837年)霞ヶ池を掘り広げて増庭させ、現在のものにほぼ近い形にしたとされます。「兼六園」の名称が定められたのもこの頃です。
園内には、霞ヶ池の他に瓢池、長谷池と辰巳用水が流れていて、さらに噴水があります。この噴水は、日本に現存する最も古い噴水であるといわれています。これより高い位置にある園内の水源、霞ヶ池から石管で水を引き、水位の高低差だけを利用して、水を噴き上げさせています。そのため、水が噴き上がる最高点は、ちょうど霞が池の水面の高さに相当する。ポンプなどの動力は一切用いておらず、位置エネルギーのみを利用したものなのです。
園の東南側には、13代藩主前田斉泰が母親である眞龍院の隠居所として建てられた成巽閣が現存していて、国重要文化財に指定されていますが、現在工事中です。
なお、金沢の地名は園内にある湧き水「金城霊沢」(きんじょうれいたく)を由来としています。

金沢城五十間長屋内部 金沢城橋爪櫓二階内部
金沢城五十間長屋内部 金沢城橋爪櫓二階内部
金沢城極楽橋 金沢城本丸と二の丸間の空堀
金沢城極楽橋 金沢城本丸と二の丸間の空堀
金沢城三十間長屋 金沢城鉄門跡
金沢城三十間長屋 金沢城鉄門跡
なんと三十間長屋が特別公開されていました 三十間長屋内部
なんと三十間長屋が特別公開されていました 三十間長屋内部
三十間長屋の中は明かりがないので実際は薄暗い 実際の三十間長屋の内部はこんな感じです
三十間長屋の中は明かりがないので実際は薄暗い 実際の三十間長屋の内部はこんな感じです
復元工事が完了した河北門二の門 河北門一の門の内側
復元工事が完了した河北門二の門 河北門一の門の内側
河北門二の門の表側 河北門一の門
河北門二の門の表側 河北門一の門
河北門二の門内部 河北門二の門石垣の施工について
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石川門も特別公開されていました 石川門内部
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石川門内部 石川門内部の回廊から門を見る
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石川門内部 石川門内部
水の手門 三十間長屋裏手
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金沢城戌亥櫓跡 本丸から見た橋爪門続櫓
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金沢城本丸石垣 金沢城鶴丸倉庫
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鶴丸倉庫の内部 鶴丸倉庫は現存する土蔵としては最大級の規模です
鶴丸倉庫の内部 鶴丸倉庫は現存する土蔵としては最大級の規模です
鶴丸倉庫の二階内部 一階の床は張り替えられていました
鶴丸倉庫の二階内部 一階の床は張り替えられていました
金沢城橋爪門続櫓、菱櫓、五十間長屋全景 金沢城丑寅櫓跡
金沢城橋爪門続櫓、菱櫓、五十間長屋全景 金沢城丑寅櫓跡
金沢城本丸園地 金沢城辰巳櫓跡
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金沢城本丸石垣 金沢城橋爪門続櫓
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金沢城河北門復元工事中 金沢城二の丸東側の石垣と水堀
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金沢城河北門 金沢城河北門
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金沢城菱櫓 旧第6旅団司令部
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金沢城大手門口 金沢城大手門石垣
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金沢城土橋門 金沢城二の丸北面石垣
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金沢城菱櫓 金沢城内堀石垣と水堀
金沢城菱櫓 金沢城内堀石垣と水堀
金沢城五十間長屋と内堀石垣 金沢城橋爪門(裏門)
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金沢城菱櫓・五十間長屋入口 金沢城鶴の丸土塀
金沢城菱櫓・五十間長屋入口 金沢城鶴の丸土塀
金沢城五十間長屋 金沢城本丸と二の丸の間の堀切
金沢城五十間長屋 金沢城本丸と二の丸の間の堀切
金沢城橋爪門続櫓・五十間長屋 金沢城橋爪門続櫓と鶴の丸広場
金沢城橋爪門続櫓・五十間長屋 金沢城橋爪門続櫓と鶴の丸広場
金沢城鶴の丸広場 金沢城鶴の丸広場庭園
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金沢城鯉喉櫓台 金沢城いもり堀
金沢城鯉喉櫓台 金沢城いもり堀
金沢城鯉喉櫓台石垣 金沢城辰巳櫓下石垣
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金沢城鯉喉櫓台 金沢城本丸南面の高石垣
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本丸南面の高石垣は二段になっています 河北門下層遺構出土の石材
本丸南面の高石垣は二段になっています 河北門下層遺構出土の石材
橋爪門続櫓台内部出土の石材 切石
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薪の丸入口 石垣の展示品が並んでいます
薪の丸入口 石垣の展示品が並んでいます
いもり坂入口 玉泉院丸跡
いもり坂入口 玉泉院丸跡
本丸と二の丸の間の空堀 本丸北面の石垣
本丸と二の丸の間の空堀 本丸北面の石垣
百間堀の説明板 金沢城・兼六園の案内板
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百間堀 東丸・鶴の丸の東側石垣群
百間堀 東丸・鶴の丸の東側石垣群
石川門続櫓は修理中です 石川門
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石川門二の門 石川門一の門
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三の丸の城壁と門 三の丸にある門
三の丸の城壁と門 三の丸にある門
三の丸の城壁と門 三の丸の土塀と門
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河北門二の門 河北門二の門内部
河北門二の門 河北門二の門内部
河北門二の門内部に展示されている壁の構造 河北門二の門の内部は美しい造りです
河北門二の門内部に展示されている壁の構造 河北門二の門の内部は美しい造りです
河北門からみた三の丸 五十間長屋と橋爪門続櫓
河北門からみた三の丸 五十間長屋と橋爪門続櫓
橋爪門がなぜか閉ざされています 菱櫓のそばで撮影していますね
橋爪門がなぜか閉ざされています 菱櫓のそばで撮影していますね
実は橋爪門を改修するための発掘調査中なのです 菱櫓と五十間長屋
実は橋爪門を改修するための発掘調査中なのです 菱櫓と五十間長屋
河北門全景 菱櫓と二の丸内堀
河北門全景 菱櫓と二の丸内堀
菱櫓全景 五十間長屋と二の丸内堀
菱櫓全景 五十間長屋と二の丸内堀
裏口門跡 今日はラリーニッポン2010が開催されています
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ほほう、ねこバスですね 今日はラリーニッポン2010が開催されています
ほほう、ねこバスですね クラシックカーが並んでいます
しかしすごい車が並んでいます 京都から東京までレースするのです
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菱櫓と五十間長屋 ラリーニッポン2010開催本部
菱櫓と五十間長屋 ラリーニッポン2010開催本部
菱櫓と五十間長屋 菱櫓内部
菱櫓と五十間長屋 菱櫓内部
五十間長屋内部 五十間長屋は倉庫だったのです
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五十間長屋内部にはいくつも模型があります 橋爪門続櫓内部
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橋爪門続櫓から見た橋爪門 橋爪門続櫓内部
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出窓の石落とし 壁断面実物展示
出窓の石落とし 壁断面実物展示
なまこ壁の実物展示 鉛瓦実物展示
なまこ壁の実物展示 鉛瓦実物展示
菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓 極楽橋
菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓 極楽橋
三十間長屋は公開中です 三十間長屋の説明板
三十間長屋は公開中です 三十間長屋の説明板
三十間長屋の内部 三十間長屋も倉庫でした
三十間長屋の内部 三十間長屋も倉庫でした
三十間長屋は国重要文化財です 三十間長屋はいつもは非公開なのです
三十間長屋は国重要文化財です 三十間長屋はいつもは非公開なのです
三十間長屋全景 鉄門跡
三十間長屋全景 鉄門跡
橋爪門付近の発掘調査 橋爪門を枡形門に改修する予定です
橋爪門付近の発掘調査 橋爪門を枡形門に改修する予定です
桝形門に改修されるのが楽しみですね 本丸はジャングルのようになっています
桝形門に改修されるのが楽しみですね 本丸はジャングルのようになっています
戌亥櫓跡の説明板 辰巳櫓跡の説明板
戌亥櫓跡の説明板 辰巳櫓跡の説明板
本丸の説明板 丑寅櫓跡の説明板
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橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓 本丸石垣
橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓 本丸石垣
本丸・東の丸石垣 本丸石垣
本丸・東の丸石垣 本丸石垣
鶴丸倉庫の説明板 国重要文化財・鶴丸倉庫
鶴丸倉庫の説明板 国重要文化財・鶴丸倉庫
橋爪門復元工事の説明板 橋爪門の発掘調査
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橋爪門の説明板 橋爪門続櫓
橋爪門の説明板 橋爪門続櫓
戌亥櫓石垣 内堀と五十間長屋
戌亥櫓石垣 内堀と五十間長屋
菱櫓と五十間長屋 河北門全景
菱櫓と五十間長屋 河北門全景
工事中ですが石川門が公開中でした 石川門続櫓内部
工事中ですが石川門が公開中でした 石川門続櫓内部
石川門内部 石川門内部
石川門内部 石川門内部
橋爪門・続櫓・五十間長屋・菱櫓 河北門二の門へ入ります
橋爪門・続櫓・五十間長屋・菱櫓 河北門二の門へ入ります
二の門をくぐります 河北門一の門へ入ります
二の門をくぐります 河北門一の門へ入ります
河北門は枡形門です 河北門一の門
河北門は枡形門です 河北門一の門
新丸から見た菱櫓 河北門一の門への坂はけっこう急です
新丸から見た菱櫓 河北門一の門への坂はけっこう急です
兼六園霞ヶ池 兼六園水道遺構
兼六園霞ヶ池 兼六園水道遺構
兼六園虹橋 兼六園雁行橋
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兼六園内橋亭 兼六園蓬莱島
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兼六園成巽閣 兼六園辰巳用水
兼六園成巽閣 兼六園辰巳用水
兼六園夕顔亭 兼六園瓢池
兼六園夕顔亭 兼六園瓢池
兼六園竹根石手水鉢 兼六園噴水
兼六園竹根石手水鉢 兼六園噴水
兼六園翠滝 兼六園瓢池の鯉
兼六園翠滝 兼六園瓢池の鯉
橋爪門二の門 橋爪門二の門
橋爪門二の門 橋爪門二の門
橋爪門二の門 橋爪門二の門番所
橋爪門二の門 橋爪門二の門番所
橋爪門二の門内部 橋爪門続櫓と二の門
橋爪門二の門内部 橋爪門続櫓と二の門
橋爪門二の門 橋爪門一の門
橋爪門二の門 橋爪門一の門
橋爪門枡形内部 橋爪門二の門
橋爪門枡形内部 橋爪門二の門
玉泉院丸庭園 玉泉院丸庭園全景
玉泉院丸庭園 玉泉院丸庭園全景
唐傘 玉泉院丸庭園は高低差が大きいのが特徴です
唐傘 玉泉院丸庭園は高低差が大きいのが特徴です
玉泉庵 坪野石を使った石垣
玉泉庵 坪野石を使った石垣
段落ちの滝 色紙短冊積石垣
段落ちの滝 色紙短冊積石垣
井戸 船小屋
井戸 船小屋
玉泉庵 玉泉院丸庭園全景
玉泉庵 玉泉院丸庭園全景
金沢城・兼六園管理事務所
所在地 〒920-0937 金沢市丸の内1番1号
電話 076-234-3800 FAX:076-234-5292
入園料 菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓 大人310円 小人100円
兼六園 大人300円 小人100円
共通入園料 500円  
アクセス 金沢駅から北鉄バスで約15分「兼六園下」下車、徒歩約5分
駐車場 兼六駐車場  1時間350円 30分毎150円
香林坊地下駐車場 1時間400円 30分毎150円
丸の内駐車場 1時間400円 30分毎150円
金沢城
住所 石川県金沢市丸の内 城郭構造 梯郭式平山城
遺構 石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫、石垣
土塁、堀、移築能舞台
天守構造 不明(1592年築・1602年焼失)
御三階櫓(1602年築・非現存)
再建造物 菱櫓、橋詰門、橋詰門続櫓、五十間長屋、河北門 築城者 一向一揆
施設 説明板、休憩所、その他多数 城主 一向一揆 佐久間盛政 前田氏
駐車場 周辺に有料駐車場あり 築城年 天文15年(1546年)
指定文化財 国史跡 国重要文化財(石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫) 廃城年 明治4年(1871年)
 スライドショー
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