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浅井城跡は現在では誕生寺となっています |
浅井城跡は、富山県射水市島にある居館跡です。現在では誕生寺がその跡地に建っています。
誕生寺は富山県では比較的少ない日蓮宗の寺院です。寺の前には誕生水と呼ばれる湧き水があり、これは、日蓮宗本門法華派の開祖の日隆聖人の御誕生の際、生家である浅井城の前庭に清泉が湧き出たことから名づけられたと言われています。
とやまの名水のひとつで眼病に効くという効能があるといわれています。残念ながら現在では浅井城としての遺構は残っていないようです。まあ、南北朝期に廃城となり誕生寺がその跡地に建立されているので城跡としては残らなかったとしても不思議ではありません。
この浅井城は、南北朝期に桃井氏によって築かれたと考えられています。
桃井氏は、もともと足利氏一門で下野の足利氏の支族で、上野群馬郡桃井(現在の群馬県榛東村)を出身地としています。
桃井直常は、足利尊氏に従い、延元元年/建武3年(1336年)頃に下野・常陸で北畠顕家と合戦していてこれが歴史上の初見です。その後、延元3年/暦応元年(1338年)の青野原の戦いにも加わり、同年に若狭守護に任じられ、興国元年/暦応3年(1340年)頃には伊賀守護、ついで興国5年/康永3年(1344年)に越中守護に補任されています。これにより桃井直常は、越中国に庄ノ城、千代ヶ様城、布市城を築き、越中支配の拠点とします。
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浅井城跡には特に遺構が残っていないようです |
ところが正平5年/観応元年(1350年)に観応の擾乱が起きると、足利尊氏と弟の直義が対立するようになり、直常は足利直義派の有力武将として北陸から入京して翌正平6年/観応2年(1351年)の打出浜の戦いで尊氏・高師直らを追い、引付頭人に補任されています。しかし尊氏と直義の抗争が再発し、上野で尊氏方の宇都宮氏綱・益子貞正に敗れ、尊氏に降伏した直義が翌年鎌倉で没すると、直常はいったん行方不明となります。
正平10年/文和4年(1355年)になると、直常は直義の甥で養子の足利直冬を擁立して洛中を占拠しています。この時点では、桃井直常は南朝方として活動していたことになります。しかし足利直冬は、尊氏勢に破れて敗走しています。この頃では既に南朝方の勢力は弱体化していたということになります。しかし桃井直常は以後も信濃・越中で合戦を続けていましたが、勢力の衰退は避けられず、鎌倉へ下向して鎌倉公方足利基氏の保護を受けています。正平22年/貞治6年(1367年)、基氏が没すると直常は出家、上洛して足利義詮に帰順しています。そして斯波高経・義将父子の失脚(貞治の変)に伴い、弟の直信が越中守護に補されています。しかし翌正平23年/応安元年(1368年)、斯波義将の幕政復帰と共に直信は越中守護を解かれ、直常は再び越中で反幕府の軍事行動を開始することになります。しかし建徳元年/応安3年(1370年)直常の子、直和が越中国長沢で越中守護斯波義将の軍勢と戦い、戦死しています。・・・って長沢は筆者の地元ではないですか。そう言えば筆者の出身小学校に長沢決戦の絵図が飾ってあったのを思い出しました。当時は何のことかわからなかったのですが、今ならこの戦のことだとわかるわけです。
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誕生寺の正門 |
建徳2年/応安4年(1371年)7月に直常は姉小路家綱の支援を受けて飛騨から越中礪波郡へ進出し、幕府方の能登守護吉見氏頼と五位荘(現在の富山県高岡市)で合戦を行ったが敗北して、同年8月には飛騨へ撤兵して以後は消息不明となっています。
さて、建徳元年/応安3年(1370)に桃井直和が討死した際に、同族のよしみもあって斯波氏と桃井氏は和議を結び、直和の子直儀に斯波義将の娘益子を嫁がせて、浅井郷を与えました。この時築かれたのが浅井城と言われています。ですから、桃井氏は、浅井城に存続していたということになります。
ところが、応永2年(1395年)、二代目城主桃井直之が家臣によって殺害されてしまい、浅井城も廃城となっています。
そして直之の弟が兄の菩提を弔う為に出家し、城跡に一宇を建立しました。これが現在の「誕生寺」です。
実際のところ浅井城は地形的には、城というよりは居館であったというのが正しいところでしょう。現在、城の遺構はありません。
至徳2年/元中2年(1385年)に日蓮宗本門法華派の開祖、日隆聖人がこの浅井城にて御誕生の折、浅井城の前庭に清泉が湧きでたという故事に基づき、日隆聖人の生誕百年を記念して建立されたと言われていますが、実際には応永23年(1416年)に誕生寺が建立されたと考えれています。。
寺宝には日隆真筆の本尊五福、桃井系図・聖人絵伝・身代わりの絵像などがあります。清泉は現在も湧き出し「誕生水」と呼ばれていて、とやまの名水に選ばれています。「誕生水」は、人々に親しまれており、諸病に効き目があるとされ、特に眼病によいといわれています。
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とやまの名水~誕生寺の誕生水 |
誕生寺の御堂 |
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住所 |
富山県射水市島(誕生寺) |
形式 |
平城 (居館) |
遺構 |
誕生寺 |
築城者 |
桃井氏 |
施設 |
とやまの名水~誕生水 |
城主 |
桃井氏 |
駐車場 |
とくになし |
築城年 |
建徳元年(1370年)頃 |
文化財 |
なし |
廃城年 |
応永2年(1395年) |
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