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現在の柴田屋館跡には日吉社社殿があります |
柴田屋館は、富山県南砺市柴田屋にある城館です。
南砺市指定史跡に指定されています。
この柴田屋館は、越中国蓮沼城の出城と考えられています。
当時の城域は、ほぼ正方形で周囲に土塁を巡らせていました。現在、城域には日吉社が建っていて、土塁と郭跡が遺構として残っています。さらにおそらくは空堀が土塁の周りを囲んでいたのだと思われますが、現在では埋没してしまっていて遺構としては残っていません。現在残っている石垣は後世のものでしょうがけっこう立派なものです。
戦国期には永禄年間(1558年 - 1569年)に椎名康胤の家臣柴田丹後守久光が拠っていたと言われています。
しかし椎名氏は元々は魚津の松倉城主ですし、当時はこの一帯は一向一揆の勢力範囲ですので、少なくとも最初から椎名氏の家臣であったとは思えません。ただし、椎名康胤は、1569年に上杉謙信に松倉城を追われて、蓮沼城に逃れ一向一揆と合流しているので、椎名氏の家臣となったのはこの頃でしょう。
しかし天正3年(1575年)頃には柴田屋館は、木舟城主であった石黒成綱に攻められて落城し、柴田久光も討ち死にしたと思われます。この頃の石黒氏は上杉氏の配下だったので一向一揆の息のかかった柴田屋館は格好のターゲットになったのでしょう。本城の蓮沼城も翌年には上杉氏の攻撃を受けて落城し、椎名康胤も陣没していますので、これにより一向一揆も壊滅的打撃を受けています。
またもう一つの説として柴田丹波守久光は越中国小守護代遊佐氏の家臣であったという説もあるのですが、永禄年間当時は前述するように礪波郡は越中一向一揆の勢力範囲であり、蓮沼城主遊佐慶親は既に一向一揆により越中を追われ、越後に逃れていたので、柴田氏が当初は遊佐氏家臣であったとすれば、遊佐氏が追われた後は一向一揆勢力に取り込まれ、後に一向一揆に助けられて蓮沼城に逃れてきた椎名康胤の配下になったと考えると辻褄が合います。
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柴田屋館を囲む石垣 |
館跡は周囲の水田に比べて高くなっています |
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柴田屋館跡に残る土塁 |
柴田屋館北側の郭跡 |
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住所 |
富山県南砺市柴田屋 |
形式 |
平城 |
遺構 |
土塁・郭 |
築城者 |
不明 |
施設 |
日吉社 説明板 |
城主 |
柴田丹後守久光 |
駐車場 |
特にないが駐車スペースが若干あり |
築城年 |
永禄年間以前 |
文化財 |
南砺市指定史跡 |
廃城年 |
天正3年(1575年)頃 |
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