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日中城跡説明板 |
日中城は、富山県中新川郡立山町日中にある平城です。
この城は土肥美作守政繁が守る弓庄城を攻めるため、佐々成政が築いた砦のうちの一つです。
弓庄城城主の土肥美作守政繁は当初は上杉謙信に従属していたのですが、天正6年(1578年)に上杉謙信が急死し、織田信長が越中に進出すると、織田方に付くようになっていました。
この頃になると越中の諸豪族は、上杉方に付くか織田方に付くかを決めないといけない状況になっていて、信長に疑われた寺崎氏や石黒氏は粛正されています。土肥氏も再び上杉方に返り忠したらしく、天正9年(1581年)8月、佐々成政により弓庄城を囲まれていますが何とか城を持ちこたえています。しかしこの時は上杉氏の後詰が得られず、翌10年(1582年)には佐々成政に降伏しています。この時点で斬られても文句は言えませんね。
しかし、天正10年(1582年)に織田信長が明智光秀に本能寺で討たれると、土肥氏は再び上杉方に通じるようになりました。
佐々成政は天正10年〜11年(1583年)にかけ、越中へ再侵攻して魚津城、小出城を陥落させています。さらに同年4月以降からは佐々勢の攻勢が本格的となり、佐々成政は土肥美作守政繁を攻めるために弓庄城の周りに4つの砦を築造して、弓庄城を包囲しています。この日中城跡はその付城の1つであったと推定されています。
土肥氏は弓庄城で籠城を続けていましたが、豊臣秀吉が賎ヶ岳の合戦による戦後処理として成政の越中支配を認めた結果、秀吉と成政、景勝の3者の和睦が成立したことで、土肥政繁は弓庄城を明け渡して越後の糸魚川城へと退去しています。
日中城は弓庄城を包囲するために築かれた陣城のようなものなので、さして時を置かず廃城になったと思われます。
現在の日中城は、土塁と空堀と断崖に囲まれた郭と土橋が遺構としてよく残っていますが、困った事に郭の中が墓地となっているのが難点です。何でこんなところを墓地にしたのか・・・。
立山町指定史跡となっていますが、何しろ内部が墓地なので手を出しにくいでしょう。
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日中城祉の石碑 |
日中城の周りを囲む土塁 |
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土塁と空堀 |
空堀 |
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空堀 |
日中城縄張り図 |
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住所 |
富山県中新川郡立山町日中 |
形式 |
平城 |
遺構 |
郭 土塁 空堀 土橋 |
築城者 |
佐々成政 |
施設 |
説明板 石碑 |
城主 |
佐々成政 |
駐車場 |
なし |
築城年 |
天正11年(1583年) |
文化財 |
町史跡 |
廃城年 |
不明 |
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