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鴨城本丸 |
鴨城は、富山県高岡市福岡町加茂にある山城です。高岡市指定史跡に指定されています。
この城は標高155mの山上に築かれていて、遺構としては曲輪跡、堀切、切岸、土塁などが残っています。本丸及び二の丸部分からなる主郭は山頂部にあり、大きさは50m×120mほどで、山城としてはかなり広い削平地を持っています。ただし、削平自体はかなりいい加減で自然の地形に少し手を加えた程度と言えます。
ただ、これだけ広い曲輪というのは当時としては珍しいのですが、いったいどのように利用されていたのかが、よくわかりません。
ただ、削平がこれだけいい加減なので一つの大きな建物が建っていたとは思いにくいので小さな掘立小屋程度の建物がいくつも並んでいたのだろうとは想像できますが。
本丸跡は二の丸部分より一段高く、櫓台跡と考えられます。
本丸南側には馬の鞍掛と呼ばれる帯曲輪があります。
主郭の周囲は切岸となっています。また主郭の北西側には空堀が巡らされていますが、かなり埋没してしまっているようです。
本丸から元取山へ向かう途中にバッパショウズに下りる道があり、ここが水源地となっています。しかし本丸からは遠いので、実際に城が攻撃を受けたときに水源地が占領されてしまってはどうにもならないのではと心配になります。
主郭の東側にはねらみ山砦があり、西側には元取山砦、さらにその西側には元取山山頂があり、ここにも砦があったと言われていますが、この3つの砦跡はいずれも山頂部分にあり曲輪の面積も小さく、せいぜい監視所程度の機能しかなかったと思われます。
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水源地となっていたバッパショウズ |
『二宮円阿軍忠状』によると、貞治2年(1363年)3月13日、南朝方であった桃井直常の討伐軍に参加した二宮円阿が「鴨城衆」を命じられ、同年5月12日には「鴨城衆」とともに頭高城(頭川城)を焼き払ったとありますので、鴨城が築城されたのもこの頃と考えられますが、あるいは既にこれ以前から城があった可能性も考えられます。
また長禄年間(1457~1460年)加賀半国守護の赤松政則が五位庄高畑村(加茂)の上、城ケ平と称する地に居住していたと伝えられています。現在「城ヶ平」の地名は鴨城の近くにある赤丸城の辺りに残っているが、居住場所の位置は「五位庄高畑村ノ上」との記録があり、「高畑村」が現在の加茂集落にあった事から、当時の「城ヶ平」は鴨城の事ではないかと考えられています。
赤松正則は、康正元年(1455年)、赤松満祐の弟義雅の子時勝(性存)の子として生まれています。赤松氏は嘉吉元年(1441年)に赤松満祐が室町幕府第6代将軍足利義教を暗殺するという大事件をしでかして(嘉吉の乱)、これにより幕府軍に攻められて滅亡していた。そのため、父の時勝と政則は京都建仁寺で養育されていました。政則が生まれる前の年(享徳3年、1454年)に同族の赤松則尚が播磨で挙兵していますが、翌年には山名宗全に討たれています。この頃に正則が越中に逃れたのだと思われます。
ところが長禄2年(1458年)、赤松家旧臣である石見太郎、丹生屋帯刀、上月満吉らの尽力で後南朝から神璽を奪回した功績により、9月には赤松政則の家督相続が許され、政則は加賀北半国の守護大名として赤松家を再興しています(長禄の変)。代わりに北半国の守護だった富樫成春は追放されています。これにより赤松正則は、加賀国に入ったのだと思われますが、この時に正則は4歳ですね。延徳3年(1491)冷泉為広の『越中下向日記』には「カモ山のフタツ城」と記録されています。
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鴨城説明板 |
城の近くにある雲龍寺跡は、嘉吉元年(1441年)、武蔵国成田村の龍淵寺二世・以州が、赤松政則の請によって越中(富山県)砺波五位之庄三日市村に建立したと伝えられています・・・・。とありますが、先ほどの歴史的事実から赤松正則が生まれたのは1455年ですので、これは嘘ですね。
考えられるのは、赤松正則が寺院建立を請うたのはもっと後であるということと、もう一つは1441年に寺院建立を請うたのは赤松正則ではないということです。
実は雲龍寺という寺は曹洞宗の寺院であり、各地に同名の寺院が存在していて、赤松氏とも関係が深く、赤松氏により保護されていたという事実があります。
そうなると赤松一族の誰かが建立を請うたということ自体は充分考えられるので、ここでは1441年建立が事実とすれば、建立を請うたのは赤松一族の誰かという線が濃厚となるでしょう。
雲龍寺は天正13年(1585年)に兵火により焼亡し、同15年(1587年)、再建されたと伝えられています。
慶長年間(1600~)、八世・天景の時、二代・利長公(瑞竜院)より寺地を八坂に拝領して金沢に移転しています。
現在の雲龍寺は、金沢西国三十三観音霊場の第7番札所となっていますが、なんと巡拝札所なのに拝観拒絶をされるとのことで注意が必要です。雲龍寺跡には、巨大な土塁と古墳があり、これを見るだけでも一見の価値があります。
もう一つ七曲がり口から登城するとすぐに白山宮跡がありますが、これについては詳細は不明です。
また雲龍寺跡の近くに大土塁がありますが、これは最初見たときは自然地形かと思ったのですが、どうも人工的な構造物のようです。つまり土塁ということなります。雲龍寺付近にも土塁が多数確認できますがいずれも巨大なもので古墳だったものを加工したのではないかと考えられます。
全体的に見ると、この鴨城跡は、城跡、寺院跡、古墳など各種の遺構が見られる貴重な史跡です。しかも遊歩道として整備されていて、地元の人も極めて親切な人たちですので、山城フアンの人もそうでない人もぜひ訪れることをお勧めします。
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ここが七曲がり口です |
七曲がり口から城に侵入します |
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登城口らしいが・・・ |
白山宮跡 |
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七曲り口からの登城道 |
登城道はかなり急な塹壕 |
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狭く急な登城道を登っていきます |
登城道は塹壕のようになっています |
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このあたりは笹百合が咲きます |
ここが分岐点となります |
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にらみ山砦へ |
ここは極めて急な上り道です |
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にらみ山砦は山頂部の狭い曲輪です |
縄張り図がありました |
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にらみ山砦はせいぜい監視所程度の規模でしょう |
さらに主郭方面へ向かいます |
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堀切がありました |
切岸・空堀経由とは |
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赤丸城へ |
二の丸に入りました |
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二の丸はけっこう広いのです |
二の丸の削平はややいい加減です |
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本丸にあった説明版 |
縄張り図では本丸にいることがわかります |
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本丸から見た二の丸 |
本丸は元々は櫓台であったようです |
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本丸であることを示す立て札 |
馬の鞍掛けは、帯曲輪です |
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本丸の周囲に切岸が巡らされています |
本丸の周囲に切岸が巡らされています |
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二の丸の北西側には空堀が走っています |
ここが分岐点です |
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空堀はかなりの規模です |
この空堀は後から改修したものか |
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笹百合が咲いていました |
ここは笹百合の保護地区です |
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本丸手前にも切岸があります |
元取山方面に向かいます |
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元取山山頂まで10分ですか・・・ |
元取山山頂へは狭く急な通路を通ります |
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途中に堀切があります |
元取山砦に着きました |
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さらに元取山山頂を目指します |
途中に堀切があります |
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あまりにも急勾配の登山道です |
山頂からの眺望はすばらしい |
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元取山山頂は標高195.8mです |
山頂にある案内板 |
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山頂にも砦があったようですが・・・狭い |
山頂から降りる通路もあまりにも急勾配です |
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塹壕を通ります |
ここが元取山への登山口です |
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大土塁とは何でしょうか |
尾根のようなものが・・・ |
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雲龍寺跡の大土塁・・・古墳なのですね |
雲龍寺跡 |
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雲龍寺跡と円古墳があるのです |
3月20日にはちょうど朝日が差し込みます |
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堀切の向こうで水源があるのです |
片山大道は空堀のような塹壕が続きます |
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砂こぶの要塞 |
砂こぶの要塞は要するに武者隠しですね |
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片山大道は宝達山に続く道なのです |
こんなところで横矢でもかけられたら・・・ |
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ここが登城口です |
八幡社 |
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麓にある超願寺 |
超願寺の鐘 |
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分岐点から直進しました |
笹ぬき山登山口の分岐点です |
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ここもかなりの急勾配です |
本丸方面への通路は、みな急勾配です |
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急勾配が続きます |
上の方が見えてきました |
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狭く曲がりくねった通路は、攻めるに難しい |
ここも大きくカーブしています |
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狭く曲がりくねった上に急勾配なんだから・・・ |
上から見た通路ですが・・・ここでも分岐しています |
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ようやくにらみ山砦からの通路と合流しました |
切岸を通らないと本丸方面に入れません |
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切岸を通ると堀切です |
ここは目立たないようですが堀切なのですね |
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二ノ丸への通路は急です |
二ノ丸へ入ります |
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上から見ると堀切があるのがわかります |
二ノ丸の削平はヤケにいい加減です |
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二ノ丸の看板が立っていました |
二ノ丸はたいへん広い曲輪でちょっと不思議です |
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なぜこんな広い曲輪があるのか・・・ |
笹百合が咲いています |
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延々と二ノ丸が続くのです |
ようやく本丸が見えてきました |
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本丸はやや高台にありますが |
本丸から見た二ノ丸 |
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二ノ丸に比べて本丸は狭すぎます |
本丸にある案内図です |
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本丸は単なる見張り台だったのでしょう |
ここで一服 |
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本丸からさらに北側に降りていきます |
けっこう急勾配です |
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分岐点がありました |
左へ行くと空堀が続きます |
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この空堀は本丸を守るためのものです |
空堀はあまり深くありません |
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二ノ丸の北側にも空堀が続きます |
城の中心部の西側と北側は空堀で守られているのです |

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ここの空堀もあまり深くないのです |
空堀は延々と続きます |

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空堀の途中に堀切がありました |
空堀経由の看板がありました |

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切岸の途中を走る通路を犬走りと言います |
ここに二ノ丸へ入る近道がありますが・・・ |

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元取山方面に入る |
元取山へはかなり急な山道になりますが |

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バッパショウズからの分岐点がありました |
バッパショウズへの下り道に入りました |

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運上寺の円墳などありますね |
バッパショウズへの下り道もかなりの急勾配です |

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このあたりには多数の古墳があるのです |
おや、水が流れていますね |

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バッパショウズは鴨城の水源地なのでした |
水源地が本丸から遠いのが気がかりですね |

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ここの通路もかなりの急勾配です |
さらに下ります |

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どうも途中に特段の防御施設が見あたらないのですが |
さらに下ると何か看板が |

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袋谷の滝、雲龍寺への通路が立入禁止とは |
しかも危険の看板も・・・ |

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さらに進みます |
山道が続きますがここは比較的平坦です |

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狭い山道を進みます |
特に防御施設はなかったですね |

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おや、分岐点ですね |
ここで本丸方面とバッパショウズ経由本丸行きとに分岐します |
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住所 |
富山県高岡市福岡町加茂 |
形式 |
梯郭式山城 (標高196m/比高170m) |
遺構 |
曲輪、土塁、空堀、堀切、切岸、水源 |
築城者 |
二宮円阿 |
施設 |
遊歩道、案内板 |
城主 |
二宮円阿、赤松政則 |
駐車場 |
島倉集会所前 |
築城年 |
貞治2年(1363年)頃 |
文化財 |
高岡市指定史跡 |
廃城年 |
不明 |
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