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現在の寺家新屋敷館跡には神明社社殿があります |
寺家新屋敷館は、富山県南砺市やかたにある城館です。
越中国庄ノ城の出城であったと考えられています。
南砺市指定史跡に指定されています。
当時の城域は方形で規模は南北50m、東西80m、曲輪の周囲には高さ3m程度の土塁を巡らせてあり、その四方を幅約5m、深さ約2.5mの堀で囲っていました。
現在、城域には神明社が建っていて、土塁と郭跡が遺構として残っています。神明社社殿の裏側の土塁ははっきりと遺構として現存しています。東側は石垣になっていますが、元は土塁があったことは明白です。この石垣は後世のものですがけっこう立派なものだったりします。堀は現在では埋没してしまっていて遺構としては残っていません。西側は民家があったりして開発されてしまったようで土塁の形跡は残っていません。
寺家新屋敷館は、南北朝時代に桃井直常の家臣田中貞行、または貞行の子孫と思われる田中太郎兵衛によって築かれたと考えられています。 それ以外の歴史の詳細は残念ながら伝わっていませんが、発掘調査(昭和62~63年)でこの館が戦国時代から江戸時代の初期にかけて利用されたことがわかっています。もっとも1615年の一国一城令では廃城となっていると思われます。この城は、柴田屋館とはすぐ近くなので無関係とは思えませんが、いずれも小規模な平城で城館と言える程度の規模なので、上杉軍でも攻めてこようものならたちまち落城でしょう。
佐々成政と前田氏との抗争が始まった頃には、このあたりは木舟城や蓮沼城の後詰めとなり重要な戦略拠点となるので佐々成政に利用されたのではないでしょうか。
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寺家新屋敷館を囲む石垣 |
郭を囲む土塁が遺構として残っています |
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寺家新屋敷館跡に残る土塁 |
北側の土塁上から神明社社殿を見る |
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神明社社殿 |
東側の石垣は元は土塁だったようです |
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住所 |
富山県南砺市やかた |
形式 |
平城 |
遺構 |
土塁・郭 |
築城者 |
田中貞行 |
施設 |
神明社 石碑 石垣 説明板 |
城主 |
田中氏 |
駐車場 |
特にない |
築城年 |
南北朝時代 |
文化財 |
南砺市指定史跡 |
廃城年 |
江戸時代初期 |
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