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森寺城二の丸にある井戸跡 |
森寺城は16世紀初め頃、能登守護畠山義続によって築城された山城です。当時は湯山城と呼ばれていたのですが、廃城になった後は、城跡が森寺地区にあったため森寺城と呼ばれるようになったようです。
標高162mの通称「御殿山」が、森寺城の中心部があった所でここが氷見市指定文化財(史跡)になっています。
この城は、当初は能登と越中の国境を守る拠点として利用されていて、畠山氏が没落した後は上杉氏や織田氏の支城となりました。1585年の富山の役で佐々成政が羽柴秀吉に敗れた後は、このあたりも前田氏の所領となりましたが、越中と加賀および能登が前田領となったため城の戦略的重要性がなくなり、この頃には廃城となったと考えられています。そのため石垣跡が残ってはいるものの城を破却した際に石垣も崩されたため(これを城割という)、石垣が崩れた形で残っているのでしょう。
森寺城跡には、郭・土塁・堀切・竪堀などの遺構が良好な状態で残されています。本丸・二の丸といった城の中心部には、出入口や土塁などの重要な部分に石垣跡が残っています。
中世城郭の本格的な石垣は、富山県内では数少ない遺構となっています。また、城の南側にはサイダ屋敷・野崎屋敷・金戸山などの郭が配されていて、特に野崎屋敷では厳重な防御遺構として各種の空堀が残っています。
基本的には中世山城の特徴を持つ城で各郭の独立性が高いのですが、二の丸は山城としては極めて広い面積を持っていて、石垣で囲むなど織豊系城郭の特徴も併せ持っている城です。本丸と二ノ丸、三ノ丸はいずれも接続されていて連携が取れる構造となっているのですが、野崎屋敷、サイダ屋敷、カンジヤ屋敷などはいずれも独立した曲輪となっていて、相互に連携することができそうもなく、中世山城としての構造が見受けられるのです。つまり独立性の高い武将がそれらの屋敷を構えていたということになるのでしょう。元々畠山氏は能登守護ではありますが、重臣たちの権限が強かったので、このように独立性の高い曲輪を持っているのでしょう。これは畠山氏の本城である七尾城でも同様のことが言えます。
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森寺城二の丸にある石垣跡 |
それと搦め手口の防備はやけに厳重で大手口はそうでもないのはどうしてでしょうか。実は本当は搦め手口が大手口だったとか。
それに搦め手から本丸への通路も途中にいくつもの堀切があるし通路を意図的に曲げて防御を考慮している節が伺えます。
畠山氏が石垣や広い郭を築いたとすればさすがに管領家と感心させられ、当時の威勢が伺えます。
畠山氏が築いた七尾城も多数の石垣と広い郭を持っていたので森寺城とも共通点がありますね。
山城というものはたいていは麓に居館があって詰めの城として有事の際に立て籠もるための防御用施設である場合が多いのですが、この森寺城はやけに広い郭を持っているので、当時としては防御用施設というよりも、どちらかというと多数の軍団を駐屯させる役割を担っていたと考えられますので、越中進出を目指した能登畠山氏の拠点として築かれたと思われます。この城は八代庄に作られていたため、能登畠山氏と密接な関係にあった八代氏が湯山城築城の際に入城し、同城は畠山家に属していたと考えられています。
1557(弘治3)年6月弘治の内乱で森寺城が反義綱派であった温井方に攻められて陥落しています。
その後、森寺城主であった八代俊盛は椎名氏の支援を得て七尾城に入城し義綱方の主力として戦っています。
結局、この弘治の乱では反乱軍が破れているので八代氏も森寺城を取り戻しているのではないかと思われます。
1576(天正4)年に、森寺城が上杉謙信の能登侵攻において七尾城攻略の足掛かりとして上杉方の手に落ちたと考えられ、この時期に長沢筑前守が在城していたと思われます。長沢氏はこの時点では上杉方であったと考えられ、他にも末森城も落城していることなど、上杉氏が能越国境の城郭群を次々に落城させているのが伺えます。
七尾城が上杉氏の手に落ち、能登が上杉氏の領地となったのは1577年(天正5)9月のことです。
しかし謙信の死後、能登は織田氏の手に落ちていて、森寺城も佐々成政の支配下に入ります。
1585(天正13)年、越中は豊臣秀吉の越中出陣で佐々成政が降伏し、同時期に森寺城も廃城となっています。
では恒例のこの城を攻めるにはどうすれば良いのかですが、実はこの城は前述するように搦め手からの攻撃は難しいので大手口から攻め込む方が良いでしょう。途中には踏段堂と現在は展望台になっている郭がありますが、さほど防御が堅いとは思えませんので本丸へ突入できるでしょう。ただし、野崎屋敷からの反撃とサイダ屋敷からの伏兵には注意が必要でしょう。
逆に搦め手からはいると途中にいくつも防御拠点があるので被害が大きくなりそうです。
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駐車場から森寺城跡への入り口 |
搦め手から二の丸への途中にある堀切 |
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本丸・二の丸方面と搦め手口との分岐点 |
搦め手から二の丸への途中にある百間馬場 |
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森寺城二の丸下の石垣跡 |
石垣跡は山城としてはかなり大規模なものです |
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森寺城二の丸と本丸 |
井戸跡は大きなものですが既に埋まっています |
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森寺城二の丸はサッカーができるくらい広いのです |
本丸を囲む石垣跡 |
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二の丸への大手口 |
本丸は二の丸の隅にあります |
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お花畑は通路そばにある郭です |
サイダ屋敷は高台にある独立した郭です |
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本町は通路そばにある郭です |
町屋敷は通路そばにある郭です |
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カンジャ屋敷跡 |
野崎屋敷跡は独立性の高い郭です |
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搦め手口 |
搦め手口説明板 |
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搦め手口の空堀ですが、水がありますね |
搦め手口を守る土塁 |
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搦め手口を外側から見ると |
搦め手口を守る空堀 |
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搦め手口から二の丸の途中にある桝形地形 |
桝形地形を横切る堀切 |
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搦め手口から二の丸の途中にある桝形地形 |
桝形地形を横切る堀切 |
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三の丸 |
三の丸から大手口を見下ろす |
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駐車場に設置された説明板 |
寺坂屋敷跡 |
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搦手口への案内板 |
搦手口まではかなりの距離があります |
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土塁が残っています |
搦手口の巨大な土塁 |
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搦手口は土塁が両側を守っています |
搦手口の通路が曲がりくねっています |
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なぜか水堀が・・・ |
この水は雨水が貯まったものなのでしょうか |
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搦手口を横切る堀切 |
土塁はかなり大きなものです |
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堀切は土塁のそばを走っています |
搦手口がヤケに厳重なのはどうしてなのか |
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土塁により外部からの視界が遮られています |
土塁上から搦手口を見る |
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搦手には石垣がないようです |
ここから侵入しようとすると待ち伏せされそう |
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本丸方面へは上りの山道が続きます |
搦手口から主要部まではかなりの距離があります |
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通路を横切る堀切 |
塹壕が続きます |
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通路を横切る堀切 |
堀切により侵入口が限定されます |
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百間馬場の開始地点らしい |
またしても堀切があります |
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ここにも堀切が |
百間馬場 |
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百間馬場 |
塹壕が続きます |
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また百間馬場の看板が |
百間馬場は馬場としては狭いようですが |
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いよいよ城の主要部です |
本丸・二の丸とサイダ屋敷方面の分岐点 |
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二の丸はこの上です |
二の丸への上り道 |
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二の丸の石垣跡 |
石垣が崩れているのは破却されたためでしょう |
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富山県内の山城では珍しい石垣遺構です |
これだけの石垣跡が残っているのは貴重です |
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二の丸にある四阿 |
説明板と猪出没注意ですって |
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二の丸にある井戸跡 |
本丸は石垣に囲まれています |
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本丸の周囲を囲む石垣跡 |
本丸の石垣も崩れています |
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本丸の石垣跡の外側には空堀があった |
本丸は正方形の形をしています |
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本丸の周りには土塁があります |
本丸の内部 |
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本丸の大手口付近の石垣跡 |
本丸正面の石垣跡 |
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本丸大手口 |
本丸内部 |
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三の丸の看板が・・・ |
三の丸内部 |
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三の丸から大手口を見下ろす |
本丸・二の丸の案内板 |
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この急斜面を駆け上るのは難しい |
大手口からの本丸・三の丸への侵入は難しい |
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二の丸大手口 |
二の丸大手口から見た本丸 |
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二の丸大手口の石垣 |
大手口の階段はかなりの急勾配です |
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大手口の石垣は比較的保存状態が良いようです |
大手口の石垣はけっこう健在です |
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大手口付近には石がゴロゴロしています |
二の丸下の帯曲輪 |
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大手口の階段 |
大手門の看板が |
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大手口の階段の険しさがよくわかる |
二の丸への虎口でしょうね |
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三の丸石垣跡 |
大手口付近の様子 |
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住所 |
富山県氷見市森寺字城山 |
形式 |
連郭式山城 (標高160m/比高140m) |
遺構 |
曲輪、土塁、石垣、井戸、空堀、堀切、堅堀、畝状堅堀群 |
築城者 |
畠山義統 |
施設 |
休憩所 案内板 トイレ |
城主 |
八代俊盛 長沢筑前守 佐々成政 |
駐車場 |
あまり広くないがスペースあり もちろん無料です |
築城年 |
戦国期 |
文化財 |
氷見市指定史跡 |
廃城年 |
天正13年(1585年) |
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