国史跡 吉崎御坊
吉崎御坊の概要
吉崎別院念力門
吉崎別院念力門
吉崎御坊(よしざきごぼう)は、越前国吉崎(現在の福井県あわら市吉崎)にあった坊舎です。
現在では、「国史跡 吉崎御坊跡」に指定されています。
当時は城郭寺院として吉崎山山頂に築かれていたと考えられています。
現在では、御坊跡に向う階段の西側に浄土真宗本願寺派の別院が、東側に真宗大谷派の別院が置かれています。
ともに「吉崎別院」と称するため、本願寺派の別院を「西御坊」・「(吉崎)西別院」、大谷派の別院を「東御坊」・「(吉崎)東別院」と通称されています。また、「吉崎寺」(本願寺派)・「願慶寺」(大谷派)などの寺院、本願寺維持財団が運営する「吉崎御坊 蓮如上人記念館」があります。
吉崎御坊は、1471年(文明3年7月下旬)、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第八世蓮如が、本願寺系浄土真宗の北陸における布教拠点として越前国吉崎にある北潟湖畔の吉崎山の頂に建立したのが最初です。
ただし、この時点では御坊という名称はまだ使われていなかったので、厳密には吉崎道場と言うのが正しいのです。
御坊という名称は、江戸時代に本願寺から任命された直轄寺院を指すので、それ以前には御坊という言葉は用いられていなかったのです。
蓮如上人像
蓮如上人像
寛正の法難で延暦寺からの迫害を受けて本願寺存亡の危機に直面した蓮如が真っ先に相談に訪れたのは興福寺大乗院の門跡であった経覚の元でした。経覚は蓮如に対し、和田本覚寺の住持蓮光に管理を任せていた河口庄の吉崎へ移り再起を図る事を提案しています。建立当時の吉崎は経覚の所領でしたが、経覚の母が本願寺の出身で、蓮如も若い頃に経覚の元で修行していた事、また吉崎の代官の地位にあったのが当時の本願寺にとっては数少ない末寺であった和田本覚寺の住持蓮光であったという関係もあって経覚が蓮如のために吉崎を譲ったのだといわれています。もう一つの理由としては、越前一帯には浄土真宗やそれ以外の浄土教系の諸宗派の信者が多く住んでいたために蓮如の布教には最適である事、逆に経覚の立場から考えると、当時の越前国の守護代であった朝倉氏と甲斐氏の争いの影響で両氏による荘園の横領が続いていて、蓮如に河口庄の荘園からの収入を確保してもらう代官的な役割を期待していたと考えられます。
この地で蓮如は教義を民衆にわかりやすく説き、時には「御文(おふみ)」(「御文章(ごぶんしょう)」)を用いたり、「南無阿弥陀仏」の六字名号を下付したため、御坊には北陸はもとより奥羽からも多くの門徒が集まるようになります。また、御坊周辺の吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊などが立ち並び寺内町を形成するようになり、吉崎は急速に発展します。
太鼓楼
太鼓楼
文明6年(1474年)、加賀国守護富樫氏の内紛が発生し、蓮如は富樫政親から支援の依頼を受けます。蓮如は対立する政親の弟である富樫幸千代が真宗高田派と組んだ事を知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを加賀から追い出して政親が再び加賀国守護の座に就いています。
だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を政親が危惧して軋轢が生じました。要するに幸千代を追い出すことに成功したので一向一揆衆が邪魔になったとも言えます。
政親は文明7年(1475年)に門徒の弾圧を開始することになり、対立は激化します。
更に蓮如の配下だった下間蓮崇が門徒と政親の対立から蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行っています。但し、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して全く関知していなかったのかどうかについては意見が分かれていてはっきりしていません。まあ、別に偽りの命令を出さなくてもこのままでは早晩対立が激化するのは火を見るより明らかであったとも言えますが、蓮如は必ずしも戦いを望んではいなかったので、やはり対立を煽るようなやり方には賛成できなかったのでしょう。
言ってみれば当時の為政者側から見れば、一向宗門徒は非常に恐ろしい存在だったわけです。
状況をこれ以上激化させないため、蓮如は文明7年(1475年)に吉崎御坊を退去することになります。このときに一揆を扇動した下間蓮崇は破門されています。蓮如は、小浜、丹波、摂津を経て河内出口に居を定めています。文明10年(1478年)1月29日、山科に坊舎の造営を開始しています。文明15年(1483年)8月22日、山科本願寺が落成しています。
政親に弾圧された加賀門徒衆は、越中に逃れていますが、今度は越中砺波郡の石黒光義が政親と結んで門徒を弾圧しようとします。しかしこれに対して文明13年(1481年)に越中で一揆が発生し、石黒光義が討ち取られることとなります(越中一向一揆)。また、政親は加賀の一国支配の認知のため、9代将軍足利義尚による六角高頼遠征(鈎の陣)に従軍したが、それに伴う戦費の拡大により、国人層が反発して越中から帰還した門徒とともに決起する事態となります。
長享2年(1488年)5月、加賀一向一揆が国人層と結びついてついに決起することになり、同年6月9日には加賀の宗徒が守護富樫政親を高尾城にて包囲し、自刃に追い込んでいます。これにより加賀国は一向一揆衆が支配することとなります。
7月、蓮如は消息を送って一揆を諌めています。
東御坊正門
東御坊正門
加賀国守護であった富樫政親を滅ぼして、加賀を統治していた一向宗はさらに勢力拡大を目論み、度々越前に侵攻するようになっていました。これには中央の権力争いが深く関係していました。時の管領細川政元と本願寺は親密関係にあり、政元の強い要請により本願寺が反細川派である朝倉氏を含む北陸諸大名を攻撃するようになったのです。
永正3年(1506年)3月、加賀一門の本泉寺住持蓮悟は越中の長尾勢・能登の畠山勢打倒の檄文を発し、6月になるとその騒乱が越前に飛び火するようになります。
そして同年7月、加賀・越中・能登の一向宗門徒が越前で起こった一向一揆に加勢するため越前甲斐氏の牢人衆らと合流し越前へと侵攻を開始しました。これを迎え討つため朝倉宗滴を総大将とする朝倉・他門徒の連合軍が九頭竜川一帯で対峙しました。
これが永正3年の一向一揆(九頭竜川の戦い)です。
この時一向宗勢力は30万を上回る勢力となっていたと言われています。もっともこの数字は相当の誇張だと思いますが・・・。おそ対する朝倉軍は1万1000ほどでしたので誇張はあったにせよ、兵力には大きな開きがあったわけです。この時には九頭竜川流域各地で、激戦が繰り広げられました。8月6日の中ノ郷の戦いを期に、一向宗側が総崩れとなり朝倉軍は勝利を収めています。そして、この時に朝倉軍によって吉崎の坊舎が破却されてしまい、廃坊となってしまいます。
江戸時代になり、1746年(延享3年)に西別院(本願寺派)が、翌年の1747年(延享4年)には東別院(大谷派)が吉崎山のふもとに建立されて、再興されることになります。

中宗堂 御経堂
中宗堂 御経堂
西御坊東門 大宮坊厠
西別院東門 西別院本堂
嫁脅しの面 多宝塔跡
嫁脅しの面 西別院東門
蓮如上人像 吉崎山への階段
蓮如上人像 吉崎山への階段
吉崎御坊本堂跡 蓮如お手植えのお花松
吉崎御坊本堂跡 蓮如お手植えのお花松
加賀千代女すみれ草の句碑 腰かけ石
加賀千代女すみれ草の句碑 腰かけ石
御坊跡はかなりの広さです 蓮如上人像
御坊跡はかなりの広さです 蓮如上人像
史跡 吉崎御坊跡を示す石碑 吉崎御山案内板
史跡 吉崎御坊跡を示す石碑 吉崎御山案内板
見玉尼公墓 祐念坊霊空の墓
見玉尼公墓 祐念坊霊空の墓
本光坊了顕の墓 納骨堂
本光坊了顕の墓 納骨堂
願慶寺正門 参道
願慶寺正門 参道
願慶寺正門と参道 太鼓楼と願慶寺正門
願慶寺正門と参道 太鼓楼と願慶寺正門
太鼓楼 鐘楼
太鼓楼 鐘楼
東別院正門 太鼓楼
東別院正門 太鼓楼
参道 石垣
参道 石垣
東別院会館 東別院本堂
東別院会館 東別院本堂
吉崎御坊 蓮如上人記念館
住所 福井県あわら市吉崎1丁目901番地
電話 0776-75-2200 
開館時間 午前9時から午後5時
休館日 木曜日(祝祭日の場合前日の水曜日休館)
年末年始(12月28日~1月2日)
※ゴールデンウィークとお盆期間中(8月13日~8月15日)は無休
入館料 (個人) 大人500円 ・小中学生 200円
(団体) 大人400円 ・小学生未満 無料
(喫茶割引券付)
吉崎御坊
所在地 福井県あわら市吉崎 形式 城郭寺院・平山城
遺構 郭 土塁 碑 築城者 本願寺八世蓮如
再建築物 寺院 門 石垣 太鼓楼 その他 城主 本願寺八世蓮如
駐車場 無料駐車場あり 築城年 文明3年(1471年)
文化財 国史跡 廃城年 永正3年(1506年)
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国史跡 吉崎御坊マップ
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