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荒山砦跡の登り口です |
荒山砦は、石川県羽咋郡中能登町原山及び氷見市小滝にまたがる山城です。
この荒山砦は、石動山天平寺の出城として築かれたと思われますが、戦国期には阿尾城主であった菊池氏の持ち城となっていました。ただし、このあたりの詳細は不明です。
天正5年(1577年)の上杉謙信の能登侵攻の際、この荒山砦には能登守護畠山氏が入っています。天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が没したのを機に、石動山衆徒は越後の上杉景勝に支援を求め、上杉氏に保護されていた畠山氏遺臣である温井備中守景隆と三宅備後守長盛の両氏が派遣され、6月23日の夜半にはこの荒山砦に入って、要害を築き始めています。
つまり上杉氏が織田信長の死に乗じて、能登を奪回しようとしたわけです。
これに対し、羽柴秀吉は前田利家に石動山攻略を命じ、利家は7月には3000の兵を率いて石動山と枡形山の中間に当たる芝峠に布陣しています。そして、荒山砦普請に向かう温井・三宅軍4300を急襲し、これを破った勢いに乗じて荒山砦を攻め、ついに荒山砦は陥落しています。この戦いは荒山合戦と呼ばれています。この戦いで温井景隆らは討ち取られ、上杉方は壊滅してしまいます。この戦いは、6月25日にあったと言われていますが、実際には7月の事だと言われています。
この合戦に勝利した利家軍は、翌日一気に石動山に攻め入って火を放ち、石動山の堂塔伽藍はことごとく焼き尽くされてしまいます。これを石動山合戦と呼んでいます。これにより石動山衆徒は撫で切りにされてしまい、滅亡してしまいます。
その後、荒山砦は越中国を支配した佐々成政の出城となっていますが、天正12年(1584年)には前田利家との戦いの際に佐々軍の守兵が撤収し、砦は前田氏の拠点となっています。
しかし佐々成政が翌年には秀吉に降伏したため、越中国西部は前田氏の支配となり、荒山砦も廃城となったと思われます。
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山頂への階段は曲がりくねっています |
城跡は整備されています |
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階段は曲がりくねっている上に急勾配です |
城跡はかなり高い地点にあります |
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休憩舎が見えてきました |
ここからの眺望はなかなかです |
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模擬櫓も見えてきました |
本丸への別ルートです |
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荒山砦三の丸にある模擬櫓 |
休憩所 |
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荒山砦二の丸 |
荒山砦帯曲輪 |
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荒山砦主郭 |
本丸の周りに曲輪がいくつかあります |
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四本の柱は何でしょうか |
本丸下の帯曲輪 |
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本丸からの階段は曲がりくねっていて急です |
何と残雪が |
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このあたりはさらに急です |
ようやく下の曲輪に出ました |
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ここはかなり広い削平地です |
帯曲輪がいくつもある城です |
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空堀 |
虎口かもしれない・・・ |
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住所 |
石川県羽咋郡中能登町原山・氷見市小滝 |
形式 |
連郭式山城(最高486m、比高80m) |
遺構 |
郭 土塁 空堀 |
築城者 |
石動山天平寺 |
施設 |
模擬櫓 休憩所 説明板 石碑 トイレ |
城主 |
石動山 菊池氏 畠山氏 佐々氏 前田氏 |
駐車場 |
あり |
築城年 |
戦国期 |
文化財 |
なし |
廃城年 |
1585年 |
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