 |
現在の福光城跡の正門です |
福光城は、富山県南砺市福光にある城館です。
南砺市指定史跡に指定されています。
当時の城域はかなり広いものだったようで、その周りを東西約50m、南北30mの堀が囲っていました。
現在、城域には栖霞園が建っていて、石垣と郭跡が遺構として残っています。堀は現在では水田になってしまい遺構としては残っていません。
福光城は、平安末期に石黒太郎光弘によって築かれています。
石黒光弘は寿永2年(1183年)の砺波山の合戦で、木曽義仲軍に加わり、平家の大軍と戦い活躍したと伝えられています。
その後、300年にわたって石黒氏の居城となり、城下町は栄えていました。しかし戦国時代になるとこの地方も一向一揆が勢力を持つようになり、石黒氏は一向一揆と戦うようになります。
文明13年(1481年)、石黒氏は瑞泉寺の一向一揆衆と対立するようになり、石黒右近光義は医王山惣海寺と組んで越中一向一揆衆と山田川で戦っています。
当時、瑞泉寺とその近郊には加賀守護富樫政親の弾圧により大勢の加賀一向宗徒が逃れてきていました。富樫政親は、一向一揆の拠点となっている瑞泉寺を焼き払うよう福光城主石黒光義に要請しています。石黒光義も一向勢力の拡大に危惧を抱き、医王山惣海寺(天台宗)衆と共に総勢千六百の軍勢を率いて瑞泉寺討伐に向かっています。一方、瑞泉寺では五箇山般若野、射水郡などから援軍を得て総勢五千で山田川で石黒軍を迎え撃ちました。この戦いの最中に加賀湯湧谷の一向衆が惣海寺、福光城下を焼き討ちしたので石黒軍は総崩れとなり勝敗は決しました。
しかし石黒光義は一向一揆に敗れ、安居寺で自害しています。福光城もこのときに落城してしまい、石黒宗家は衰退してしまいます。
その後、福光城は放棄されて荒れ果てていましたが、明治元年(1869年)に福光城跡に郷学所「栖霞塾」が建てられています。その後「栖霞園」として整備されて、現在に至ります。
 |
 |
福光城を囲む石垣 |
郭を囲む石垣が遺構として残っています |
 |
 |
福光城跡に残る石碑 |
栖霞園は慶応年間に城跡に建てられた |
 |
 |
郭は土塁上にあって周囲よりも高い |
福光城の隣には本願寺西別院があります |
|
住所 |
富山県南砺市福光 |
形式 |
平城 |
遺構 |
石垣 郭 栖霞園 |
築城者 |
石黒光弘 |
施設 |
石碑 説明板 |
城主 |
石黒氏 |
駐車場 |
特にない |
築城年 |
寿永2年(1183年) |
文化財 |
市指定史跡 |
廃城年 |
文明13年(1481年) |
|
|