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一乗寺城説明板 |
一乗寺城(いちじょうじじょう)は富山県小矢部市八講田にある山城です。小矢部市指定史跡となっています。
南北朝時代の正平年間(1346年-1370年)、南朝方で反幕府の有力者だった越中国守護桃井直常の居城であった庄ノ城の支城として重臣丹羽吉左衛門により築かれ、直常の子である松根城主桃井直和の持ち城となっています。
康安2年(1362年)1月23日、征夷大将軍足利義詮が能登国の地頭、御家人らに桃井直常追討を命じ、能登国守護であった北朝方の吉見氏頼と交戦状態となっています。吉見氏頼率いる能登勢は、同年5月から7月にかけて石動山城において桃井直常・直広と、富来院木尾嶽城・尾崎城において桃井の与党富来氏と戦っています。石動山城に立て籠る桃井勢との合戦は非常に激しいものであったと思われ、7月になって桃井直広は遂に降伏し能登勢が勝利を収めました。また、桃井勢と呼応して挙兵した富来氏の本拠富来院にも兵を進め、5月、木尾嶽城に富来斎藤次を攻撃してこれを討ち取り、7月には木尾嶽城・尾崎城両城を攻略して、富来氏の残党を滅ぼしまています。その結果、桃井勢は越中を離れ全国を転戦する事となっています。吉見氏は元は南朝方だったのですが、足利尊氏が後醍醐天皇と袂を分かつと尊氏方に付いたのでしたが、なかなか戦には強いようですね。
応安元年(1368年)8月には対桃井強硬派の斯波義将が越中国守護に任じられています。ほぼ同時に桃井親子も越中へ戻っており、斯波義将は桃井氏討伐を開始することになります。
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深い堀切 |
応安2年(1369年)6月、桃井直和が加賀国守護富樫昌家の居城富樫城を攻めますが、吉見氏の援軍により、一乗寺城に撤退しています。しかし同年9月17日、吉見氏の軍勢によって一乗寺城、松根城は落城し、桃井直和は越中国千代ヶ様城へ退却しています。
9月24日、吉見氏頼・頼顕の軍勢は、桃井直和が拠る千代ヶ様城、井口城を攻め落し、桃井勢は松倉城へ敗走しています。
しかし桃井勢は弱いですね。この頃は負け続けで勢力も弱体化していたのでしょう。
直和はこの翌年、義将の軍勢と越中国長沢で戦い、敗死しています。ここには長沢城というのはありますが、桃井勢がここに立て籠もったのかどうかは不明です。でもここに立て籠もってもこの城はなぜか北側が無防備なので包囲されたらだめですね。
その後、戦国期に至るまでの一乗寺城の動向は不明です。
天正12年(1584年)には、佐々成政が前田利家に対する備えとしてこの城に家臣の杉山小助を配置して越中国源氏ヶ峰城、加賀国松根城、加賀国荒山城などに大改修を施しています。現在の遺構はこの改修の時のものでしょう。
そのため織豊系城郭の特徴を持つ城となっています。
同年7月、成政は一乗寺城から田近道を通って加賀国朝日山城へと攻め込むも撃退され、9月の末森城合戦の後には逆に朝日山城に拠っていた利家の重臣、村井長頼に攻められ落城しています。
長頼は後に、同じく攻略した加賀国松根城を本城とし一乗寺城を支城としましたが、1585年以降には前田家が加賀国と越中国を治めるようになり、この城の軍事的価値はなくなるので、さほど時を置かずして廃城となったと思われます。
現在の城跡は越中国と加賀国との国境にある標高276mの枡山山頂にあります。城域には加賀国河北郡から越中国礪波郡五郎丸へと抜ける「田近道」が通っていて、交通の要衝にあります。ここから加賀国朝日山城、越中国安養寺御坊へと通じています。また近くにはやはり国境越えの「小原道」が通る加賀国松根城があるので、この二つの城を抑えることで加越国境を抑えることができることになります。南北朝時代や戦国期の佐々氏と前田氏の攻防など、すべてこの一帯を舞台として国境を挟んで争っています。
城の規模は東西二十五間(約45メートル)、南北三十八間(約69メートル)と伝えられていて、天正期に佐々成政が改修した後は連続した枡形虎口を備えた織豊系城郭となっています。現在は本丸、土塁、堀切が残っています。
実際にこの城を訪れると、極めて良好に遺構が残されていて、土塁、空堀が明確に残っていることと、本丸の周りの郭も多数残されていて、いかにも佐々成政が改修しましたと言わんばかりの出来映えなので、はっきり言って感動しました。
ここは、現在は整備途上と言ったところですが、これだけ遺構がきれいに残っている城は、是非整備してほしいですね。
ここは山城としては比高も小さく、さほど険しい山城ではないので、整備すれば見学には最適な城となるでしょう。
この城に入るには、石碑のある駐車スペースからしばらく歩くと案内板があり、そのそばから狭いけもの道のような登城口がありそこを登るとすぐに城に入れます。途中にも堀切などがあり、多数の遺構が残っていて、山城フアンの人には満足できるでしょう。
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一乗寺城跡の石碑 |
堀切 |
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土塁 |
郭はかなり広いものです |
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下方にも腰郭が多数存在します |
郭の周りを囲む土塁 |
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主郭 |
植林しているらしい |
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住所 |
富山県小矢部市八講田 |
形式 |
連郭式山城 (標高279m/比高200m) |
遺構 |
郭 土塁 堀切 切岸 枡形虎口 |
築城者 |
丹羽吉左衛門 |
施設 |
説明板 石碑 |
城主 |
桃井直和 杉山小助 村井長頼 |
駐車場 |
駐車スペースあり |
築城年 |
正平年間(1346年-1370年) |
文化財 |
小矢部市指定史跡 |
廃城年 |
天正12年(1584年)7月以降 |
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