 |
富樫館跡を示す石碑 |
富樫館は石川郡野々市町本町にある平城です。実際のところは守護所だったので、造りは居館だったはずです。となれば戦向きではなかったと思われます。
この城の築城年代は定かではありませんが、建武2年(1335年)に富樫高家が加賀国守護に任ぜられた際に野々市に守護所を設けて、そこに居住したと考えられるので、この富樫館もそのときに築かれたと思われます。
しかし加賀国守護となった富樫氏でしたが、あまり強い権力を持っていたとは思えない節があります。
1387年(至徳4年)に加賀国守護としては三代目となる富樫昌家が没すると、隣国の越中国守護で管領でもある斯波義将が実弟の義種を加賀国守護職に任じています。さらにその没後はその息子の満種が守護職に任じられていて、富樫氏は守護職を奪われたままでした。しかし斯波満種は、応永21年(1414年)に将軍・足利義持の忌避に触れて加賀守護職を剥奪されてしまい、将軍足利義持の側近である富樫満成が加賀半国守護(南部)となり、更に残り半国(北部)も兄の富樫満春(昌家の甥)に与えられて、27年ぶりに富樫氏が守護職に復帰しています。
応永23年(1416年)には鎌倉府において義嗣の妾の父である前関東管領の上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏を襲撃する上杉禅秀の乱が起こっています。この際に京都では義嗣が出奔するという騒動を起こしていて、将軍・足利義持はこの乱に足利義嗣が関与していることを疑い、義嗣を幽閉しています。そして同25年(1418年)には富樫満成が足利義持の命により義嗣を殺害しています。しかし富樫満成はなんと義嗣の愛妾との密通が露見して失脚し、高野山から吉野に逃れています。そして応永26年(1419年)2月4日(6日あるいは30日という説もある)越中国守護で管領でもある畠山満家に殺害されています。
 |
石碑は野々市工大前駅のそばにあります |
しかし富樫満春は、満成の地位を継いでそのまま加賀一国の守護職となっています。
この後8代目となる富樫泰高は、当初は醍醐寺の喝食でしたが、1441年に兄教家が将軍足利義教の逆鱗に触れて蟄居したため、還俗して家督を継ぎ、泰高と名乗っています。この将軍足利義教は些細なことで公卿や僧侶は元より武家や商人までも厳しい処罰を重ねていましたので、人々の恨みを買っていたようです。そのため嘉吉元年(1441年)6月24日に足利義教は赤松満祐の屋敷に祝宴と称して誘われその席上で暗殺されるという事態に発展しています。その際に教家が畠山持国を後ろ盾にして泰高に対して家督の返還を要求し、泰高はこれを拒否して管領細川持之を後ろ盾にして富樫家を二分とする内乱を起こしています。これを加賀両流文安騒動と呼んでいます。
翌年には細川持之が管領を辞すと、畠山持国が管領に就任して、加賀守護は教家の子成春に奪われています。しかし、富樫泰高は加賀からは退去せず、在地勢力を味方につけて頑強に教家・成春派に抵抗しています。1445年には、一時劣勢に陥っていた泰高を支援していた細川勝元が管領に就任することで状況は一変し、泰高派が教家一派を追放することに成功しています。
結局6年間の内乱の末、加賀を二分してそれぞれ半国の守護を分け合うことで合意しています。この内乱のさなか、加賀守護であった斯波満種の子である斯波持種が泰高方に味方して武力介入しています。実は持種は加賀に復帰することを狙っていたようです。油断も隙もないなあ。
寛正3年(1462年)には成春が病死したことで、泰高は再び加賀一国の守護となる。しかし2年後の寛正5年(1464年)には幕府に隠居を求め、それが許可されて隠居しています。家督は成春の子政親が継いでいます。
政親は、長禄2年(1458年)には赤松政則によって加賀北部の守護職を奪われていたため、家臣団に擁されてその奪回に尽力しています。応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると細川勝元側の東軍に与した。ところが弟の富樫幸千代が山名宗全側である西軍に与して敵対したため、政親は家督をめぐって弟と争う羽目となり、文明5年(1473年)には敗れて加賀を追われています。しかし本願寺などの援助、加賀国内における武士団の支持を得て幸千代を加賀から追い出し、再び家督の座に就いています。
ところが政親はこの奪回劇によって本願寺門徒の実力の恐ろしさを知って次第に本願寺とそれに繋がる豪族の勢力を統率しようと企てています。このため、本願寺と豪族勢力が連合して加賀一向一揆が発生し、長享2年(1488年)に、石川郡高尾城に政親を攻め、これを殺害しています。富樫氏の家督は従兄弟の稙泰が継いでいます。
加賀国守護は、一向一揆に荷担した泰高が復帰しています。泰高は傀儡として擁立され富樫館に入っていますが、国内の荘園を押領して独自の権力の強化に努めています。1493年、明応の政変を避けて越中放生津へ下向した足利義稙のもとへ馳せ参じています。かくまったのは越中守護代である神保長誠でした。いずれにしても以後、天正8年(1580年)に織田信長に敗れるまでの百年間、加賀は百姓の持ちたる国と呼ばれる状況となっています。
この後、富樫晴貞が享禄4年(1531年)に家督を継いで、将軍・足利義晴の偏諱を受けています。晴貞は次第に勢力を拡大し、加賀一向一揆に対抗するまでの力を得るようになり、元亀元年(1570年)には織田信長に呼応して本願寺勢力と敵対しますが、居城である富樫館に拠り一向一揆勢に敗れ、自害しています。これにより富樫館も廃城となったと思われます。これで完全に加賀一国が一向一揆の支配となったのですが、やがて織田軍の侵攻を受けることになります。 |
住所 |
石川郡野々市町本町 |
形式 |
平城 |
遺構 |
石碑 |
築城者 |
富樫高家 |
施設 |
説明板 |
城主 |
富樫氏 |
駐車場 |
なし |
築城年 |
建武2年(1335年)以降 |
文化財 |
野々市町指定史跡 |
廃城年 |
元亀元年(1570年) |
|
|