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江戸城富士見櫓 |
江戸城は、東京都千代田区千代田にある輪郭式平山城です。
千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれています。
現在では、国特別史跡に指定されています。現在は西の丸及び吹上が皇居となっていて、本丸・二の丸・三の丸は、皇居東御苑として開放されています。北の丸には、日本武道館、科学技術館、国立近代美術館、国立公文書館、東京国立近代美術館工芸館があります。
江戸城は、言うまでもなく徳川将軍家の居城として君臨していましたが、実は天守は現存していません。これが現存していれば萌えだったのですが・・・。
この江戸の地の開発は、平安時代後期に武蔵国の秩父地方から出て河越から入間川(荒川)沿いに平野部へと進出してきた秩父党一族によって始められています。11世紀に秩父氏の一族であった江戸重継は、江戸城の地の高台に居館を構え、江戸の地名をとって江戸太郎と称し、江戸氏を興しています。つまり江戸(東京)の地に初めて根拠地を置いた武家は江戸重継であったことになります。これにより、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけては、江戸氏の居館である江戸館が、江戸城本丸・二の丸辺りの台地上に置かれていたとされています。
ところが応安元年(1368年)の武蔵平一揆の乱で江戸氏が上杉氏らに敗れて没落し、やがて江戸から退去したのち、扇谷上杉氏の家臣である太田道灌が1457年(長禄元年)に江戸城を築城しています。徳川幕府の公文書である徳川実紀ではこれが江戸城の始めとされていて、一般的にも江戸城は太田道灌が築城したと知られています。
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江戸城田安門 |
江戸城の南には品川湊があり、更にその南には六浦(金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路があったので、関東内陸部から利根川・荒川を経て品川・鎌倉に向かうための交通の要衝にあったと言えます。実は当時は現在よりも海が江戸城のすぐ近くにあって、実際には海城のような様子であったと思われます。ここに目をつけた太田道灌の先見性はやはりさすがです。
ところが太田道灌が主君である上杉定正に文明18年7月26日(1486年8月25日)定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれ、ここで暗殺されてしまいます。享年55。それにしても上杉氏ははっきり言えば太田道灌で保っていたのに、なぜこのような事になったのか。つまり太田道灌があまりにも勢威があって上杉定正がそれを恐れたことと、扇谷上杉家の力を弱めるための山内上杉顕定の画策に定正が乗ってしまったということでしょう。それにしても馬鹿なことをしたもので、これが原因で両上杉氏は衰退することになります。つまりこれにより太田氏と関東の諸豪が一斉に離反してしまい、上杉氏滅亡の原因となってしまったのです。太田道灌が殺害された後、江戸城は上杉氏の所有するところとなりますが、やがて北条氏が両上杉氏を駆逐して江戸周辺も北条氏の支配下に入ることになります。しかし北条氏は、やがて豊臣秀吉と対立することになり、天正17年(1589年)10月に真田氏の支城であった名胡桃城を奪ったことにより、天正18年(1590年)3月に豊臣秀吉の小田原攻めが開始されてしまいます。北条氏は同年7月に小田原城を開城、降伏しています。
戦後処理で秀吉に北条氏旧領の関八州を与えられて、駿府から転居した徳川家康が、同年8月1日(1590年8月30日)に公式に入城し、ここを居城としています。
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江戸城桜田門 |
徳川家康が入城した時点の江戸城は、太田道灌が築城した際の比較的小規模な城のままであり、現在の本丸、二の丸の範囲が城域でした。そこで徳川家康は開幕までにそれまでの本丸(元は二つの郭であったが入城後、間の堀を埋めて一つの郭にする)・二の丸に加え、西の丸・三の丸・吹上・北の丸を増築しています。
また道三掘や平川の江戸前島中央部への移設、それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っています。
1603年(慶長8年)に徳川家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手しています。本丸・二の丸・三の丸に加え、西の丸、西の丸下、吹上、北の丸を囲む周囲16kmにもおよぶ範囲を本城とし、さらにその外側の現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭として拡張しています。これらの工事には日本全国の大名が動員されています。
1606年(慶長11年)にも諸大名から石材を運送させ、増築しています。これらの工事も全国の大名が動員されています。
また、関東、奥羽、信越の諸大名に命じて天守台および石塁などを修築しています。このときは藤堂高虎が設計を行い、関東諸大名は5手に分れて、80万石で石を寄せ、20万石で天守の石垣を築き、奥羽、信越の伊達政宗、上杉景勝、蒲生秀行、佐竹義宣、堀秀治、溝口秀勝、村上義明などは堀普請を行っています。
この際の工事で最初の天守が築かれていますが、その構造はイマイチ不明で、5重であったとしかわかりません。
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江戸城清水門 |
1611年(慶長16年)にも修築の工を起こして諸大名に課役しています。
同年3月、後陽成天皇が後水尾天皇に譲位した際に、、京都二条城で家康と豊臣秀頼が「妻千姫の祖父に挨拶する」という名目で、会見を行っています。この会見が実現したことで、豊臣秀頼が家康へ臣従したと見なすことも可能ですが、引き続き秀頼が家康との対等性を維持したと見る説もあり、これについては史家の間でも見解が分かれていて何とも言えません。
しかし家康が豊臣家を討伐することを決定的にしたのはこの時の会見が原因となったとも言われていて、この会見の意義は歴史上極めて重要なターニングポイントになったと見るべきでしょう。秀頼は、実は極めて大柄の威丈夫で、家康は会見で秀頼のことを恐れるようになったと言われています。
1614年(慶長19年)にも石壁の修築を行い、夏から冬にかけて工事を進めています。これらの一連の工事によって諸大名は著しく疲弊しています。まあ、これだけ頻繁に動員されれば、疲弊するのも道理でしょう。工事に必要な人夫とその食糧、資金は莫大なものでしょう。しかもこの頃には大阪の陣まで起こっていて、軍勢も動員しているからなおさらでしょう。
1615年(慶長20年)5月の大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡し、世は完全に徳川氏の天下となって、盤石の体制を築いています。
1618年(元和4年)、関東諸大名に西の丸の南濠を浚渫させ、1620年(元和6年)には奥羽の諸大名に二の丸の石壁を修築させています。1622年(元和8年)、本丸の殿閣を改造し、天守台の石垣を築造しています。翌年には従来の天守が解体され、新たに独立式層塔型5重5階地下1階の天守が築かれています。しかしこの際の天守も図面が残っていないようで詳しい構造は不明です。
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江戸城天守台 |
1624年(寛永元年)には西の丸殿舎が改造されています。1627年(寛永4年)、地震によって石垣が崩壊したので、1629年(寛永6年)に修築し、また吹上門の櫓、二の丸の庭園を造っています。
江戸城の完成時期は、家康の孫・徳川家光の代の1636年(寛永13年)のことでした。この際にも、天守が造り直されています。寛永度の天守は5層6階の独立式層塔型で銅板張りの壁に銅瓦葺という姿でした。これについては詳しい図面が残されているため唯一ほぼ正確な姿がわかっています。
これ以後、江戸城は200年以上にわたり江戸幕府の中枢として機能しています。その地積は本丸は10万5000余町歩、西の丸は8万1000町歩、吹上御苑は10万3000余町歩、内濠の周囲は40町、外濠の周囲は73町、城上には20基の櫓、5層6階の天守が設けられていました。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失してしまいます。
焼失後、ただちに天守の再建が計画されて、現在に残る天守台が前田綱紀によって築かれています。計画図も作成されましたが、保科正之からの「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」という意見があり、また江戸市街の復興を優先する方針により天守の再建は断念されています。後に新井白石らにより再建が計画され図面や模型の作成も行われましたが、これも結局は実現しませんでした。以後は、本丸の富士見櫓を実質の天守としていました。
また、これ以降諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても「御三階櫓」と称するなど遠慮の姿勢を示すようになります。
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江戸城西の丸伏見櫓 |
そして幕末になり、明治維新が起こり、戊辰戦争、大政奉還、王政復古により徳川幕府も滅びることになります。
1868年(明治元年)4月11日、江戸城は明治新政府軍に明け渡されて、徳川幕府は事実上滅亡しました。同年10月13日には明治天皇が江戸城に入城し、同時に江戸城は東京城(とうけいじょう)に改名されています。
1869年(明治2年)3月28日、東京奠都により東京城が皇城となり、これ以降は天皇家は皇城を居城とします。
1873年(明治6年)5月に皇居に使用中の西の丸御殿が焼失します。このため赤坂離宮を仮皇居とします。
1888年(明治21年)10月7日、明治宮殿の完成によって宮城(きゅうじょう)と称されるようになります。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生し、江戸城の建造物は大きな被害を受け、和田倉門は復旧されなかった。残っていた門は、上の櫓部分を解体して改修されています。1945年(昭和20年)には空襲により明治宮殿、大手門が焼失しています。
1948年(昭和23年) 宮城の名称が廃止され、皇居と改称されるようになっています。
1956年(昭和31年)3月26日には、外堀跡が「江戸城外堀跡」として国史跡に指定されています。
1960年(昭和35年)5月20日には、「江戸城跡」として国特別史跡に指定されています。
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江戸城大手門 |
1964年(昭和39年)には北の丸の清水門・田安門の上部が復元されています。また1967年(昭和42年)に空襲により焼失した大手門が復元されています。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(21番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されています。
江戸城は、本丸と西の丸が独立しているいわゆる一城別郭の形式となっています。元々は郭の間に日枝神社が祭られていた紅葉山があり、開幕前には庶民が間を抜けて参拝することができたが、後の拡張で城域に取り込まれたために移転しています。
武蔵野台地の東端にある地形を活用しており、特に城の北西側にあたる山の手側は谷戸(丘陵地が長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形)を利用して濠を掘ったので曲面の多い構造をしています。逆に、東南側に当たる下町は埋立地なので堀が直線的に掘られています。また江戸城は、関東では珍しく石垣が多用されていますが、元々は他の関東の城と同じく土塁のみの城でした。今残っている石垣は、天下普請の時にはるばる伊豆半島から切り出され船で運ばれてきたものです。関東で石垣を多用した近世城郭は江戸城と小田原城しかないのです。関東では石垣に使う石があまりないので石垣を持つ城も少ないのです。
そのため江戸城でも外郭や西の丸、吹上などは土塁が用いられていますが、特に吹上の土塁は雄大なものです。
現在、桜田門、田安門、清水門は、国重要文化財に指定されています
また、関東大震災で倒壊して内部はコンクリート造り、後に木造で復元された富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓、桜田巽櫓や、同心番所、百人番所、大番所なども、宮内庁管理のため国重要文化財などには指定されていませんが現存しています。
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田安門石垣 |
田安門渡櫓門 |
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田安門高麗門内側 |
田安門渡櫓門内側 |
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清水門渡櫓門内側 |
清水門渡櫓門 |
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清水門高麗門内側 |
清水門高麗門外側 |
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清水堀と東京法務局及び合同庁舎 |
清水堀と石垣 |
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牛ヶ淵と日本武道館 |
本丸北桔橋門石垣 |
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牛ヶ淵と昭和館、九段会館ホール |
日本武道館ではなんと東大入学式が |
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科学技術館 |
北の丸石垣 |
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和田倉濠 |
和田倉橋 |
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馬場先濠 |
桜田二重櫓 |
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桔梗門 |
桔梗門櫓 |
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蛤濠と石垣 |
坂下門 |
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正門 |
鉄橋 |
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湟濠 |
正門石橋と桜田濠 |
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桜田濠 |
正門石橋 |
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二重橋と伏見櫓 |
桜田濠と石垣 |
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桜田門櫓門 |
正門石橋と正門 |
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桜田門内部は枡形となっています |
桜田門高麗門(内部) |
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桜田門櫓門(内部) |
桜田門高麗門 |
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桜田門櫓門 |
外桜田門全景 |
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桜田濠と西の丸土塁 |
桜田濠は極めて幅が広い |
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西の丸の土塁は極めて大規模なものです |
土塁の上に石垣があります |
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柳の井戸・桜の井戸 |
西の丸は現在では皇居となっています |
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ここから攻めるのは難しいでしょう |
半蔵門全景 |
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半蔵門はやけに警戒厳重です |
半蔵濠 |
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千鳥ヶ淵公園 |
代官町通りが西の丸と北の丸を横切っています |
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乾門 |
北桔橋門 |
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北桔橋門 |
清水濠と石垣 |
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竹橋門跡 |
清水濠と平川橋 |
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平川門 |
平川橋 |
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平川門と平川橋 |
平川門 |
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平川門と渡櫓門 |
清水濠にハクチョウが |
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清水濠と石垣 |
清水濠はかなりの幅広です |
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平川門と平川橋の全景 |
和気清麻呂像 |
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大手門 |
渡櫓門ですが・・・壁が剥げ落ちていますね |
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巽櫓と桔梗濠 |
桜田二重櫓は別名巽櫓とも呼ばれています |
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和田倉橋 |
和田倉門跡 |
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和田倉濠と石垣 |
和田倉門跡枡形内部 |
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和田倉門跡 |
和田倉門跡石垣 |
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住所 |
東京都千代田区千代田 |
城郭構造 |
輪郭式平山城 |
遺構 |
現存櫓・門、天守台、石垣、土塁、水堀 |
天守構造 |
連立式層塔型5重5階地下1階(1606年築)
独立式層塔型5重5階地下1階(1621年再)
独立式層塔型5重5階地下1階(1635年再・非現存) |
再建造物 |
富士見櫓、伏見櫓、多聞櫓、桜田巽櫓
和田倉門 |
築城者 |
太田道灌 |
施設 |
日本武道館、科学技術館、国立近代美術館 |
城主 |
太田氏、上杉氏、北条氏、徳川氏、天皇家 |
駐車場 |
北の丸公園に駐車場あり |
築城年 |
長禄元年(1457年) |
文化財 |
国特別史跡
国重要文化財(桜田門、田安門、清水門) |
廃城年 |
現存 |
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