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彦根城天守 |
国宝彦根城は、滋賀県彦根市金亀町にある城です。現在は江戸時代に建造された天守が現存します。
また、現存天守は国宝に指定された4城のうちの一つです。
この犬山城は江戸時代初期に滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、譜代大名である井伊氏の拠点として置かれた平山城です。彦根山は「金亀山」との異名を持つため、彦根城も金亀城(こんきじょう)という別名があります。江戸幕府において多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城となっています。
彦根城は、明治初期の廃城令に伴う破却を免れ、国宝に指定されている天守、附櫓(つけやぐら)および多聞櫓(たもんやぐら)のほか、太鼓門櫓及び続櫓、西の丸三重櫓及び続櫓、二の丸佐和口多聞櫓、天秤櫓、馬屋の5棟が現存していて、国重要文化財に指定されています。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少であり、国の特別史跡にも指定されています。また、彦根城博物館には井伊氏に代々伝わっている紙本金地著色風俗図(彦根屏風)が所蔵されていて、国宝に指定されています。
城の形式は連郭式平山城となります。また現存例の少ない倭城築城の技法である「登り石垣」が良好な形で保存されています。
この登り石垣を持つ城は、彦根城の他に伊予国松山城、淡路国洲本城がありますが、いずれも一部が消失していて保存状態が良いとはいえないのが現状です。
なお、城の北側には玄宮園・楽々園という大名庭園があり、これらは国指定の名勝となっています。
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天秤櫓 |
彦根城の天守は、通し柱を用いず、各階ごとに積み上げられていて三層三階地下一階の複合式望楼型となっています。
石垣は、ごぼう積みと言われる手法で築かれています。
二重目以上の窓はすべて華頭窓を配していて、最上階には実用でない外廻り縁と高欄を付けています。今で言えばベランダですね。
各重に千鳥破風、切妻破風、唐破風、入母屋破風を詰め込んだように配置しており、変化に富む表情を見せています。
この天守は、大津城天守(4重5階)を3重に縮小して移築したといわれていて、昭和32年から35年にかけて天守解体修理を行った際に、天守の用材から転用されたものと見られる部材が確認されているとのことです。
大津城は、あの関ヶ原の合戦の際に西軍に攻撃を受けて、大砲を打ち込まれてかなりの被害を受けていたので、戦後には破棄されていますが、その際に無事だった構造物の部材を彦根に運んだものと思われます。
天守以外にも佐和山城からは佐和口多門櫓と太鼓櫓門、小谷城からは西ノ丸三重櫓、長浜城から移築したといわれている天秤櫓、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などなど移築伝承が多くあります。
どうやらコスト削減のためにあちこちから用材をかき集めて城を築いたようです。
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時報鐘 |
徳川四天王の一人といわれる井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国佐和山に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城しました。
佐和山城は石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるもの…」の一つともいわれていますが、井伊直政は、中世的な古い縄張りである山城であったことと石田三成の居城であったことを嫌って、湖岸に近い磯山(現・米原市磯)に居城を移すことを計画していました。つまり石田三成は、領民に慕われていたためにそれを滅ぼした徳川家の重臣が同じ城に在住することは、人身掌握の面からも好ましくないと考えたのでしょう。実際に現地に行くと、どう考えても佐和山城のある佐和山のほうが要害の地であり、彦根山を見下ろせる位置にあるので、わざわざ彦根山に城を築くのは不合理と思えます。ただし、佐和山は山城ですので戦争がなくなってしまえば政庁としては不便といえますが、関ヶ原直後の状況ではこれで戦が起こらないとは考えにくいと思うので(実際に大坂の陣があった)よほど石田三成のことが影響していたのだと思います。
井伊直政はその後も関ヶ原の際の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去してしまいました。
直政の死後は、井伊直勝が家督を継いでいます。その後家康の命により、再検討の結果、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始しました。
この築城には幕府からも公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請となりました。この措置は、親藩の居城築城と同等ですから、いかに徳川将軍家が井伊家を重視していたかが伺えます。
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太鼓門櫓 |
1606年(慶長11年)には第2期工事が完了し、同年の天守完成で直勝が入城しています。
慶長19年(1614年)、大坂の陣が始まった際には直勝は病弱で出陣できず、代わって弟の直孝が井伊軍を率い、名代として出陣しています。そして直勝は、はるか後方の上野国安中の関所警護を務めています。大坂の陣後に、家康は直孝の功績を賞し、直孝に井伊氏の家督を継がせ、直勝は上野国安中藩に3万石を領する大名となっています。直勝は城が完成する前に出て行かざるを得なくなったわけです。直勝は元々病弱だったということですが、別に失態もないのに彦根藩主の座を追われているのは不可解です。また大坂の陣で実際に直孝が活躍したのかということですが、冬の陣では軍令違反を犯した挙句に真田幸村(信繁)、長曾我部盛親らに大敗を喫しているのに彦根藩主に昇格しているのはますます不可解です。これは何か裏があると思うしかないでしょう。もっとも直孝は夏の陣では八尾・若江の戦いで活躍していて、大坂城の籾蔵に篭っていた淀殿・豊臣秀頼母子を自害させています。ちゃんと大功を立てているので夏の陣の後に彦根藩主に抜擢されているのならまだ分かるのですが。
1616年(元和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始されています。この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)にはすべての工事が完了し、彦根城が完成しました。あちこちから用材をかき集めた割には年数がかかっているのはどうしたものか。
1854年(安政元年)には天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直されています。
向かって右手が従来からの「ごぼう積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」となっています。
戦後、天守等7棟は1951年(昭和26年)に重要文化財に指定されています。うち2棟(天守、附櫓、および、多聞櫓)が1952年(昭和27年)には国宝に指定されています。姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1951年(昭和26年)6月9日に国の特別史跡にも指定されています。1987年(昭和62年)には彦根市市制50周年として御殿が復元され、「彦根城博物館」として藩政時代の調度品・武具などが展示されています。
2006年(平成18年)4月6日には日本100名城(50番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されています。
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彦根城内堀 |
彦根城大手門に架かる橋 |
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彦根城大手橋 |
彦根城石垣 |
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大手口から城内へ入る |
彦根城内の石垣 |
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地蔵堂 |
本丸への石段 |
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石垣群 |
石段はかなりの急勾配です |
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天秤櫓へ架かる橋と堀切 |
天秤櫓 |
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天秤櫓表門 |
天秤櫓裏門 |
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聴鐘庵 |
太鼓櫓門への石段 |
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彦根城天守 |
彦根城天守は3階3重 |
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彦根城天守 |
天守内部 |
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出土品 |
武者溜 |
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彦根市街 |
彦根城天守の説明板 |
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天秤櫓 |
天秤櫓内部 |
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天秤櫓内部 |
天秤櫓内部 |
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本丸へ進みます |
太鼓門 |
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太鼓門櫓 |
彦根城天守は国宝です |
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太鼓門櫓 |
彦根城天守は国宝です |
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天守内部に展示してあった鬼瓦 |
天守1階へ上がります |
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天守内部を進みます |
矢狭間があちこちにあります |
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天井の梁も太いものです |
さらに進みます |
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武者溜がありました |
さらに進みます |
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階段を上ります |
最上階に入りました |
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鉄砲狭間がありました |
展示品がありました |
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扉金具類 |
回廊の天井 |
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階段を降りたところです |
奥にまた鉄砲狭間が |
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矢狭間と鉄砲狭間があります |
地下1階へと降ります |
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火灯窓 |
彦根城がライトアップされています |
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彦根城天守 |
西の丸三重櫓 |
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西の丸三重櫓 |
西の丸からみた天守 |
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太鼓櫓 |
あたりが暗くなってきました |
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太鼓櫓門 |
天秤櫓門 |
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表門 |
彦根城博物館 |
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佐和口多聞櫓 |
彦根城天守 |
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住所 |
滋賀県彦根市金亀町1-1 |
電話 |
0749-22-2742 |
開館時間 |
8:30~17:00 |
休館日 |
無休(彦根城博物館は12/25~12/31) |
入館料 |
大人 600円 小中学生 200円 |
駐車場 |
普通車280台、大型車25台(普通車400円、大型車1500円) |
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住所 |
滋賀県彦根市金亀町 |
形式 |
連郭式平山城 天守:複合式望楼型 3重3階地下1階 |
遺構 |
現存天守 櫓 門 塀 馬屋 石垣 土塁 堀 |
築城者 |
井伊直継 |
再建造物 |
御殿 |
城主 |
井伊氏 |
駐車場 |
有料駐車場あり |
築城年 |
元和8年(1622年) |
文化財 |
国宝(現存天守) 国特別史跡 |
廃城年 |
明治7年(1874年) |
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