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放生津城跡にある説明板 |
放生津城(ほうじょうづじょう)は、富山県射水市中新湊にある平城です。射水市指定史跡となっています。
鎌倉幕府の越中国守護所として、正応3年(1290年)に執権北条氏の命を受けて北陸道の守護職として越中国に赴任した名越時有がこの地に城を築いています。
元弘3年(1333年)鎌倉幕府滅亡に際し、越中守護の名越時有が一族とともに放生津城で最期を遂げたと「太平記」に記されています。室町時代には、越中守護畠山氏の重臣で、射水郡・婦負郡の守護代であった神保氏の居城となっています。
明応2年(1493)には、室町幕府10代将軍足利義材が管領細川政元が起こした明応の政変により幽閉され、神保氏の主君にあたる畠山政長も自害するという事件が発生しています。足利義材は、京都を脱出して越中に逃れて、越中国放生津城主神保長誠にかくまわれてこの地で越中公方として放生津政権を樹立しています。越中公方足利義材のもとへは、公家・大名が出仕し、禅僧、歌人ら多くの文化人も訪れるようになり、これにより放生津は北陸の政治・経済・文化の中心地として栄えています。この地は海に近く港があり、交通の便も良く、京都から船で移動するにも便利だったことが背景にあるでしょう。
この頃は、神保氏が極めて強勢だったと言えましょう。そうでなくては将軍がこの地へ逃れてくるとは思えませんので。
将軍が越中に逃れてきたのはもう一つ理由があり、神保氏の主君である畠山政長が細川政元に滅ぼされていて、それを恨みに思っている神保氏であれば、快く自分をかくまってくれるであろうという読みがあったのだと思われます。
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放生津城跡にある土塁・・・なら良かったのですが |
後に足利義材は将軍職に復帰しますが、管領細川高国と対立して、再び逐電することになり、大永3年(1523年)4月9日(4月7日とも)に阿波撫養(現在の鳴門市)で死去しています。享年58。
永正17年(1520年)、神保長誠の子慶宗が越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)と新庄城の戦いで敗れて自害しています。
放生津城も長尾軍の攻撃で落城し、焼失してしまいます。このため、神保氏は一時衰退するものの、神保慶宗の子、長職が神保氏を再興して天文12年(1543年)には富山城を築城して拠点をここに移しています。放生津城も神保氏の手によって再建されたと思われます。しかし越中国は、この後は上杉軍と一向一揆勢、さらには織田軍の草刈り場と化していました。放生津城は、神保氏時代は守山城の支城となっていたと思われますが、守山城主神保氏張は上杉軍が侵攻してくるとこれに降り、織田軍が侵攻してくると、佐々成政に降ると、うまく立ち回っていたので、放生津城も落城の憂き目には遭わなかったのかもしれません。
天正13年(1585年)には佐々成政が豊臣秀吉に降伏して、越中国は前田氏の領地となり放生津城も前田氏の持ち城となります。
しかし、放生津城は江戸時代の初め頃までに廃城となっています。この時点では、既に戦略的価値がなくなっていたと思われるので城としては廃城になったと思われますが、この城は海に近いので舟を城の内部にまで引き入れて荷物を搬出入するには便利だったので城跡は明治時代まで前田家の米蔵屋敷として使われていたようです。
現在では遺構は射水市立放生津小学校のグラウンド地下2mに埋められていて、地表から見えない状態です。
1988年~1991年にかけて試掘調査が行われていて、その際の出土品の一部が射水市新湊博物館で常設展示しています。
グラウンド周囲には土塁があるのですが、実はこの土塁は後から作ったもので遺構ではないとのことです。これが遺構だったらすごい土塁遺構となるので萌えなのですがね。高さも長さも充分な立派な土塁となるのですが・・・。
しかし実際に現地へいって見ると、どうにも土塁としか見えないのです。砂止めということになっていますが、砂止めであのような大げさな土塁が必要とは考えにくいのです。どういうことなのでしょうかね。土塁を再建したのだと言っておけばみんな納得するのにね。
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放生津城跡の石碑 |
放生津城跡を示す石碑ですが・・・ |
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住所 |
富山県射水市中新湊 |
形式 |
平城 |
遺構 |
なし(地下に埋没している) |
築城者 |
名越時有 |
施設 |
説明板 石碑 |
城主 |
名越時有 桃井氏 神保氏 前田氏 |
駐車場 |
特になし |
築城年 |
正応3年(1290年) |
文化財 |
射水市指定史跡 |
廃城年 |
元和6年(1620年) |
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