史跡 福井城
福井城の概要
福井城全景
福井城全景
福井城は、福井県福井市大手3丁目にある平城です。江戸時代には福井藩主越前松平家の居城、城下町として栄えていました。現在では本丸、石垣、天守台、内堀、井戸が現存しています。
この福井城は、天正3年(1575年)、柴田勝家が築城しました。ただし、当時は北ノ庄城と呼ばれていて、慶長6年(1601年)に結城秀康によって築かれた北ノ庄城(後に福井城と改称)は、当初の北ノ庄城を包含する形で増築したらしいのですが、現在の遺構は結城氏によって築かれたものであり、柴田氏の北ノ庄城に関してはほとんど調査が進んでいないため、詳細は不明です。
そこでここでは柴田氏が築いた北ノ庄城と結城氏が築いた北ノ庄城とは特に区別しないで通しで考えることとします。
天正元年(1573年)の朝倉氏の滅亡後、信長は朝倉旧臣前波吉継を越前の守護としたが、同じく朝倉旧臣の富田長繁が内乱を起こし一向一揆を誘って前波を殺すが、一揆勢は富田をも殺し越前は一向一揆が支配することとなっていました。信長はこれに総軍を率いて出陣し、一向一揆を平定します。
この時の功績により柴田勝家は越前国八郡49万石を与えられています。勝家は、天正3年(1575年)に自らの縄張りによって北ノ庄城の築城を開始します。この際、前田利家、佐々成政、不破光治らの与力を付けられ、一向一揆が支配する加賀国の平定を任され北陸方面軍総司令官となっています。
天正5年(1577年)、越後の上杉謙信が能登国を制圧し、加賀国にまで進出してきます。勝家は七尾城の救援に向かいますが、間に合わずに七尾城が陥落してしまい、撤退中に手取川で上杉謙信に襲撃されて敗北してしまいます。これを世に手取川の戦いと呼んでいますが、この戦いで織田軍の加賀国平定は一時頓挫します。もっともこの戦いで織田軍が足腰立たなくなるまで打ちのめされたと言うほどではなかったようですが。敗因の一つには勝家が軍議で羽柴秀吉と衝突し、これと仲違いしたため、秀吉が戦線を離脱したという事実があったようで、統率に乱れがあったといえましょう。
福井城御本城橋
福井城御本城橋
しかし天正6年(1578年)に謙信が死去すると、織田軍の北陸方面での活動が再開されます。天正8年(1580年)3月、信長と本願寺に講和が結ばれた途端に織田軍は加賀国に侵攻し、勝家は一向一揆の司令塔金沢御堂を攻め滅ぼして、軍を北加賀・越中境まで進めます。天正8年(1580年)11月、加賀一向一揆を制圧して、さらに能登・越中にも進出を果たします。また、佐久間信盛が失脚したことによって、柴田勝家は名実ともに織田家の筆頭家老に位置することになります。
翌天正9年(1581年)2月28日、信長の京都馬揃えでは勝家は配下の前田利家ら越前衆を率いて、上洛し、参加しています。また、この頃から対上杉政策の為か、伊達氏の家臣・遠藤基信と連絡を盛んに取り、伊達氏との外交政策の一端を担っていることが伊達治家記録などから判明しています。ううむ、抜け目がないな。天正10年(1582年)、上杉氏方の越中国魚津城、松倉城(富山県魚津市)を攻囲中になんとあの本能寺の変があって織田信長が横死することとなります。勝家は上杉景勝の反撃に遭って越中国東部制圧に手間取り、魚津城を落したものの結局は撤退を余儀なくされ、京都に向かうことができなかったのです。さらに言えばこの時の騙し討ちが後々まで祟って、上杉氏が柴田方に敵対を続けたために、賤ヶ岳の戦いでも戦力を集中できなかったと言えます。
本能寺の変後、織田氏の後継者問題を話し合う清洲会議では、勝家が信長の三男・織田信孝の烏帽子親を務めていたこともあり、後継者として信孝を推したのですが、明智光秀を討伐したことで実績や発言力が大きかった羽柴秀吉が信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立し、丹羽長秀もこれに賛成したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなり、信長の遺領配分においても河内や丹波、山城を加増した秀吉に対し、勝家は北近江3郡、長浜城(現在の長浜市)を得るにとどまり、勝家と秀吉の立場は逆転してしまうことになります。
福井城御廊下橋
福井城御廊下橋
しかし私見を言わせてもらうと、信孝は武将としての才覚に劣るし、信雄も似たり寄ったりでとても天下を治める器ではなかったので、この結果は当然でしょう。ここでは秀吉の実績があまりにも大きくて反論できなかったようです。勝家としては前述するように秀吉と仲違いしていたのが感情的にも対立する原因となったといえ、ついていない結末となったと思えます。
なお、この後に勝家は羽柴秀吉の仲介を受けてお市の方と結婚しています。この点に関しては従来は信孝の仲介とされて来たが、秀吉の仲介の書状により、どうやら秀吉による仲介説が有力となっています。要するに秀吉からの勝家懐柔策ということだったのでしょうね。
さらに秀吉は翌月に自らの主催で大規模な信長の葬儀を執り行い、8月には京都奉行として自らの一門筋である浅野長政・杉原家次をすえています。当然ながら勝家や信孝らは秀吉のこれらの一連の行動を自らの政権樹立のためであると考え、激しく警戒し、敵意を抱くに至っています。
この後双方とも周囲の勢力を自らの協力体制に持ち込もうと盛んに調略を行いますが、北陸の柴田氏の背後を脅かす越後国の上杉景勝や信孝の地盤である美濃の有力部将・稲葉一鉄が羽柴秀吉になびくなど、やや秀吉に有利な状況にあった。
一方で勝家は四国の長宗我部元親や紀伊の雑賀衆を取り込み、特に雑賀衆は秀吉の出陣中に和泉岸和田城などに攻撃を仕掛けるなど、後方を脅かしています。
11月には、勝家は前田利家・金森長近・不破勝光を秀吉のもとに派遣し、秀吉との和睦を交渉させています。これは勝家が北陸に領地を持ち、冬には雪で行動が制限されるために時間稼ぎのためのみせかけの和平でした。もちろん秀吉はこのことを見抜き、逆にこの際に三将を調略したのでしょう。これが後の裏切り劇の原因となるとは、とことんついていません。
福井城本丸南側
福井城本丸南側
12月2日(12月26日)、秀吉は和睦を反故にして大軍を率いて近江に出兵、長浜城を攻撃しています。北陸は既に雪深かったために勝家は援軍が出せず、さらに勝家の養子でもある城将柴田勝豊は、わずかな日数で秀吉に降伏してしまいます。
勝豊は、勝家の養子ですがどうも勝家とは不仲だったことと、長浜城は秀吉が築いた城ですので、内部構造にも詳しく、とても支えきれないと判断したのでしょう。さらに秀吉の軍は美濃に進駐、稲葉一鉄などから人質を収めるとともに、12月20日(1583年1月13日)には岐阜城の織田信孝を降伏させています。
翌天正11年(1583年)正月、伊勢の滝川一益が柴田勝家への旗幟を明確にして挙兵し、峯城や亀山城を落城させています。秀吉は諸勢力の調略や牽制もあり、一時京都に兵を退いていたが、翌月にはこれらへの攻撃を再開、2月中旬には峯城・亀山城と一益の本拠である長島城を攻撃し、亀山城は3月3日(4月24日)に開城しています。
一方で越前・北ノ庄城にあった柴田勝家は雪のため動けずにいましたが、ついに2月末には残る雪をかきわけつつ近江に向けて出陣してきます。これが天下分け目の決戦となる、賤ヶ岳の戦いの始まりでした。
3月12日(5月3日)、勝家は前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣します。秀吉も直ちに兵を出し、3月19日(5月10日)には5万といわれる兵力を率いて木ノ本に布陣しています。しかし双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築しています。
3月27日(5月18日)、戦線の膠着もあり秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還しています。
福井城南側内堀
福井城南側内堀
4月16日(6月6日)、一時秀吉に降伏していた織田信孝が滝川一益と結んで再び挙兵して岐阜城下へ進出します。秀吉は翌4月17日(6月7日)直ちに美濃に進軍するも、揖斐川の氾濫により大垣城に入ります。秀吉の軍勢が多く近江から離れたのを好機と見た勝家は部将・佐久間盛政の意見具申もあり、4月19日(6月9日)、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させます。大岩山砦を守っていたのは中川清秀であったが、耐え切れず陥落し、清秀は討死しています。さらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃し、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れています。しかし高山右近も困難な状況で戦死することなく、撤退を成功させている点は、地味ながら戦上手と言えます。
この成果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下していますが、再三の命令にもかかわらず盛政はこれを拒否し、大岩山などに軍勢を駐屯し続けていたのですが、実はこれが勝家の命取りとなってしまいます。
4月20日(6月10日)、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴も撤退を開始します。しかしその頃、時を同じくして船によって琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が「一度坂本に戻るべし」という部下の反対にあうも機は今を置いて他に無いと判断し、進路を変更して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変します。長秀いる2000の軍勢は撤退を開始していた桑山重晴の軍勢と合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し間一髪の所で賤ヶ岳砦の確保に成功します。
更に同日、大垣城にいた秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返しています。14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの丘陵地帯を含む52kmを僅か5時間で移動を成功させています。これが世に言う「美濃大返し」です。
福井城瓦御門跡石垣
福井城瓦御門跡石垣
このような急激な行軍速度を成功させた理由については諸説ありますが、あらかじめ沿道に松明を点け、さらに食事の補給個所も用意もさせていたといいます。僅かな時間で帰還した秀吉の大軍に驚いた佐久間盛政は同深夜に撤退を開始するものの、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲されます。しかし盛政の軍が善戦したために秀吉は盛政の救援に向かっていた柴田勝政に攻撃対象を変更し、この勝政の軍に盛政が逆に救援し、激戦となったのです。ところがこの最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如戦線離脱しています。理由は諸説ありますが、利家は秀吉とは信長の部下時代からの親友であったことと、勝家とは主従関係にあったこと。この相関関係に耐えきれなかったことが一番有力な説とされています・・・。
このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わり、さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到してきます。
もはや多勢に無勢の状況を支えきれず勝家の軍勢は総崩れとなり、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却します。
勝家は北ノ庄城に逃れるものの、4月23日(6月13日)には前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲され、翌日に夫人のお市の方らとともに自害しています。享年62。辞世の句は「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」。
また佐久間盛政は加賀国を目指して逃亡するものの捕らえられています。このとき秀吉は盛政の武勇を買って九州平定後に肥後一国を与えるので家臣になれと強く誘っていますが、盛政は織田信長や勝家から受けた大恩を忘れることはできず、願わくは派手な衣装を着用の上、引き回しののち刑死したいと願っています。そしてそれが秀吉の権威を高めることにつながるとも語ったといわれています。
福井城天守から丸岡市街を望む
福井城天守から丸岡市街を望む
果たして京市中を引き回された盛政は、やがて宇治・槙島で斬首され、首は京の六条河原でさらされます。享年30。辞世は「世の中を廻りも果てぬ小車は火宅の門を出づるなりけり」。
また、柴田勝家の後ろ盾を失った織田信孝や滝川一益には抵抗する力もなく、翌月、信孝は秀吉に与した兄織田信雄に岐阜城を包囲されて降伏、伊勢長島城にあった一益も降伏した。信孝は尾張国内海(愛知県南知多町)に移されて、信雄の使者より切腹を命じられて自害、一益は剃髪のうえ出家させられています。享年26。辞世の句は「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
柴田勝政は、勝家の養子でしたが、実は勝家は勝豊よりも勝政の方を可愛がっていて、これが勝豊が秀吉に降伏する原因となっています。勝政は賤ヶ岳の戦いで戦死したとも言われていますが、実際にはどうやら生き延びていたようで、秀吉に許されて金森長近の家臣となったとか、四国に落ち延びたとも言われていてイマイチその最後ははっきりしていないようです。
また柴田勝豊は、長浜城を秀吉に包囲されてあっさりと降伏していますが、実はすでにこの時点で病を得ていたため、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは家臣を代理として秀吉方として参戦しています。しかし賤ヶ岳の戦いの直前、京都東福寺にて病死しています。享年28。これは勝家滅亡の8日前のことでした。
勝家が妻お市と共に自害するとともに城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失することになりますが、その後も青木一矩が北ノ庄城に封じられています。つまり少なくとも一部は再建されたということでしょうか。
しかし前述するように慶長6年(1601年)より柴田氏の北ノ庄城の跡地に、新たに結城氏によって北ノ庄城が築城されたため、現在では柴田氏時代の北ノ庄城の遺構を見ることは出来ません。
平成5年(1993年)から6度にわたる発掘調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の地下から、石垣の跡と思われる石が出土していますが、残念ながら本丸の正確な位置を完全に特定するまでには至っていません。
福井城内堀と本丸石垣
福井城内堀と本丸石垣
勝家が築いた北ノ庄城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用していたと推定されていて、天守は7層(一説には9層)構造で、安土城に匹敵する巨城であったと伝えられています。
柴田時代の北ノ庄城の規模を伺わせる史料として、宣教師のルイス・フロイスが天正9年(1581年)に北ノ庄を訪問したときの記録がありますが、それによると「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層城の美観を増した」とあります。この「石」とは、城に程近い足羽山で産出される笏谷石のことであり、現在発掘調査で見出された柴田時代の石垣は笏谷石ですし、北ノ庄城とほぼ同時期に勝家の養子、柴田勝豊によって築城された丸岡城の天守も笏谷石製の石瓦で葺いてあります。また、町の規模が安土の2倍ほどもあること、勝家によって足羽川に架橋された九十九橋についても言及があります。
次に、勝家を攻め滅ぼした羽柴秀吉が戦後間もない天正11年4月25日に毛利氏重臣・小早川隆景に送った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、天守が九層」であった旨の記述があります。
ということで、勝家時代の北ノ庄城には既に巨大な天守があり、町は栄えていたことが伺えるといえます。実際にも勝家は戦にも強いが、むしろ政治家として優秀であり、領地では善政を布き、その行政手腕は信長も認めるところであったようです。勝家に欠けていたものはむしろ統率力の方だったのではないかと言えます。まず加賀国に侵攻する際に秀吉との意見の対立から秀吉が無断で戦線を離脱した点と賤ヶ岳の戦いでも佐久間盛政の独断専行により秀吉軍につけ込まれる結果となった点、さらには前田利家らの戦線離脱を許した点が指摘できるでしょう。
これらはいずれも戦場で発生しており、それが原因で戦闘にも敗れていて、最終的には命取りになっています。
しかし賤ヶ岳から敗走中に府中の前田利家のところに立ち寄った勝家は、利家に対して労をねぎらい、一言も責めるようなことは言わなかったと伝えられています。ううむ、このような人物が非業の最期を遂げるとは歴史の無情さが感じられます。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で、西軍方であった越前北ノ庄城城主・青木一矩が東軍方に降伏し、後に改易されると、家康の次男である結城秀康が68万石で北ノ庄に入封しています。
福井城縄張り図
福井城縄張り図
翌年より北ノ庄城は天下普請による築城が開始されます。
慶長9年(1604年)に秀康が松平氏を名乗ることを許されて、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成します。完成した城は2km四方に及ぶ極めて広大なもので、5重の水堀が囲む本丸には4重5階の天守が建てられていました。しかし天守が寛文9年(1669年)に焼失し、以後藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはなかったのです。幕府から再建の許可が下りなかったとの説もあります。まあ、いつも言っていることですが、越前松平家は徳川将軍家から見ると兄筋にあたり、極めて煙たい存在といえますし、越前松平家は家督問題や藩主の乱行などの問題が相次いで次第に減封されていくことになります。
最終的には68万石から32万石と半分以下に削減されています。
寛永元年(1624年)に福井藩第3代藩主松平忠昌によって、「北」の字が「敗北」にあたり不吉であるとして「北ノ庄」のから「福居」に改名され、さらに後に「福井」と改名されています。(改名の経緯に関しては諸説ありますが、現地の案内板には天守台にある井戸が福の井であることからこれが福井の地名の由来となったと記述がありました。)
この結城秀康の北ノ庄城では、本丸北西隅に天守曲輪と天守台の2段の石垣をついて望楼型4重6階の天守が建てられています。白漆喰総塗籠の外壁仕上げで、最上重には、外廻り縁高欄と西面に向唐破風があり、元和大坂城天守に見られるような配置に破風が並べられていました。
寛文9年(1669年)に天守が焼失した後は、同じように類焼した本丸南西隅の2重巽櫓を3重に再建し天守の代用としています。古写真では、複合式望楼型で1重目と2重目の窓が上下にあることから、3重5階の櫓であったと思われます。実質的にも天守として恥ずかしくない規模の櫓ですね。
福井城南西櫓絵図
福井城南西櫓絵図
現在の福井城は本丸以外の郭と外堀は消失していますが、本丸、内堀、石垣、天守台などの遺構が残り、本丸跡には福井県庁、県会議事堂、県警察本部などがあり、公園としても整備されています。
福井城は江戸時代は福井藩庁であり、現代では福井県庁となっているだけで、要するに時代が変わってもその政治行政の中心としての役割は依然として変わっていないということになります。
本丸御殿の一部は(市内足羽5丁目)瑞源寺本堂及び書院に移築されています。また、天守台のそばには「福の井」という井戸が残っており、前述するようにこの井戸が「福井」の語源由来となったという説があります。この井戸には城外へ通じる抜け道があるとの言い伝えがあり、過去に調査がなされています。
福井市足羽5丁目の足羽山麓にある高照山瑞源寺(臨済宗妙心寺派)は、第5代、第7代藩主昌親(吉品)とその母親の高照院の墓所となっています。
寺伝に従い平成3年に調査された結果、この寺の本堂と書院が福井城本丸御殿の移築遺構であることが判明しています。
幕末の万延元年(1860年)「御本丸の御小座敷を以って本堂を再建する」と寺伝にある通り、後世に増改築されてはいるが、『福井城本丸御殿の図』(松平文庫蔵)にみられる天保2年(1831年)に14代斉承が造営した御小座敷(おこざしき)と呼ばれる建物と一致しています。 また併設されている書院は、同年同時に作られた、斉承の正妻浅姫(11代将軍家斉の娘)のための御殿「大奥御座之間」であることも建材の墨書などから確認されています。本丸御殿の類は現存しているものが極めて少なく、貴重な遺構と言えます。
御廊下橋は、本丸と西三の丸を結ぶ屋根付きの珍しい橋ですが、これが復元されて公開されています。

福井城本丸東南櫓石垣 福井城内堀東南
福井城本丸東南櫓石垣 福井城内堀東南
福井城本丸東南側 福井城内堀南側と御本城橋
福井城本丸東南側 福井城内堀南側と御本城橋
福井城本丸内堀東側 福井城本丸北東部石垣
福井城本丸内堀東側 福井城本丸北東部石垣
福井城縄張り図 福井城本丸北東部石垣
福井城縄張り図 福井城本丸北東部石垣
福井城本丸北口 福井城本丸内堀北側
福井城本丸北口 福井城本丸内堀北側
福井城本丸内堀北側 福井城本丸北口石垣
福井城本丸内堀北側 福井城本丸北口石垣
福井城本丸北口石垣西側 福井城本丸北口石垣東側
福井城本丸北口石垣西側 福井城本丸北口石垣東側
福井城本丸石垣南側 福井城瓦御門石垣
福井城本丸石垣南側 福井城瓦御門石垣
結城秀康公像 福井城瓦御門跡
結城秀康公像 福井城瓦御門跡
福井城天守台と蓮の池 福井城天守説明板
福井城天守台と蓮の池 福井城天守説明板
福井城天守台説明板 福井城天守台石垣と階段
福井城天守台説明板 福井城天守台石垣と階段
福井城天守台にはさらに石垣があります 福の井が福井の地名の由来というのは本当か
福井城天守台にはさらに石垣があります 福の井が福井の地名の由来というのは本当か
石垣が一部崩れているのは福井地震のため 天守台から見た内堀北側
石垣が一部崩れているのは福井地震のため 天守台から見た内堀北側
天守台石垣 天守台から見た内堀北西部
天守台石垣 天守台から見た内堀北西部
天守台石垣 天守台石垣の西側
天守台石垣 天守台石垣の西側
天守台石垣は四段に積まれています 山里口御門跡
天守台石垣は四段に積まれています 山里口御門跡
天守台から見た御廊下橋 天天守台石垣
天守台から見た御廊下橋 天守台石垣
天守台 天守台はかなりの広さです
天守台 天守台はかなりの広さです
この広さなら四層五階の天守も建てられそうです 天守台中央部から入口を見る
この広さなら四層五階の天守も建てられそうです 天守台中央部から入口を見る
天守台への階段は急です 天守台へ登るのは注意が必要です
天守台への階段は急です 天守台へ登るのは注意が必要です
山里口御門跡石垣 石垣の組み方がけっこう不揃いのようですが
山里口御門跡石垣 石垣の組み方がけっこう不揃いのようですが
山里口御門跡の案内板 御廊下橋の土塀
山里口御門跡の案内板 御廊下橋の土塀
御廊下橋も桝形に曲がっています 土塀には鉄砲窓が再現されています
御廊下橋も桝形に曲がっています 土塀には鉄砲窓が再現されています
山里口御門も桝形地形になっているのがわかります 復元された御廊下橋
山里口御門も桝形地形になっているのがわかります 復元された御廊下橋
本丸内堀西側 御廊下橋の説明板
本丸内堀西側 御廊下橋の説明板
御廊下橋入口 御廊下橋から見た本丸石垣西側
御廊下橋入口 御廊下橋から見た本丸石垣西側
御廊下橋からみた天守台 福井城内堀はすごく広い幅を持っています
御廊下橋からみた天守台 福井城内堀はすごく広い幅を持っています
御廊下橋 御廊下橋と石垣、内堀
御廊下橋 御廊下橋と石垣、内堀
福井県警察本部 福井城南西櫓跡石垣
福井県警察本部 福井城南西櫓跡石垣
御本城橋 福井県庁
御本城橋 福井県庁
福井城跡
住所 福井県福井市大手三丁目 形式 輪郭式平城 天守・望楼型4重6階(1601年・非現存)
遺構 石垣 本丸 天守台 井戸 築城者 柴田勝家 結城秀康
施設 説明板 石碑 公園 城主 柴田勝家 青木一矩 結城秀康 松平氏
再建造物 御廊下橋 築城年 天正3年(1575年)
文化財 なし 廃城年 明治4年(1871年)
 スライドショー
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史跡 福井城マップ
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