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上梅沢館跡 |
上梅沢館(かみうめざわやかた)は、富山県滑川市上梅沢にある平城です。この城は土肥氏が南北朝期に築いた館と思われます。現在は館跡に光明寺があり、その周囲に土塁跡が残っていて当時を偲ばせる遺構となっています。さらにその周囲には堀があったと思われますが、現在では判然としません。
土肥氏は、弓庄城を拠点とする土肥政繁と堀江城を拠点とする一族に分かれていたと考えられていますが、こちにの上梅沢館は堀江系土肥氏の居館であったと考えられますが、詳細は不明ですので事実かどうかは定かでありません。
土肥氏は源頼朝の攻臣、土肥次郎実平を祖とする一族で、相模国土肥郷(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町)を出身とします。実は土肥氏は小早川氏とは同族です。
土肥氏は、建保元年(1213年)の和田合戦で破れたために一時衰退しますが、土肥実綱が鎌倉将軍九条頼嗣、執権の北条時頼、北条時宗に仕えて活躍したため、土肥氏は再び息を吹き返します。この実綱の弟の土肥頼平が越中土肥氏の祖です。
ですから鎌倉時代には新川郡堀江庄の地頭職としてその名が見られます。
実綱の弟・頼平が地頭職として越中入りし、土肥氏は堀江城を本城とし上梅沢館、有金館、郷柿沢館、稲村城、千石山城を構える堀江系土肥氏と、弓庄城を本城とし柿沢城、茗荷谷城を構える弓庄系土肥氏として、1584(天正12)年に佐々成政に滅ぼされるまで繁栄を誇っていました。
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土塁跡 |
土肥実平の弟で小早川を領していた遠平は安芸国の竹原を得て下向し戦国大名小早川氏の祖となっています。
越中に入部した土肥氏は、在地領主として次第に勢力を拡大し、室町期には越中国内の代表的な国人領主に成長していたことは諸記録から判明しています。
越中国守護は畠山氏宗家が代々世襲し、実際の領国の政治は守護代の遊佐氏・神保氏・椎名氏が代行していました。
室町時代に畠山氏に大規模な家督争いが起きて、このとき神保氏・遊佐氏・椎名氏らとともに土肥氏もこれに関わり畿内を転戦しています。この争乱はやがて「応仁の乱」へと発展することになり、日本国中を真っ二つに割ることになって戦国時代へ進むことになります。
このころ、土肥一族で土肥将真が畠山尚順に従い将軍に謁見し、土肥六郎左衛門は明応二年(1493)の明応の政変に敗れ、畠山政長とともに切腹するなど土肥氏一族の活動が記録に残っています。
この際に第十代将軍であった足利義材は一時幽閉されたものの、京都を脱出してなんと越中国の放生津に下向し、神保長誠にかくまわれています。足利義材は、これにより命拾いして後に将軍職に復帰することになります。
足利義材が神保氏を頼ったということは神保氏が当時隆盛を誇っていたということになります。実際に幕府軍が越中に攻め込んできますが、神保軍はことごとくこれを撃退して寄せつけませんでした。当時の神保氏はほれぼれするほど強かったのですね。
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上梅沢館大手門・・・光明寺の門ですね |
戦国時代に入り、越後国守護代の長尾為景が越中に侵攻したとき、土肥氏らもこの戦いに巻き込まれ、やがて越後長尾氏に従属する松倉城城主椎名長常が越中新川郡を支配するようになっています。しかし、土肥氏のなかには椎名氏の頭ごしに直接越後に訴状を送るものもいました。天正5年(1577年)の上杉謙信の将士名簿のなかに土肥但馬守親真の名がみられるということは、土肥氏も一応は長尾氏に属していたと考えられます。
弓庄城城主土肥美作守政繁は、堀江城のほか柿沢城・稲村城などに支城群を構えていました。土肥政繁は、当初は上杉謙信に属していましたが、天正6年(1578年)に謙信が死去すると越中国の他の多くの国人たちと同様に織田信長に属すようになっています。しかし、天正10年(1582年)信長が本能寺に倒れると、謙信のあとを継いだ上杉景勝に通じて佐々成政に反抗するようになっています。これに対して織田方の佐々成政は、天正10年(1582年)弓庄城を攻めていますが、弓庄城は水堀に囲まれた要害堅固な城だったため、成政は長期戦を覚悟し日中砦・郷田砦を築いて弓庄城を包囲しています。しかし城の守りは固く成政は城を落とせずいったん兵を引き揚げています。翌年二月土肥勢は反撃に転じ、成政方の小出城・新庄城を落としていますがこれを維持することはできず弓庄城に撤退し、それ以後も長い籠城が続いています。この頃の土肥勢はかなり追い詰められた状況にも関わらず、しばしば城内から出撃し佐々方の砦まで攻め込んでいます。これに対し佐々方は、返り鹿垣を設けて土肥勢を一歩も外に出られぬようにし、上杉方と土肥方の連絡も断っています。その間、上杉方の魚津城が落ち援軍も得られなかったため、天正11年(1583年)4月に土肥政繁は佐々成政と和議を結び、越後へ撤退しました。
翌天正12年(1584年)に、土肥氏にとって旧領回復を目指す機会が訪れました。越後の上杉景勝が富山城城主佐々成政への侵攻を企図したからです。土肥氏は、上杉方の先鋒として成政方の境城を落としています。しかし、上杉景勝が佐々成政と羽柴秀吉と和睦したため、上杉軍は越後に撤退し、土肥氏の旧領回復はならなかった。土肥政繁はそのまま越後にとどまり、旧領に帰ることなく異郷の土となった。おそらくこの時点では上梅沢館も廃城となっていると思われます。
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光明寺本堂 |
上梅沢館跡を囲む土塁 |
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正門を館跡から |
土塁跡はかなりの高さです |
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光明寺境内全景 |
手洗い場 |
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住所 |
富山県滑川市上梅沢 |
形式 |
平城 |
遺構 |
土塁 |
築城者 |
土肥氏 |
施設 |
光明寺 |
城主 |
土肥氏 |
駐車場 |
駐車スペースあり |
築城年 |
南北朝期 |
文化財 |
なし |
廃城年 |
天正11年(1583年) |
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